なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

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記録開始

 

 

 放課後のグラウンドに、夕陽が長い影を落としていた。

 

 トラックの内側では一年生たちがストレッチをしていて、その外側──四百メートルトラックのホームストレートに、安達彩女が立っている。

 

「じゃ、五千からいってみようか」

 

 森下先生が、首から下げたストップウォッチを持ち上げる。

 四十二歳、ちょっと腹が出てきた中距離上がりの顧問だが、タイムを計る目はまだ鋭い。

 

「はーい」

 

 彩女は、軽く手を挙げて応えた。

 体操のジャージの上からでも分かる、細く締まった脚線。陸上の選手として見れば「線が細い」と評されるだろう体つきだ。

 

 その横で、田村真琴は腕を組んで見守っていた。

 

(五千メートルなんて、まともに走ったことないって言ってたけど……)

 

 スタートラインに立つ彩女の横顔には、不安も緊張も見えない。

 ただ「ちょっと走ってきまーす」とでも言い出しそうな、いつもの調子だ。

 

「位置について──よーい」

 

 パンッ、と手拍子が鳴った瞬間、彩女の身体がふっと消えたように見えた。

 

「……速っ」

 

 思わず真琴の口から漏れる。

 スタートダッシュだけなら、自分もそこそこ自信はある。だが、あの加速は別物だった。スパイクも履いてない、普通のシューズであの出足。

 

 一周、二周、三周。

 

 フォームは乱れない。腕振りもピッチも、最初から最後までほとんど落ちない。

 むしろ三千を過ぎたあたりから、ストライドがわずかに伸びているようにすら見えた。

 

(嘘でしょ……)

 

 ラスト一周、ゴール手前のストレート。

 彩女が最後のスパートをかけた瞬間、風が一段階変わった気がした。

 

「ゴール!」

 

 森下先生がストップウォッチを押す。

 

「……え?」

 

 間の抜けた声が、顧問の口から漏れた。

 真琴もすぐに横から覗き込む。

 

「センセ、タイムは?」

 

 液晶に表示された数字を見て、真琴は言葉を失った。

 

 ──男子の国内トップ選手でも、めったに出ないようなタイム。

 

「……計測、ミス……だな。うん、きっとそうだ」

 

 自分に言い聞かせるように、森下先生が首を振る。

 

「え? そんなに悪かった?」

 息を整えながら戻ってきた彩女が、少しだけ不安そうに聞く。

 

「いや、逆。逆だ、安達」

 

 真琴は思わず、彩女の全身をじろじろ見てしまう。

 汗で張り付いたジャージの下は、確かに筋肉はある。けれど、見慣れた陸上選手の“ゴリゴリ”とはまた違う、しなやかなラインだ。

 

「……五千だけじゃ、信じられないな。安達、百もいけるか?」

 

「百? いいよ」

 

 彩女は笑って、軽く肩を回す。

 何本目だとか、疲れたとか、そういう顔をしないのが逆に怖い。

 

 スタート地点に並び直す。

 

 今度は短距離専門の真琴の目が、スタートのフォームを凝視する。

 

(重心、前。反応も良い。けど──)

 

 理屈で説明できない“何か”がある。

 それは、銃声の代わりの「よーい」の声と、手拍子が鳴った瞬間に分かった。

 

「はっや……!」

 

 スタートの一歩目で、もう勝負が決している。

 トップスピードに乗るまでの加速が、常識の範囲からすっぽり抜け落ちていた。

 

「ゴール!」

 

 また、ストップウォッチが鳴る。

 森下先生の手が、震えている。

 

「……おかしい。こんなはずはない。手取りでここまで狂うわけがない」

 

 先生は何度もリセットボタンを押し直しては、さっきの表示を思い出したように顔をしかめる。

 

 真琴はようやく、喉の奥から言葉を押し出した。

 

「……あの細い体のどこにそんなパワーとスタミナが……」

 

「え、褒めてる?」

 

 ケロッとした顔で首をかしげる彩女。

 本人に自覚がないのが、またタチが悪い。

 

「最後。四百も計らせてくれ」

 

 森下先生の声は、もはや必死だった。

 五千、百、それぞれ一回だけなら「たまたま」「測り間違い」で済ませられる。だが、距離も質も違う三種目で同じレベルの“異常値”が出るとなれば話は別だ。

 

「はいはい。これで最後ね。お腹すいたし」

 

 彩女はぐっと腕を振って、三度目のスタートラインに立つ。

 

(四百……一周ぶっ通しで飛ばすやつ。さすがに、これは落ちるだろ)

 

 真琴は、自分の中でそう結論づけていた。

 五千と百の両方でトップクラスのタイムが出るだけでも人間離れしている。そこにさらに四百まで、なんて──

 

「位置について──よーい」

 

 手拍子と同時に、彩女が走り出す。

 

 一コーナー、二コーナー。

 バックストレートでもスピードはほとんど落ちない。

 三コーナーから四コーナーに入っても、フォームは崩れない。むしろ、ここからが本番と言わんばかりに、地面を蹴る音が力強くなる。

 

(いやいやいやいや)

 

 真琴の中の「陸上部としての常識」が、悲鳴を上げる。

 

「ゴール!」

 

 三度、ストップウォッチが押された。

 

 数秒間の沈黙。

 

 そして──

 

「……出た」

 

 森下先生が、ぼそりと呟いた。

 顔は驚愕を通り越して、何かを悟ったような表情だ。

 

「せ、先生? タイム……」

 

「田村」

 

 真琴が恐る恐る声を掛けると、顧問はゆっくりと顔を上げた。

 

 その目は真剣そのもの。いつもの、ゆるいおじさん顧問の顔じゃない。

 

「……世界を目指そう!」

 

「は?」

 

 真琴と彩女の声が、見事にハモった。

 

「いや、あのね先生。あたし体操部だし」

 

「そんなことはどうでもいい!」

 

 森下先生は、珍しく声を張り上げた。

 

「五千に百に四百だぞ!? どれも男子の全国レベルを“上回ってる”んだ! スポーツの神様が歩いてきたレベルだ! 部活がどうとか、そういう次元じゃない!」

 

「スポーツの神様って……」

 

 真琴は、さっき自分が抱いた感想を思い出す。

 

(スタートラインとゴールラインなら、いくらでも分かるつもりだったけど……

 こんなの、“コースレイアウト”どころじゃない)

 

 目の前にいるのは、同じクラスの、ちょっとツンツンしてて、彼氏の話になるとめっちゃ分かりやすく照れる女の子。

 

 ──の、はずだ。

 

「安達!」

 

 森下先生が一歩、ぐいっと距離を詰める。

 

「君は、世界を目指せる。いや、目指さなきゃいけない。これは義務だ」

 

「義務!?」

 

「そうだ! これは才能以前の“事件”だ! 人類の走力が一段階インフレするレベルだ!」

 

「なんか大げさになってきたんだけど!?」

 

 わぁわぁ言っている二人を見ながら、真琴はふっと笑ってしまう。

 

(……でも、ちょっと面白いかも)

 

 乙女心のコースレイアウトはよく分からない。

 だけど、スタートラインとゴールラインが“世界”に伸びていくかもしれない誰かの始まりなら──

 

「安達」

 

 真琴は、横から彩女の肩を軽く小突いた。

 

「とりあえず、うちの部の記録、全部塗り替えてからにしようか。世界はその後で」

 

「なんでそういう話になるのよ!」

 

 夕焼けのグラウンドに、三人分の笑い声が響いた。

 

 

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