放課後、職員室前の廊下。
答案返却を終えた帰り道、彩女はプリントの束を抱えて結先生と並んで歩いていた。
「……はぁー。惣一郎、またノー勉であの点数なの、なんかムカつくんですけど」
「“ノー勉”って本人が言ってるだけで、頭の中ではそれなりに整理してるんだと思いますよ。
あの子、一回聞いたことはだいたい覚えてますからね」
「そうなんですよねぇ……。テスト前に教えたら、そのまま本番でケロッと解いてるし」
彩女はプリントをぱさぱさ振りながら、ふと思いついたように言った。
「先生、惣一郎に将棋とかやらせればプロ棋士になれるんじゃない?」
結先生は「ふむ」と少し考える顔をしてから、くすっと笑った。
「飲み込みは早いでしょうけど、棋譜を研究するところまでいかないでしょうね」
「やっぱそう?」
「“あ、これ面白い”ってなったところまでは一気に伸びるんですけどね、惣一郎くん。
そこから“地味な積み上げ”になると、別の面白いこと探しに行っちゃうタイプです」
「あーー……めっちゃ分かる……」
彩女は、惣一郎が新作ゲームを一晩でやり込んで、三日後には別のジャンルに移っている姿を思い出して、深くうなずいた。
「終盤研究とか、定跡覚えとか、“一人で黙々とやる時間”が長い世界ですからね、プロは」
「惣一郎、絶対途中で『これ実戦で出ねーじゃん』とか言いながら飽きる」
「言いますね、あの子なら間違いなく」
二人して、想像が揃って苦笑する。
「でもまあ、才能があるのは確かですよ。
将棋でもチェスでも、ちょっとかじらせたら、学校の中ではすぐ頭ひとつ抜けると思います」
「けど、“プロ”になるには足りない、と」
「そうですね。あの子が本気で何かを詰めるとしたら――」
結先生は少しだけ目線を上げた。
「たぶん、“誰かのために必要になった時”ですよ。
東くんとか、愛香さんとか、あなたとか。誰かが困ってて、
『オレがやるしかねーじゃん』ってなったら、一気に研究し始めるでしょう」
「……惣一郎、ありそうだな、それ」
彩女は、なんとなく想像できてしまって、肩をすくめた。
「でもまあ、今のとこはゲームと悪ふざけと、たまに勉強、くらいで止めといてもらった方が平和かも」
「そうですね。あれ以上“プロ級の何か”が増えたら、
東くんの胃が先に限界を迎えます」
「あ、それは困る!」
二人の声がぴたりと揃い、思わず顔を見合わせて笑った。
廊下の窓の外には、夕暮れ前のグラウンド。
そこを駆けていくクラスメイトたちを眺めながら、彩女は心の中で小さく付け足した。
(……ま、惣一郎は惣一郎で。
“プロ棋士”じゃなくて、“あたしたちの悪友”でいてくれれば、それでいいか)
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夕方のキッチンには、オーブンの熱気と、ハーブとバターの匂いが充満していた。
「……よし、あと五分」
タイマーの数字を確認して、あたし――安達彩女は、小さく息を吐いた。
慣れてきたはずのエプロンの紐が、今日はやけに胸のあたりを締め付ける。
コンロの上では、スープがことこと小さく音を立てていた。
テーブルの端には、折り目のついたレシピ本。
『ちょっと手の込んだ、おうちディナー特集』
このあいだ、本屋で必死に選んで買ってきたやつだ。
何度もページをめくって、中から選んだメニューは――
メインが、「チキンと季節野菜のハーブロースト」。
付け合わせに、ポテトのグラタン。
サラダと、具だくさんのミネストローネ。
デザートに、少し頑張って作ったプリン。
冷静に考えれば、女子高生の家ごはんにしては、ちょっと張り切りすぎなラインナップだ。
(……いいの。今日は“花嫁修行・実技試験”だから)
心の中でそう言い訳しながら、サラダの上にオリーブオイルを薄く回しかける。
きっかけは、一か月前。
『あんたねぇ、進路希望に“東くんのお嫁さん”って書いたんだからさ』
『書いたの覚えてて欲しくなかった!』
あの後、しっかりお母さんに捕まり――
『花嫁修行、ちゃんとしなさい。最低限、一通りのご飯は作れるようになってから言いなさい』
『……ですよねぇ』
という流れになり。
それから毎週末、台所で「基礎の基礎」からたたき込まれ。
出汁の取り方。
野菜の切り方。
煮物、焼き物、揚げ物、炒め物。
ようやく「一通りのご飯」が形になってきた頃、お母さんがぽつりと言ったのだ。
『そろそろ、青見くんにも食べさせてみる?』
もちろん、二つ返事で頷いた。
そこまでは良かったのだけど――
「で、青見んちに持ってくのは?」
と言ったあたしに、お母さんは即座に首を振った。
『ダメです』
『なんで!?』
『青見くんちに行って食べさせたら、そのままいい雰囲気になって流されるに決まってるでしょ』
『決まってないでしょ!?』
『うちのはまだ成人式前の娘なの。
“彼氏の家で手料理”は、もっと後のイベントに取っときなさい』
なんだそのイベント管理。と内心思ったけど、口には出さなかった。
代わりに、お母さんはにやっと笑って付け足した。
『それにね、最初の一回は“安達家に嫁ぐ気がありますか試験”でもあるから』
『そんな試験票、配った覚えないんだけど!?』
『いいのいいの。どうせあの子、“はい”って書いて提出してくるわよ』
……と、まあ、そんな会話を経て。
今日は「安達家に東青見を招いて、彩女の手料理を食べさせる会」となったわけだ。
◇ ◇ ◇
玄関のチャイムが鳴ったのは、タイマーが残り二分を指したタイミングだった。
「来た!」
思わず小声で叫ぶと、お母さんが台所の入り口から顔を出す。
「彩女、オーブン見るから。あんたは玄関迎えてきなさい」
「う、うん!」
エプロンの裾の粉をぱっぱっと払って、廊下を駆ける。
扉を開けると、そこにはいつもの東青見――なんだけど、なんか今日はいつもよりきちっとして見える。
「よ、お邪魔しまー……す?」
途中で、あたしのエプロン姿を見て、一瞬言葉が途切れた。
「なに、その間」
「いや、その……似合ってるなと思って」
「……っ、先に言うなそういうの!」
顔が熱くなるのをごまかすように、乱暴にスリッパを出して突き出す。
「ほら、早く上がって。時間との勝負なんだから」
「料理勝負の試合会場か何か?」
苦笑いしながら靴を脱ぐ青見を急かして、リビングに案内する。
テーブルの上には、ほとんどの料理が並びつつあった。
お母さんがちょうどオーブンからホットプレート代わりの天板を取り出したところで、ローズマリーとガーリックの香りがふわりと広がる。
「わぁ……」
青見の口から、素直な感嘆が漏れた。
「なんか、すげぇ本格的じゃない?」
「本の通りに作っただけだから」
そう言いつつも、ちょっと胸を張ってしまう。
「いらっしゃい、青見くん」
台所側から、お母さんがエプロン姿で顔を出した。
「今日はモルモット役、よろしくね」
「モルモットて」
青見が苦笑しながら頭を下げる。
「いつもお世話になってます」
「こちらこそ。うちの娘、だいぶ“食べさせる側”にも回れるようになってきたからね。
正直な感想、あとで彩女と二人でゆっくり言ってあげて」
「ちょっとお母さん!! ハードル上げないで!!」
「ハードル上がった分くらいは、味で跳び越えなさい」
軽口を叩き合いながら、席に着く。
青見の前には、ミネストローネとサラダ。
真ん中には、こんがり焼けたチキンと、表面がカリッと焼けたグラタン。
「飲み物は?」
「オレンジジュースとウーロン茶どっちがいい?」
「ウーロンで」
「了解」
コップを二つ並べ、あたしも向かいに腰を下ろしたところで、お母さんが手を叩く。
「はい、それじゃ、私たちはあっちの和室で別メニュー食べてるから。
何かあったら呼んでね」
「え、別?」
「邪魔しちゃ悪いでしょ? でもリビングのドアは開けとくからね」
「なんでそこだけ監視体制なの」
「“成人式前”だからです」
意味があるようなないようなことを言って、お母さんはニヤニヤしながら退場していった。
残されたあたしと青見は、しばし微妙な沈黙に包まれる。
「あー……」
「えっと……」
同時に口を開きかけて、目が合って、ふっと笑ってしまう。
「とりあえず、食べよ」
「だな」
コップを軽く合わせて、「いただきます」と声をそろえた。
◇ ◇ ◇
最初に手を伸ばしたのは、ミネストローネだった。
レンゲですくって口に運んだ瞬間、青見の目が少しだけ丸くなる。
「……うま」
「ホント?」
「ああ。ちゃんと野菜の甘さ出てる。
なんか、家で飲むスープって感じじゃないな。店っぽい」
ほっと胸を撫でおろす。
(よかった……塩加減ギリギリまで悩んだんだよね、これ)
続けて、チキンのハーブローストにナイフを入れる。
皮はぱりっと、肉はまだジューシー。
青見は一口噛んで、しばらく黙り込んだ。
「……」
「えっと」
反応がないのが逆に怖い。
「その、どう?」
青見は、しばらくしてから真面目な顔で言った。
「……彩女」
「な、なに」
「これ、家の食卓にそのまま出てきたら、オレ、普通に泣くかもしれない」
「褒めてんのそれ!?」
「褒めてる。めちゃくちゃうまい」
照れくさそうに笑ってから、付け足す。
「ちゃんと、“あったかい家の飯”の味がする」
その一言で、胸の奥がじんわり熱くなった。
青見の家の、「今はない食卓」のことは、うっかりすると泣きそうになるから、あんまり考えないようにしてきたけど――
(……いつか、ちゃんと埋められたらいいなって思ってた)
そんな場所に、少しでも近づけているなら。
「……ふふん。まあ、あたし、花嫁修行してるからね」
わざと偉そうに言ってみせる。
「先生が厳しくてさー。玉ねぎの切り方から何回やり直しさせられたか」
「先生って、おばさん?」
「そう。うちの鬼コーチ。
“青見くんのお嫁さんって書いたなら、その覚悟見せなさい”とか言ってくんの」
「……マジで言いそうだな、安達のおばさん」
苦笑いしつつも、青見は次々と皿に箸を伸ばしていく。
グラタンも、サラダも、スープも。
思ってた以上のペースで、どんどん減っていく。
「……そんなに急いで食べなくても」
「いや、なんか止まらなくて」
「それは嬉しいけどさ」
気がつけば、テーブルの上の皿はきれいに空に近づいていた。
食後のプリンを出して、一段落。
カラメルを少し苦めにしたそれを、一口食べて、青見がふっと目を細める。
「なんか、反則級のデザート出てきたんだけど」
「失礼な。ちゃんとレシピ見て作ったもん」
「そこがすごいんだよ」
スプーンをくるくる回しながら、ぽつりと。
「美味しいよ。また食べたい」
「ホント!」
思わず乗り出してしまう。
「毎日でも?」
「うん、毎日でも……うん?」
言いかけて、青見の動きが固まった。
自分で言った言葉の意味に、ワンテンポ遅れて気づいたらしい。
「ま、毎日は、あれだ、その……」
「いま、“毎日でも”って言ったよね?」
「いや、その、ほら。部活の日とか、彩女も忙しいだろうし」
「違う違う。そういう話じゃなくて」
にやり、と笑ってしまうのを止められない。
「“毎日でも食べたい”ってことは、“毎日一緒にご飯食べる”ってことで。
“毎日一緒にご飯食べる”ってことは――」
「言わせんな!」
真っ赤になってスプーンでテーブルをコツンと叩く青見。
「オレは、ただ、その……彩女の飯が、すげー美味しかったから、
“また食べたい”って思っただけで!」
「“毎日”付きでね?」
「……っ」
図星を刺されて、言葉に詰まる。
その様子を見ていたら、さっきまで緊張でカチカチだった胸のあたりが、ふわっと軽くなった。
「……ありがと」
少しだけ真面目な声で言う。
「あたしさ、料理、正直そこまで得意になれる自信なかったんだけど。
“青見に食べさせたいから”って思ったら、何とかここまで来れたからさ」
「彩女……」
「だから、今日“また食べたい”って言ってもらえたの、結構ズルいくらい嬉しい」
視線を逸らしながら、笑う。
「毎日とは言わないからさ。
時々でいいから、“彩女の飯食いたいな”って思い出してくれたら、
そのときまた頑張って作るから」
青見は、しばらく黙ってあたしの顔を見ていたけれど――
やがて、少しだけ息を吐いて、苦笑した。
「……分かった。
時々ってことにしとかないと、安達のおばさんに殺されそうだしな」
「でしょ」
「でも、“時々”の頻度は、オレが決めていい?」
「それは――」
一瞬迷って、口元が勝手に笑ってしまう。
「――青見の胃袋と相談して決めなさい」
「じゃあ、毎週で」
「胃袋の限界値どこいった」
二人で顔を見合わせて笑ったとき――
リビングのドアの向こうから、小さく「ふふ」と笑う声が聞こえた気がした。
(……聞いてるな、絶対)
そう確信しつつも、変に水を差されたくなくて、あえて何も言わない。
テーブルの上には、空になった皿と、まだ少しだけ残ったプリンと。
そして――
「毎日でも」と言いかけて、慌てて止めた青見の言葉の続きが、
あたしの胸の中で、ずっとあったかく響いていた。