マットを倉庫に運び込み、一息ついたところで──彩女の頭の中には、さっきの「ナショナル強化指定選手」という単語だけが、ぐるぐる回っていた。
(ナショナルだの世界だの言われてもさ……)
気付いたら、口が勝手に動いていた。
「あのさ、片桐先生」
「はい?」
記録ノートをチェックしていた片桐先生と、まだ床に膝をついていた森下先生、ついでにファイルを閉じかけていた結先生の視線が一斉に集まる。
彩女は、バツの悪そうな顔をしつつも、引っ込めるタイミングを完全に逃していた。
「そもそもさ──ナショナル強化選手とか、世界選手権とか出場して、生活していけるんですか?」
「……はい?」
「いや、だって」
彩女は思いきり現実的な声になった。
「野球選手みたいに、年俸何億とか貰えませんよね? 優勝したら一生分の年金出ます、とかでもないし。
“世界で戦えます”って言われても、“家賃払えません”って話じゃないじゃないですか」
体育館の空気が、もう一回止まった。
通路の端っこで、真琴が「そこ突っ込むかー」と小声で呟く。
「いや、まあ……」
片桐先生が、珍しく言葉に詰まる。
「確かに、体操選手で年俸何億、という世界ではありませんが……スポンサーとか、実業団とか──」
「スポンサーって、あのテレビで見るキラキラの人たちですよね。
あたし、どう考えてもああいう“お人形さん枠”じゃないですよ?」
「自己評価が極端だな、お前」
真琴がツッコむが、彩女は止まらない。
「世界選手権とか出たら、それはそれでカッコいいんだろうなとは思いますよ?
でも、東のお嫁さんになるって前提なら、家計のこと考えないといけないじゃないですか。
あいつにだけ一生苦労させるのもイヤだし」
「そこで“家計”の話に行く女子高生、初めて見たぞ、俺……」
森下先生が額を押さえた。
「いや、でもまあ、現実的な視点としては、間違ってはいないですね」
結先生は、妙に真面目な顔でうなずく。
「スポーツでトップを目指す道と、“東くんのお嫁さん”という進路の両立は、確かに簡単ではありません」
「そこで並べて語られる“お嫁さん”と“世界選手権”って何なんだよ……」
森下先生が、天井を仰ぎながらぼそっと言う。
「田村さんはどう思います?」
結先生が、通路の端にいる真琴に振る。
「え、私っすか?」
真琴は、ショートボブを指先でくいっと払ってから、真面目に考えた。
「……正直、年俸とかはよく分かんないですけど。
でも、世界行ける身体と運動神経持ってるのに、“東のお嫁さん”だけで終わらせるの、なんか勿体ないなとは、思います」
「お嫁さん“だけ”じゃないからね!?」
彩女が即座に噛みつく。
「あたしだってちゃんと働くし! 東に寄生する気とかないし!」
「そういう意味じゃなくてだな」
真琴は少し言葉を選ぶように続ける。
「スタートラインに立てる人間って、そもそも限られてるじゃないですか。
ナショナル強化とか世界選手権とか、そういうラインに立てる人って、もっと限られてる。
そこに行ける才能があるなら、一回はスタートラインに並んでみた方がいいんじゃないか、って」
「……」
彩女は、ちょっとだけ黙り込む。
スタートライン。
ゴールライン。
真琴にとっては日常の単語だが、言われてみれば体操だって同じだ。
(世界のスタートラインに、あたしが並ぶ……ね)
「まあでも」
真琴は、ぽりぽりとほっぺたをかきながら、続けた。
「“そのあと”どうやって生活していくかは、ちゃんと考えなきゃいけないっすね。
そこは、先生たちがセットで教えてくれないと困ります」
「急にボールがこっちに飛んできたな」
森下先生が苦笑する。
「生活設計込みで指導、ですか」
片桐先生も、やれやれと肩をすくめる。
「でもまあ……安達さん」
「なに?」
「野球選手みたいに年俸何億は無理でも、“世界に出た”っていう看板と経験は、あなたの一生の財産にはなりますよ」
静かな声で、片桐先生は言う。
「それを“家計”にどう変換するかは、確かに工夫が要るでしょうけどね。
指導者になる道もあるし、体操じゃない仕事をしながらでも、“元日本代表の東青見の嫁”って肩書きとセットなら──」
「なんでそこに東混ぜるんですか!」
彩女が全力で食いつく。
「いやだって、進路希望にそう書いてあったから……」
片桐先生が、結先生を見る。
結先生は、なぜか得意げにうなずいた。
「公的書類に書いてあることは、重く見ないと」
「書類の問題じゃない!!」
彩女が叫ぶと、倉庫の陰から一年生たちのくすくす笑いが漏れた。
結先生は、そんな彼女を見て、少しだけ表情を和らげる。
「でも、安達さん」
「……なに」
「“野球選手みたいに何億もらえないから、夢見ない”って顔は、あなた似合わないですよ」
「……」
「どうせ悩むなら、“世界も東くんも両方取りたいけど、どうすればいいですか”って顔の方が、あなたっぽい」
図星を刺されて、彩女は言葉を失った。
(両方取りたい、か……)
ナショナルも、世界も。
東のお嫁さんも。
どれか一つを諦める前提で考えるより、「どうにか全部抱え込むには」と悩んでいる自分の方が、よほど“自分らしい”のかもしれない。
「……なんか、ハードル上げられた気がするんですけど」
ぼそっと言うと、横から真琴が笑った。
「スタートライン二つくらい、何とかなるっしょ、安達なら」
「人の人生を200メートル走みたいに言わないでくれる?」
彩女は、ため息まじりにそう返しながらも。
(どうせ走るなら──)
心のどこかで、もう一度、さっきと同じことを思っていた。
(東と一緒にいられるところまで、ちゃんとゴールしてやる。
ナショナルだろうが世界だろうが、家計だろうが、その上で)
そう決めた顔で、彩女はマットの山の方へ歩き出した。