そう言えば
昼休みの教室は、どこもかしこもざわざわとうるさい。
二年C組の窓際、女子が何人かで机をくっつけて弁当を広げている一角。
短めのボブカットを揺らしながら、田村真琴がふと箸を止めた。
「どうして、安達はロングにしているんだ? 体操でも、毎日の手入れでも大変だろう?」
首筋がすっきり出たショートのボブだからこそ、余計に気になる疑問だった。
自分は走るために迷わず短くした。だからこそ、腰まである彩女の髪が不思議なのだ。
「――っ」
お箸を動かしていた彩女の肩が、目に見えてびくっと跳ねた。
口に入れかけていた唐揚げをあわてて戻し、視線だけきょろきょろさせる。
「そ、それはね。その……」
ごにょごにょ。
語尾が溶けて何を言っているのか分からない。
(あ、これ地雷だった?)
真琴の額に、じわっと冷や汗が滲む。
体操部の方針とか、家庭の事情とか、踏み込んじゃいけないやつだったのでは――と不安がよぎった。
「ご、ごめん。嫌なこと聞いたなら――」
あわててそう言いかけたところで、横から柔らかい笑い声が割り込んだ。
「んー、別に不味いことじゃないよ、真琴ちゃん」
きょとんとする真琴の前で、愛香が苦笑まじりに箸を置く。
ほんのり微笑んだ顔は、いつもの「何でもない日常」の顔だ。
「彩女ちゃんはね、乙女だからねー」
「ちょ、ちょっと愛香!」
彩女が即座に噛みついた。
耳まで真っ赤になっているのが、ロングの黒髪の間からでも分かる。
「乙女? それが何か関係あるのか?」
真琴は本気で首をかしげる。
スタートラインとゴールラインのことならいくらでも分かるが、「乙女心」のコースレイアウトは未知の領域だ。
「うーんとねぇ……」
愛香は、わざとらしく視線を天井に泳がせてから、にこりと彩女に向き直る。
「……小学校三年生のときからだよねー、彩女ちゃん」
「ちょ、やめ――!」
慌てて制止しようとする彩女より早く、愛香の口が動く。
「ほら、あったじゃない。校庭で鬼ごっこした時」
その一言で、彩女の脳裏にも、真夏の校庭の光景がよみがえる。
――まだ背も今より低くて、髪も肩ちょっと下くらい。
汗で首筋に張り付くのが嫌で、お母さんにゴムでひとつ結びにして貰っていた。
その日も、みんなで鬼ごっこ。
鬼になった青見が、信じられない脚力で次々にクラスメイトをタッチしていく。
最後まで逃げ残ったのは、体育倉庫の影から飛び出した彩女だった。
『あっはは、待てこら青見!』
『お前のほうが速ぇじゃねーか!』
全力で追いかけっこして、ぜえぜえ言いながら終わったあと。
ポニーテールがほつれて、ゴムが外れてしまい、髪がばさっと肩に落ちた。
『あーあ、ほどけた……』
乱れた前髪を指でかき上げた、その瞬間。
『……あ』
目の前で、その「東」がぽかんとした顔になった。
『な、なに?』
『いや……そのほうが、似合うと思っただけ』
何でもないみたいな顔で、さらっと。
『長いほうが、彩女っぽくて、似合う』
それだけを言って、水道の方へ走っていった。
――その一言が、ずっと胸のどこかに残ったまま。
ショートにしたい、と何度思っても。
夕方、鏡の前でゴムをほどくたびに、その声が脳裏で再生されてしまう。
あの「似合うよ」の一言が。
「……っ……!」
今、まさにそれを思い出してしまっている本人は、机の下でぎゅっとスカートを握りしめていた。
「乙女? それと何の関係があるんだ?」
過去の情景を知らない真琴が、なおも首をかしげる。
愛香は、彩女の顔色を楽しそうに眺めながら、さらっと続けた。
「えっとね。簡単に言うと――」
にこり、と笑って、
「小3の鬼ごっこのときにね、青見くんに『長いほうが似合う』って言われてから、ずーっとロングなんだよ、彩女ちゃん」
「愛香ぁーー!!」
机がガタンと鳴った。
彩女が立ち上がりかけて、慌てて椅子を引き寄せて座り直す。
「誰が……そんな昔の話まで持ち出せって言ったのよ!」
「事実でしょ? ね、小三から、ずっと長いままじゃん。途中でバッサリ行こうとしたの、一回だけでしょ?」
「……っ」
図星を刺され、彩女は口を閉じるしかない。
一度だけ、本気でショートにしようと美容院の予約まで取った日があった。
でも、その前日に体育館で青見が何気なく言ったのだ。
『昔からその髪見てきたからな。切ったら、なんか別人みたいになんのかなって』
それを聞いてしまったせいで、結局「毛先を少し揃えるだけ」にしてしまった過去がある。
「つまり……東に『似合う』って言われたから、ってことか?」
真琴が、ゆっくりとまとめるように言う。
「ちがっ……! それ“だけ”じゃないから!
慣れた長さだし、ほら、あたし、身長あるし……ロングの方がバランスとか、その……」
「でも、小3からずっと切らずに育ててきた理由のスタート地点は?」
愛香が、とどめを刺すように、にっこり。
「……っ」
沈黙が答えだった。
真琴は、自分のショートボブの毛先を指でつまみながら、ちらりと彩女の髪を見る。
腰の少し上まで届く、まっすぐな黒髪。
確かに、あれを洗って乾かして、結んで……という日々は、なかなかの負荷だ。
(小三の一言で、ここまで積み重ねるのか……)
「……結構、根性あるんだな、安達」
「根性とか、そういう話じゃないから!」
彩女が、なおも抵抗を試みる。
愛香は、ふふっと笑ってお茶を飲んだ。
「そういうのをね、“乙女心”って言うの。真琴ちゃん。
『小3からずっとロングなのは、好きな人に似合うって言われたから』って、乙女ポイントかなり高めだよ」
「小三から……?」
真琴は、短距離走のラップタイムを計算するときみたいな顔で考え込む。
「それは確かに、走り込み並みに重いな……」
「だから言ったでしょ。彩女ちゃんは乙女だから、ロングなの」
「愛香、マジで黙ってて!? ほんとでしゃばらないで!!」
そのとき、ちょうど教室の後ろのドアがガラリと開いた。
「おーい、戻ったぞー。パン争奪戦、辛うじて勝利」
惣一郎の能天気な声と一緒に、購買から戻ってきた男子の一団が入ってくる。
その中に、見慣れた長身もいた。
「……っ!!」
彩女の背筋が、また別の意味でビッと伸びる。
「ほら、ご本人登場」
愛香が口元だけで囁く。
「ねぇ彩女ちゃん、小三の話、本人に覚えてるか聞いてみ――」
「やめろぉぉぉーーー!!」
昼休みの喧騒に、彩女の悲鳴と、魔女みたいに笑う愛香の声が溶けて消えていった。