◆ 三森峠・旧道へ ◆
その週末の夕方。
山の端がオレンジから群青に変わりかける頃、青見は安生道場の稽古を切り上げると、自転車置き場の奥から一本のMTBを引っぱり出した。
前後サスなんて洒落たものは付いていない、リジットフレームのマウンテンバイク。
ただ、そのぶんフロントフォークもフレームも太く、ゴツいブロックタイヤが「舗装路だけ走るつもりはない」と主張している。
(……マジで行くことになっちまったな)
ハンドルにライトを付け、ヘルメットを被りながら、青見は苦笑した。
スマホには惣一郎からのメッセージ。
『旧道の手前の集落の自販機前で集合な。19時』
「張り込み、な。……“様子見”だぞ」
自分に言い聞かせながらペダルを踏む。
住宅街を抜けると家が減り、田んぼと杉林が増え、空気が一段ひんやりしてくる。
やがて、暗くなりかけた道端に、ぽつんと白い自販機の光が浮かんだ。
「おー、来た来た」
その前で、マットオリーブのハンターカブがコトコトとアイドリングしていた。
タンク横には「CT125」のエンブレム、荷台には小さなツールボックス。
跨っているのはもちろん惣一郎だ。
「やっぱそれで来たか」
「旧道は荒れてるからな。スクーターじゃ腹擦るけど、こいつなら林道もいける」
惣一郎は自慢げにステップをコツンと蹴る。
「で、そっちはサスなしMTBか。根性仕様だな」
「舗装さえ残ってりゃ、どうにかなるだろ」
二人は缶コーヒーを一本ずつ買い、立ったまま一気にあおる。
日が落ちきる前に、峠に入りたい。
「じゃ、行くか」
「おう。……無茶はしない、はず」
ハンターカブが先行し、単気筒の音を響かせて登り始める。
そのテールライトを追って、青見がMTBで坂を上っていく。
舗装はまだきれいだが勾配はきつい。安生道場仕込みの脚力がなければ、途中で心が折れていたかもしれない。
エンジン音とチェーンの回転音だけが、薄暗い山の斜面に伸びていく。
やがて、道の先に赤白のバリケードと「この先通行止め」の看板が現れた。
アスファルトの上で、ハンターカブがキュッと減速する。
「……ここから先が、例の“旧道”か」
惣一郎はエンジンを切り、ヘルメットのシールドを上げて周囲を見回す。
バリケードは車を止めるためのもので、端っこには、人ひとりが通れるくらいの隙間がある。
二輪なら――ハンターカブも、MTBも、ぎりぎり抜けられそうだ。
「本来はここまで、ってことになってるんだけどな」
青見はバリケードの前輪を止めて、ため息をつく。
「“張り込み”って言ってたよな?」
惣一郎がニヤリと笑う。
「張り込みポイントが、ちょーっとだけ奥にずれるだけだって」
「お前の“ちょっと”は信用ならないんだよ……」
言いつつも、青見はMTBから降り、バリケード脇の隙間を慎重に押して抜けた。
その後に続いて、惣一郎もハンターカブをハンドルで押しながら、同じようにすり抜ける。
バリケードの向こう側は、さっきまでとは別世界だった。
舗装はひび割れ、ところどころ草に飲み込まれている。
割れ目からは雑草どころか、膝くらいまで伸びたススキが顔を出し、アスファルトを押し広げていた。
「……ギリ、走れるな」
青見は試しにサドルにまたがり、ゆっくりペダルを回す。
サスペンションのないリジットフォークが、割れ目を拾うたびに、ガツン、ガツンとダイレクトに腕へ衝撃を伝えてきた。
「サス無しでここ入るやつの顔が見てみてぇよ」
「今見てるだろ」
惣一郎は笑いながらハンターカブに乗り直し、低速ギアでゴトゴトと進む。
細かい段差や割れた舗装は、アップライトなポジションと太いタイヤが飲み込んでくれる。
少し進むと、舗装そのものが途切れ始めた。
アスファルトは土砂に埋まり、轍だけがかろうじて道の名残をとどめている。
タイヤの下は、大小の石がゴロゴロと転がるガレ場に変わっていった。
「おい、これ、ほんとに“旧道”か?」
「“旧道だったもの”だろうな」
ハンドルを取られないように、青見は上体を少し浮かせてペダルを踏む。
リジットフォークから上がってくる衝撃を、腕と脚でいなす。
速度は歩くより少し速い程度だ。
惣一郎のハンターカブは、トコトコと一定のリズムで石を踏みしめながら進んでいく。
トレールバイクというほど本格的ではないが、低速トルクのあるエンジンと、太いタイヤが頼もしい。
薄暗い杉林の中を、二つのライトが短いトンネルのように切り開いていく。
やがて――
◆ 三森峠・旧道トンネル上のレプリカ住居 ◆
割れた舗装と草の隙間を縫いながら、リジットMTBとハンターカブは、どうにか旧道の奥へ進んでいった。
やがて舗装はほとんど土砂に埋まり、ガレ場みたいな道になるが――それでもまだ、タイヤは辛うじて“道”を踏んでいる。
「……あれか」
惣一郎のライトが、前方の“壁”を照らし出した。
そこにあるはずのトンネルは、もう口を開けていない。
半円の輪郭だけを残して、コンクリートと土砂でぎっちり埋め立てられていた。
中央からは空気抜きらしきパイプが何本か、ニューッと突き出している。
「マジで、全部塞いでやがるな」
ハンターカブのエンジンを切って、惣一郎がヘルメットを脱ぐ。
虫の声と、森の湿った匂いだけが、耳と鼻を満たした。
「ニュースで見た埋め立て、ここまでガッツリだとは思わなかった」
青見もMTBを降り、冷たいコンクリートに指先を触れる。
ざらついた手触りが、“人の手で封じられた”ことを物語っていた。
「で、問題のレプリカ住居ってのは――」
「上だよ」
惣一郎がトンネル上の斜面を指さす。
見上げると、木々の合間に、ぽつんと黒い三角形がのぞいていた。
丸太を組んで葺いたような、低い屋根。
「縄文式住居の復元ってやつ。
天井に、例の“星空”が描いてあるらしい」
「……ほんとに、あんなとこに作ったんだな」
二人はバイクとMTBをトンネル脇のスペースに停め、ロックをかけると、斜面を踏みしめて登り始めた。
数分登ると、木立の中に、その小さな建物が現れる。
土を盛り上げた基壇の上に、丸太と茅で組まれた、いかにも“縄文”という感じの半地下式住居。
観光パンフレットで見るときはそれなりに風情がありそうだが、
実際に夕暮れの山中で見ると、ただの、ぽっかり口を開けた闇の塊だった。
「……管理、されてんのか、これ」
入口の柵は半分壊れ、説明板は色あせている。
中を覗くと、床は落ち葉と細かい枝で埋め尽くされ、誰かが一度掃除してから、何年も放置したような荒れ具合だった。
「まあ、“立入禁止”とは書いてないしな」
惣一郎が、しゃがんで入口をくぐる。
「お邪魔しまーす……っと」
続いて青見も身をかがめて中に入る。
薄暗い内部は、外よりひんやりしていて、土の匂いが強い。
そして――
「……これが、例の天井か」
住居の中央、炉があったと思しきあたりに立つと、
頭上の丸太組みの内側に、白い絵の具でびっしりと星が散りばめられているのが見えた。
ざっくりとした線で結ばれた図形は、夏の大三角にも、オリオンにも似ているが――どこか違う。
天文部の解析ログで見た“あのパターン”が、そのまま天井に張り付いている。
「でだ」
惣一郎がくるりと振り返る。
顔は、もう“何かを思いついた顔”をしている。
「ここで一晩張り込み、ってのはどうよ」
「……来ると思った」
青見は、額に手を当てて小さく息を吐いた。
「天井の星空と、ここから見える本物の星空。
両方見比べてみたいじゃん? な? オカ研兼天文部的にさ」
惣一郎が、すっかりその気になっているのは明らかだった。
ここまで来て「はい帰る」とは、たしかに言いづらい。
「……そう言うと思ったよ」
結局、青見はあきらめたように笑うと、さっさと動き始めた。
「とりあえず、床を掃く。落ち枝どかして、シート敷くスペースくらい作らないと」
入口付近に落ちていた枝で簡易の箒を作り、
中央の炉跡まわりと、その周囲の床をざっざっと掃いていく。
「シュラフもテントも無いけど?」
「マット代わりに銀マットとレジャーシートは持ってきてる。
最悪、外に出て星見るだけで、寝ないで朝まで粘るって手もある」
「徹夜観測かー。学生のノリだな」
惣一郎も荷物をほどき、ライトを梁に引っかける。
薄暗い室内に、LEDの白い光と、天井の“星図”が共存する。
「飲み物は?」
「……コーヒーしかないぞ」
青見は、自分のザックの中身を見て肩をすくめた。
保温ボトルに入った熱いブラックと、インスタントスティックが数本。
「水筒にお茶くらい入れてこいよ」
「道場帰りにそのまま来たんだから、これでも上出来だろ。
贅沢言うなら、お前が自販機で何本か仕入れてくれば良かったんだ」
「じゃ、コーヒーで夜通しハイテンション観測だな」
惣一郎は笑い、入口の低い戸口のあたりから首を出して外を見やる。
空には、さっき峠道で見え始めていた星が、もういくつも瞬き始めていた。
「天井の“どこでもない空”と、今の“三森峠の空”。
どっちがロマンあるか、ちゃんと見比べようぜ」
「どっちも、だろ」
青見は、掃き終えた床にレジャーシートを広げながら答えた。
外では森の闇が深まり、
中では、描かれた星々が、LEDライトの下で静かに光っているように見えた。
オカルト研究会兼天文部の、ちょっと無謀な一夜が、
三森峠の旧道トンネルの真上で、そっと始まろうとしていた。