◆ 三森峠・縄文住居の夜 旧道を通るものたち ◆
人間関係の火消しも終わり、
二人はもう一度、外の空気を吸いに住居の外へ出た。
木立の隙間からは、相変わらず夏の星々がよく見える。
さっきよりも一段、空が暗くなったぶん、星の数は増えているようだった。
「……静かだな」
惣一郎が、縄文住居の土の縁に腰を下ろし、旧道の方を見下ろす。
斜面の下、埋め立てられたトンネルの上には、ハンターカブとMTBの影がぽつんと並んでいた。
「“旧道”ってさ」
と、惣一郎がぽつぽつと話し始める。
「オカ研の資料じゃ、“人とそれ以外がすれ違う道”って書いてあったよな」
「……ああ」
青見も、隣に立って同じ方角を見やる。
闇の中、かろうじて道の筋だけが、森の影より少しだけ薄く見える。
「山越え嫌った人間が、それでも通らなきゃいけない時だけ使う裏街道。
夜通ると、前から提灯の列が来るとか、
時代の違う旅人がすれ違うとか――」
「侍と行商人と、トラック運転手が同じ道ですれ違うやつな」
青見が短く笑う。
「郷土史の本にも、似た話が出てた」
――ただ、それは“今の歴史”から見た話だ。
三森峠の本当の顔は、もっと古い。
湖側には、猪苗代湖の底にうごめく古いものたち。
山側には、空を渡る冷たい何か――英が「イタクァ系」と呼んでいたような、“風の旧支配者”に連なる存在。
地下には、蛇水鍾乳洞や飯盛山へと続く、蛇人と夢の回廊。
その三方向と、ゆるく交易し、見張りをしていたのが、
かつてこの峠にあった縄文集落――“連絡・観測拠点”だった。
竪穴住居の配置は、
星の並びと、冬至と、吹雪の向きと、猪苗代湖から吹き上げる風を組み合わせた魔術陣。
風と水と夢を、ちょうどいい塩梅で「通す・ずらす」ための調整陣。
今ここに建っているレプリカ住居は、
観光用の「おおよそ」な復元にすぎない。
――それでも。
支柱の間隔、火床の位置、
いくつかの“比率だけは本物と同じ”ものが紛れ込んでいる。
奇妙な偶然か、あるいは、図面を引いた誰かが無意識に導かれたのか。
だからこそ、夜にそこへ長く留まると、
たまに、余計なものまで見えてしまう。
風の音が“言葉”みたいに聞こえたり。
雪の気配だけを伴う寒気が、一瞬だけ吹き抜けたり。
――旧道を行き交った「通行人たちの記憶」が、
時間の層をずらして、ここに流れ込んでくるのだ。
* * *
「なあ」
惣一郎が、不意に声を潜める。
「風、さっきより……変じゃない?」
耳を澄ますと、
たしかに、さっきから森を渡る風の音が、どこか妙だった。
葉擦れのざわめきの奥に、
何か、もっと細い音が混じっている。
(……足音?)
そう思った瞬間、自分の心が勝手に怖がっているだけだ、と打ち消そうとする。
けれど――
旧道の方角から、
コツ、コツ、と何かが石を踏むような、はっきりとしたリズムが聞こえてきた。
木靴とも、下駄ともつかない硬い音。
そのすぐ後ろには、土を擦るような、草履の音。
さらに遅れて、
ゴト、ゴト、と重い木箱か荷車のようなものが揺れる響き。
「……トラックの音じゃ、ないよな」
「エンジン音はしない」
思わず二人とも、しゃがみ込むようにして旧道の方を覗き込む。
斜面が邪魔で、直接道は見えない。
けれど、音だけは、確かに“そこ”を通っている。
「ライト消す」
青見は、手元のLEDライトをパチンと切った。
途端に、闇が濃くなる。
闇の中――
ふ、と。
木々の間に、黄色い点がいくつも浮かんだ。
提灯のような、柔らかい光。
それが列になって、ゆっくりと峠を登ってくる。
よく目を凝らすと、その列の中には、
提灯より高い位置で揺れる光も混ざっていた。
トラックのヘッドライトのように強くはないが、
どこか戦後すぐのトラックかバスのヘッドライトにも見える。
……いや、それだけじゃない。
もっと低い位置で、
懐中電灯のような光も、ふらふらと揺れている。
「なんだ、あれ」
「列が……重なってる?」
提灯の列と、
古いヘッドライトの光と、
懐中電灯の光が、
同じ「道」に重なり合うようにして進んでくる。
それぞれの影の中に、
ぼんやりと「人影」も見える気がした。
紺の羽織に大小を差した侍が、
背中に荷を背負った行商人が、
軍手をはめたドライバーが、
みんな同じカーブを、ほとんど同じ足取りで通り過ぎていく。
時代も服装もバラバラなのに、
歩幅だけは、不気味なほど揃っていた。
「……旧道の怪談、そのまんまじゃねぇか」
惣一郎が、喉を鳴らす。
「“人と、それ以外がすれ違う道”」
青見の口から、さっき自分たちが話していた言葉がこぼれる。
その瞬間――
列の中に混じっていた「何か」が、
ぴたりと足を止めた。
提灯でも、ヘッドライトでも、懐中電灯でもない。
光は持っていないのに、
周りより濃い影だけが、そこだけぽっかりと浮かび上がる。
人間の高さより、少し高い。
細長いシルエット。
そいつだけが、
旧道から外れて、山側の斜面――つまり、こちらの方を向いた。
「……っ」
息を呑む音が、二人分、重なる。
目が合った――ような気がした。
目がどこにあるのか、そもそも顔があるのかもわからない。
なのに、「視線」だけが、はっきりとこちらを刺してくる。
その瞬間。
縄文住居の背後から、
雪の気配を伴う冷たい風が、一陣だけ吹き抜けた。
「さむっ……!」
思わず肩をすくめる。
季節外れの冷気だった。
息が、白くなった気さえする。
耳元で、風の音が小さくささやいた。
――………ほ……
――……け……
言葉にならない、かすれた音。
けれど、どこか「呼びかけ」のように聞こえる。
猪苗代湖の吹雪の向こうで、
空を渡る冷たい存在が、
この峠を通るものたちを見下ろしていた、古い記憶。
蛇水鍾乳洞の暗闇で、
蛇人が夢の回廊を行き来していた、深い時間。
それらが、旧道のトンネルという「地脈の切れ目」に溜まり、
時々こうして漏れ出す――
その“漏れ”が、今、二人のすぐそばを撫でていった。
ふっと。
提灯の列も、ヘッドライトの光も、懐中電灯の揺れも、
まとめてかき消されたように、闇が戻る。
虫の声と、遠くの国道を走る車の音だけが、現実に引き戻してきた。
「……今の、見たよな」
惣一郎が、震えを誤魔化すように笑う。
「見た」
青見も、短く答えたきり、しばらく言葉が出てこない。
心臓の鼓動だけが、やたらとうるさい。
「オカ研的にはさ」
しばらくして、惣一郎がようやく続ける。
「“集団幻覚でした”で片づけるか、“観測成功”で片づけるか、迷うところなんだけど」
「……少なくとも」
青見は、旧道の闇から目を離さないまま言った。
「“ここで夜を明かす価値はある”ってことだけは、はっきりした」
「だよな」
二人は同時に、深く息を吐いた。
縄文住居の中には、
天井の“どこでもない空”が描かれている。
その真下で、
今この瞬間も、旧道には、
時代違いの通行人たちと、“それ以外”の何かが、
すれ違い続けている。
――三森峠は、やはり「通って」いた。
遠い昔から、
人と、
人ではないものと、
そして、まだ名前もついていない“何か”が。