涙腺がじんわり危なくなってきたところで、わたしはわざとらしく息を吸い込んだ。
「……まあいいわ」
「え、もういいの?」
「よくないけど、今ここで説教しても患者に負担かけるだけでしょ。あとで回収するから覚悟しときなさい」
「え、アフター説教あるの……?」
「あるに決まってるでしょ」
わざときつく言ってから、少しだけ声を柔らかくする。
「それより。必要な物あるでしょ。家から持ってきてあげるわ。感謝しなさい」
言いながら、自分で「あ、わたし今すごい彼女ムーブしてない?」と一瞬だけ頭を抱えたくなる。
でも、青見の家はうちの隣だし、夏にご両親が亡くなってから、東家の鍵はずっとわたしの家で預かっている。
新聞受けを確認したり、ポストの中身を抜いたり、窓がちゃんと閉まってるか見に行ったり。
完全な「空き家」にしないようにって、貴也さんがそう決めて、惣一郎が面倒くさがって、最終的に「じゃあ安達さんにお願いできる?」と押し付けられた、という経緯はあるけれど。
「……そっか。安達ん家、鍵持ってんだよな」
青見が、少しだけ照れたように目をそらす。
「ありがとう。着替えとかないから、どうしようと思ってたんだ」
「でしょ。病院のパジャマだけじゃ心もとなくない?」
「まあな。……他になにかある?って聞かれると、ちょっと悩むけど」
「ゲーム機とか?」
軽く振ってみると、青見は「うーん」と唸ってから、ぽんと手を打った。
「――それじゃあ、ノートPCをお願いしてもいいかな」
「ノートPC?」
「うん。部屋の机の上に置いてあるやつ。あれあれば、課題もできるし、暇も潰せるし」
「真面目なんだか不真面目なんだか……」
呆れたふりをしつつ、内心では「いつも通りだ」と少し安心する。
「OK。部屋にあるノートPCね。あと、着替えと、タオルと……洗面用具もいるでしょ?」
「あー、あると助かる。あと、ベッドの横の棚にさ、黒いリュック置いてあるだろ?」
「うん、あれ見れば、だいたい分かる感じ?」
「そう。中に普段使ってるの一式入ってるから、それごと持ってきてもらえれば」
「了解。じゃあ、ついでに部屋、ちょっとだけ片付けといてあげようか?」
「やめて!? 死ぬほど恥ずかしいからそれはやめて! ていうか今“ついで”って言ったよな!? ついで感覚で人のプライバシーに土足で――」
「冗談よ」
声を立てて笑うと、青見は「マジでやりそうだから怖いんだよ」とぼやきながらも、どこかほっとしたように笑っていた。
さっきまで張りつめていた何かが、すこしずつ解けていく。
病室の空気も、最初に入ってきた時より、少しだけあたたかく感じられた。
「じゃ、ひとまず戻るわ。忘れ物あったらLINE――あ、スマホ死んでるんだった」
「そう。連絡術が封じられてる」
「じゃあ、賭けで持ってくから。足りない分はその場で文句言いなさい」
「うん。……悪いな、ホント」
「いいわよ。どうせ帰り道、隣だし」
何でもないふうに言って、立ち上がる。
本当は「ありがとう」の一言でぐらっと来そうだから、わざと軽口だけ残して。
ドアノブに手をかけたところで、ふっと振り返る。
「――一週間で退院するんでしょ?」
「ああ。先生はそう言ってた」
「その時までに、説教内容まとめとくから覚悟しといて」
「退院したら即説教か……」
「文句言わない」
そう言い捨てて、今度こそ病室を出る。
廊下に出た途端、さっきまでより少しだけ、世界の色が明るく見えた。
(とりあえず――ノートPCと着替え、ね)
心の中でリストを確認しながら、わたしは月城総合病院の出口へと足を向けた。
隣の家の鍵がポケットの中で小さく触れ合って、ちり、と音を立てた気がした。
/*/
一週間の入院生活。……というか、半分は通勤みたいなものだった。
学校が終わると、わたしはそのまま駅に向かわず、いつものように月城総合病院行きのバスに乗る。
最初のうちは「今日だけ」「様子を見に行くだけ」と自分に言い訳していたけれど、三日も続けばそれはもう習慣になり、五日も経てば看護師さんたちの間で、立派な「話題」になっていた。
「安達さん、今日も来たのね。偉いわねぇ」
「彼氏さん、喜ぶわよ?」
ナースステーションの前を通るたび、なぜか笑顔でそう声をかけられる。
「か、彼氏じゃないです」
毎回きっちり否定しているのに、どういうわけかそのたびに「はいはい」とでも言いたげな目で見られるのは理不尽だと思う。
(……まあ、毎日通ってる時点で、言い訳しづらいけどさ)
花瓶の水を替えて、差し入れをテーブルに並べて、宿題のプリントを渡して。
そんなことを繰り返すうちに、病室はすっかり「青見の部屋」というより「半分わたしの詰め所」みたいな空気になっていた。
――その空気が、少しだけざわつき始めたのは、入院から数日経った頃。
三森玲子が、お見舞いにやってきた日だった。
/*/
「えっと、東くんのお部屋って、三階の……」
エレベーターホールの方から、少しおどおどした声が聞こえてくる。
ナースステーションに寄っている最中だったわたしは、何気なくそちらに目を向け――そして、ぴたりと動きを止めた。
髪をおさげにした、小柄な女の子。
制服のサイズが少し大きいのか、袖がほんのわずか余っていて、手首のあたりでくしゅっとたるんでいる。
利発そうな、大きな目。
(……あれ?)
中学校の制服だ。
誰かのお見舞いだろうか?
「東くんのご友人?」
看護師さんが優しく声をかけると、その子はこくんと頷いた。
「はい。……あの、命を助けてもらったので、その……お礼を」
(命?)
その単語に、ナースステーションの空気が目に見えてざわついた。
「この前の、ひき逃げ事故の子よね?」
「そうそう。犬のお散歩中に車に轢かれそうになったところを、間に入って庇ってくれたっていう」
看護師さん同士のひそひそ話が、自然と耳に入ってくる。
(……犬の散歩? ひき逃げ? ああ、あのカバーストーリーの……)
理事長室で説明された、伊集院さんの用意した「表向きの話」が頭の中に浮かぶ。
フォーマルハウトだの怪異だのという単語が出てこない、世間的に安全な物語。
――犬の散歩中、飛び出したところを車に轢かれそうになり、
――そこにたまたま通りがかった東青見が飛び込んで、彼女を庇って怪我をした。
ということになっている。
(ってことは、この子が……)
「はい、三森さんね。カルテにもお名前ありましたよ」
看護師さんが笑顔で相手の名前を口にした。
(三森……玲子)
頭の中で、何かがカチリと繋がる。
ネットのログ。
「カモノハシ」のID。
玲子、という名前。
断片的に聞いていた情報が、ここで一人の人間の形を取った。
(うわ、マジで実在してた……)
失礼な感想だとは思うけれど、正直な感想だった。
「東くんの病室は305号室だからね。個室よ。……あら、安達さん」
看護師さんの視線がこちらに向いた。
「今から行くところ?」
「はい。宿題持ってきたので」
「じゃあ、ちょうどいいわ。一緒に行ってあげたら?」
そんな風に話を振られてしまえば、断る理由もない。
わたしは少しだけ姿勢を正して、玲子の方を向いた。
「――あの。安達彩女です。青見のクラスメイト」
「っ……! あ、はじめまして。三森玲子です。その……お世話になってます」
玲子は、ぺこりと深く頭を下げた。
おさげが、ぴょこんと揺れる。
その仕草が妙に小動物っぽくて、ちょっと可愛いと思ってしまった自分が悔しい。
「じゃあ、一緒に行きましょうか」
廊下を並んで歩きながら、わたしは横目で玲子の様子をうかがった。
制服の袖口を、指先でぎゅっとつまんでいる。
緊張しているのか、歩幅が少しだけ小さい。
けれど、目だけは真っ直ぐ前を向いていた。
(……覚悟決めて来た目してるな、あれ)
嫌な予感が、じわりと背筋を這い上がってくる。
/*/
「あ、彩女きたんだ。今日もありがとう――って、え?」
コンコン、とノックしてからドアを開けると、いつものように青見の気の抜けた声が飛んできて、途中で止まった。
視線が、わたしの横に立つ玲子に移る。
「ど、どうも。……お見舞いに来ました。三森玲子です」
玲子は、病室に入るなり、きちんと姿勢を正して頭を下げた。
「この間は、本当にありがとうございました。東さんが庇ってくださらなかったら、わたし……」
「あ、いや、その。偶然だから」
珍しく、青見の方がオロオロしている。
耳のあたりが、ほんのり赤い。
(あ、やっぱりそういうのは照れるんだ)
どうでもいい観察をしてから、すぐに自分の胸のあたりがモヤっと熱くなるのを感じる。
(いやいやいや、そうじゃなくて)
玲子の方を見る。
彼女の目は、まさに「命の恩人」を見つめるそれだった。
感謝と、安堵と、何か別の感情が一緒くたになって、きらきらと揺れている。
(……あー、これは、完全に)
察した。
そして、気が気でなくなった。
「彩女?」
「なに」
思わず声が少し棘を含んでしまって、青見が「え、なんで怒ってんの?」みたいな顔をする。
「クラスメイトの安達さんにも、ご挨拶してきなさいって、伊集院先生が」
玲子がこちらをちらりと見た。
(……貴也さん、余計なことを)
心の中でだけ、理事長の名前にため息をつく。
玲子は、わたしの方に向き直り、もう一度丁寧に頭を下げた。
「あの、安達さん。東さんのこと、いつもお世話になってます」
「別に。勝手に怪我して勝手に入院してるだけだから」
つい、口が悪くなる。
「いや、そこはもうちょいオブラートに包んでくれない?」
「うるさい」
そんなやり取りを、玲子は目を丸くして見ていた。
そして――ほんの一瞬、唇の端をきゅっと結んだ。
その僅かな表情の変化に、わたしの中の警報がさらに音量を上げる。
(……この子、青見のこと)
好きだ。
たぶん、かなりはっきりと。
わたしがそう結論づけるのに、そんなに時間はかからなかった。
反対に――当の本人はと言えば。
「そういえばさ、あの時、犬めっちゃ吠えてたよな。あいつ大丈夫だった?」
「はい。びっくりして逃げちゃいましたけど、あとでちゃんと保護しました」
「そっか。よかった」
救いようがないほど、いつも通りの鈍感ぶりを発揮していた。
(……いや気づけよ。そこまで感謝の視線浴びせられて、なんで何も感じないのよ)
内心で頭を抱えながらも、外側ではいつも通りを装う。
ここで何か変な顔をしたら、真っ先に玲子に勘付かれる気がしたから。
/*/
その日の夕方。
ナースステーションを通りかかったとき、背中越しにこんな会話が聞こえてきた。
「ねえねえ聞いた? 東くんのところ、今日ふたりも女の子お見舞いに来てたんだって」
「知ってる~命を助けられたって子と、毎日通ってるクラスメイトちゃんでしょ? 若いっていいわねぇ」
「三角関係かしら?」
「きゃー、ドラマみたい」
(……やめて)
心の中でそっと土下座したくなる。
わたしの甲斐甲斐しい通院生活は、こうして「ナースステーション話題ランキング・一位」の座を、しばらくの間、玲子とのセットで独占することになるのだった。