朝の剣道場には、まだ夜の冷たさが残っていた。
板張りの床はしんと静まり返り、窓の外から差し込む薄い光が、白くかすんだ埃を浮かび上がらせている。
時計は六時少し前。体育館棟の他の部活はまだ誰も来ていない。
その真ん中で、竹刀が規則正しく空気を裂いていた。
振りかぶり、振り下ろす。
ただそれだけを、斎藤一郎は繰り返していた。
正眼に構え、息を整える。
右足を少しだけ前に。踵は浮かせて、母趾球に重心を乗せる。
「……いち、に」
声は小さく、数えるのも自分に聞こえるかどうかの大きさだ。
振り下ろすたび、竹刀が「シュッ」と短く鳴る。
早朝の一時間、一人で素振りをするこの時間が、斎藤は嫌いじゃない。
いや――本音を言えば、かなり好きな方だ。
誰かと打ち合うわけでもない。
勝ち負けが決まることもない。
掛け声も、歓声も、顧問の叱咤もない。
あるのは、自分の呼吸と、竹刀の音だけ。
その単純さが、心地よかった。
「……さんじゅう、さんじゅういち」
数を数えるのは、最初のうちだけだ。
百を超える頃には、大体どうでもよくなってくる。
けれど、手は止めない。
無心で振り続ける一時間があれば、三千本は振れる――経験で知っていた。
数字そのものに意味があるわけじゃない。
ただ、そこまで振ったあとでしか味わえない“静けさ”がある。
振りかぶる瞬間、肩に変な力が入っていないか。
振り下ろしたあとの竹刀の軌道が、ほんの少しでもぶれていないか。
左足の送りが遅れて、腰の切れが止まっていないか。
そういう細かい違和感を、一本一本、体の中で確かめていく。
考えようとすると、かえって上手くいかない。
考えまいとすると、いつの間にか勝手に集中していく。
剣と、気持ちが、同じ場所に揃ってくる感じ。
(……剣禅一如、ってほど立派なもんじゃねぇけどさ)
心のどこかで苦笑しながら、それでも竹刀は止めない。
斎藤は、闘争心が強い方ではない。
試合で“どうしても勝ちたい”と思うことは少ない。
むしろ、「ここで決めたら相手が可哀想かな」とか、
「そんなにまでして勝たなくてもいいか」とか、余計なことを考えてしまう方だ。
だから、自分はアスリート気質じゃない、と自覚している。
けれど――
こうして一人で振っているときだけは、話が違った。
ここには、譲るべき相手もいない。
勝ち負けで傷つく誰かもいない。
あるのは、「昨日の自分」と「今日の自分」だけだ。
昨日より、ほんの少しでもましに振れているか。
同じ一本を、あと一ミリでもまっすぐ、あと一瞬でも鋭く。
それだけを相手にしているとき、斎藤はようやく、全力を出しても平気になれる。
「……にひゃく」
額から落ちた汗が、床に小さな円を作る。
息は上がっているが、腕も脚も、まだ動く。
握りを確かめるように竹刀を握り直し、もう一度構えを取る。
右足を、すっと前に。
腰を止めない。背中を丸めない。視線はまっすぐ。
振り下ろす。
さっきよりも、少しだけ重みが素直に落ちた気がした。
(……よし)
声には出さない小さな満足が、胸の奥でカチリと鳴る。
大会で勝てるかどうかは、正直、よく分からない。
部長として後輩をどこまで引っ張れるかも、あまり自信はない。
それでも――
この三千本の素振りだけは、誰にも代わりはできない。
誰かに見せるためじゃない、自分のためだけの積み重ねだ。
そう思えるものが一つあるだけで、
斎藤は、ギラギラした連中と同じ土俵に“なんとか立てている”気がしていた。
「……にひゃくごじゅう」
まだ、先は長い。
けれど、その“長さ”を嫌だとは思わない。
むしろ、その長さごと抱え込むみたいに、
斎藤は再び竹刀を振りかぶった。
窓の外で、東の空がようやく白み始める。
剣道場の中には、相変わらず、竹刀の風を切る音だけが響き続けていた。
/*/感謝の素振り/*/
日曜の午前中。
学校の敷地は、まだどこか寝ぼけているみたいに静かだった。
体育館棟の一角、剣道場だけがぽつんと灯りをつけている。
板張りの床は、磨き込まれた木目がうっすら光を返し、冷たい空気を少しだけ柔らかくしていた。
真ん中に立つのは、斎藤一郎ひとり。
道着に袴。裸足。
その手には、いつもの竹刀。
正面の壁に向かって立つと、斎藤はゆっくりと息を吸った。
「……感謝の正拳突きじゃないけどさ」
小さく、誰にともなく呟く。
「一回くらい、やってみたかったんだよな。通しで、一万本」
時計を見る。まだ九時前。
ここから三時間半。途中でやめなければ、計算上は届く。
無茶かもしれない。
でも、日曜の午前中に他に予定はないし、誰かに見せるわけでもない。
(やるなら、今だな)
そう腹を決めると、構えを取った。
右足を前に。
重心を少し落とし、両手で竹刀を頭上に掲げる。
最初の一振りは、いつも通りだった。
「いち」
振りかぶり、振り下ろす。
“面”の位置で、竹刀の軌道がきっちり止まった。
「に」
同じように、もう一度。
肩の力を抜き、肘を張りすぎないように。背中は丸めない。
「さん、し、ご」
数を数える声と、竹刀の風を切る音が、まだひんやりとした道場に響く。
百本までは、いつも通りの素振りだ。
腕も脚も、まだ軽い。呼吸も乱れない。
五百を超えたあたりから、少しずつ、腕の奥に重さが溜まり始める。
(まだまだ)
そう思って、ペースを落とさない。
切り返しのリズムだけは崩さず、一本一本の軌道だけを見つめる。
「……きゅうひゃくきゅうじゅうきゅう、せん」
千本目を振り終えた瞬間、額から汗がぽたりと落ちて、床に丸いシミを作った。
息が少し荒い。
肩もじんじんしてきた。
それでも足は止めない。
ほんの一拍だけ姿勢を整え、すぐに構え直す。
(ここで休んだら、“一万本やりました”って胸張って言えないしな)
二千本目までは、数を追いかける時間だった。
「何本目まで来たか」を気にしているうちは、まだ意識がはっきりしている。
あと何本、あと何百、とゴールを意識しているうちは、まだ日常の延長だ。
それでも、数を数えることをやめない。
口の中で、ひたすら数字を転がし続ける。
「にせんろっぴゃく……にせんはっぴゃく……」
腕は重くなり、肩は焼けるように熱くなってくる。
脚もじんわりと疲れを訴え始める。
千本単位で、汗の量が変わるのが分かる。
道着が背中に貼りつき、竹刀を握る掌がじっとりと湿る。
(三千……)
ここまで来ると、もう“無茶なメニュー”に入ってくる。
斎藤は一度だけ、足の指を動かして感覚を確かめる。
まだ踏み込める。
膝も、笑いそうにはなっていない。
(いける)
そう判断すると、また無言で振り続けた。
四千本を過ぎる頃には、「いま何本目か」があやふやになってきた。
口の中で「よんせんななひゃく……よんせんななひゃく……」と同じ数字を繰り返している自分に気づく。
(やべぇな、数バグってきた)
苦笑したい気持ちを押し込めて、一度だけ壁の時計を見る。
予定していたペースから大きくは逸れていないと確認し、また数え始める。
この辺りから、意識の“地平線”が変わってきた。
腕の痛みは、完全に居座り始めている。
肩も背中も、火がついたみたいに熱い。
けれど、その痛みが“常在”になると、不思議と意識から消えていく。
痛いのが当たり前になると、「痛いかどうか」をいちいち気にしなくなる。
残るのは、振りかぶる→振り下ろす→足を運ぶ、という循環だけ。
五千本を超えた頃には、斎藤の頭の中から、ほとんど言葉が消えていた。
数を数える声だけが、かろうじて残っている。
「ごせん……ごせんいっぴゃく……」
だが、その数字に意味はない。
ほとんど“呪文”のようなものだ。
竹刀の重さ。
軌道の手応え。
床を踏む足の裏の感触。
世界が、その三つだけになっていく。
汗が目に入っても、拭かない。
視界が霞んでも、構えは崩さない。
竹刀が空を割る音だけが、妙にクリアに耳に残る。
どこかで、掛け声も数もやめた。
気づけば、口は閉じていて、呼吸だけが荒く続いている。
時計を見ない。
何本目かも見ない。
ただ、振る。
振って、振って、また振る。
意識のどこか遠くで、「まだ動くか」「まだいけるか」と自分に問いかける声がある。
その声に対して、身体が勝手に「いける」と応えている感じ。
頭が身体を動かしているのではなく、身体が勝手に頭を引っ張っていく。
半ばトランス状態に近かった。
構えを取るたび、竹刀が勝手に正しい位置に収まる。
振り下ろすたび、足が勝手に最適な幅で運ばれる。
考えたら、逆にぎこちなくなりそうで――考えられなかった。
七千本を超えたあたりで、腕が本気で悲鳴を上げ始める。
竹刀が少しだけ重くなり、切り返しが遅れそうになる。
そのたびに、足下の板を見つめて、意識を足元に戻す。
(腕は勝手に振れる。脚で支えろ)
腰で振る、という感覚だけを残して、上半身の痛みから目をそらす。
八千本。
ここまで来ると、妙なところで冷静さが戻ってくる。
(残り二千って、数字で聞くとエグいな)
心のどこかでそう思いながらも、動きは止まらない。
時間の感覚が飛び、道場の空気の温度も分からなくなる。
ただ、床の感触と、竹刀の重さだけがリアルだ。
九千本目を振り終えたあたりで、一瞬だけ、竹刀が滑りかけた。
汗で濡れた掌。指先の皮が薄くなり、ヒリヒリしている。
握りを少しだけ整える。
それでも、手を止めない。
(最後の千は、惰性でいける。……はず)
自分にそう言い聞かせるというより、意識にラベルを貼るみたいな感覚だった。
残りの三分の一を読み終えた本を、最後までめくり続ける時のくたびれた執念に、少し似ている。
そして――
「……っ」
最後の一振りを終えたとき、斎藤はふっと竹刀を下ろした。
天井が、少しだけ揺れて見える。
脈が耳の裏でどくどく鳴っている。
何秒か遅れて、身体全体が「あ、止まったんだ」と気づく。
足の裏がじんじんと痺れ、手のひらから竹刀が滑り落ちそうになる。
息を整えながら、ようやく時計を見る。
正午を少し過ぎた頃。
始めてから、およそ三時間半。
「……マジか」
笑いとも溜息ともつかない息が漏れた。
突き詰めれば、ただ竹刀を振っていただけだ。
誰かに見せるような派手さもない。記録に残るわけでもない。
けれど――
振っている最中、確かに自分は、何も考えていなかった。
将来のことも、試合のことも、部長としての責任も。
勝ち負けへの苦手意識も、誰かと比べて落ち込むことも。
全部、どこか遠くへ押しやられていた。
その代わりにあったのは、一本一本の軌道と、足の感触と、呼吸だけ。
静止して組む座禅とは違う。
動きながら、振り続けながら落ちていく“静けさ”。
それは、たしかに“動く座禅”のようなものだった。
「……一万本、か」
ぽつりと呟き、斎藤は竹刀を持ったまま、その場にどさりとへたり込んだ。
天井を見上げる。
光の加減も、板の色も、道場の匂いも――いつもと同じはずなのに、どこか少しだけ違って見えた。
腕も脚も、もう動かないくらいに重い。
それでも、胸の奥には、妙に澄んだ感覚が残っていた。
(……まあ、たまにはこういう無茶も悪くないか)
誰もいない剣道場で、斎藤はひとり、静かに目を閉じた。
動いているときにしか辿り着けない、空っぽに近い意識。
それを身体のどこかに刻みつけるように、しばらくのあいだ、ただ呼吸だけをしていた。