◆ 三森峠・縄文住居の夜 連絡拠点の底鳴り ◆
しばらく、誰も口を利かなかった。
旧道の闇が、さっきまで光の列を通していたとは思えないほど、ただの「黒い谷」に戻っている。
虫の声と、遠くの国道の車の音。
さっきまで聞こえていた、下駄や草履やゴトゴトいう荷の音は、跡形もない。
「……中、戻るか」
先に動いたのは青見だった。
ここから旧道を見続けていると、またあの“視線”を感じそうで、嫌な汗が背中を伝う。
「さんせい」
惣一郎もすぐ頷き、二人で縄文住居の中に身を滑り込ませた。
入口をくぐると、外よりさらに暗い。
梁に引っかけたLEDライトを点けると、天井の星と柱の影が、さっきと同じはずなのに違って見えた。
「……なあ」
「ん」
「オカ研的には今の、
“旧道:人とそれ以外がすれ違う道”って怪談、
だいたい実証しちゃった感じでいいのかね」
「“観測例あり”だな」
青見は、さっき旧道を見下ろしていた位置を、頭の中でなぞる。
「侍、行商人、トラック運転手。
時代違う通行人が重なってた。
それに……“それ以外”が一体」
あの、影だけ濃い存在。
視線だけがこちらを刺してきた“何か”。
「……三森の旧道のトンネルってさ」
惣一郎が、火床の縁に腰を下ろしながら言った。
「郷土史の資料で“地脈の切れ目をなぞって掘られた”って話あったじゃん。
あれ、マジなんだろうな」
「おそらくな」
青見は、住居の床に膝をついて、指でざっくりと見取り図を描く。
「縄文の集落って、この峠で三方向とやりとりしてた“連絡拠点”なんだろ。
湖の底の連中と、空を渡る風の何かと、地下の蛇の連中」
「猪苗代湖の古いやつらと、
イタクァ系の“冷たい連中”と、
蛇水鍾乳洞とか飯盛山側の蛇人・夢の回廊組、だな」
惣一郎が、親指を折りながら数えていく。
「で、この竪穴住居の配置が“観測・調整陣”ってわけだ」
支柱の位置、火床の場所、出入口の向き。
それらが、今の星空では説明できない星の並びと、
冬至の太陽の角度、
湖から吹き上げる吹雪の風向きに合わせてある――そういう話を、
玲子が嬉々として部室で語っていたのを思い出す。
「レプリカは“だいたいこんな感じ”のはずなんだけどな」
青見は、立ち上がって支柱と壁の間隔を見回した。
「比率だけ、本物と同じとこが、いくつか残ってるんだろうな」
その証拠のように――
火床跡の上で立ち止まり、息を吐くと、
白くはならないはずの夏の夜気が、
ほんの一瞬だけ、霧のようにゆらいだ。
「……今の、見た?」
「見た」
息が白い、わけではない。
けれど、吐いた空気の輪郭が、不自然なくらいはっきりと見えた。
それは、炉の真上で、
くるりと渦を巻いてから、天井の星図の方へ吸い込まれていった。
「風の流れ、変じゃないか?」
惣一郎が、ポケットからライターを取り出し、火を点ける。
ちろりと上がった炎が、まっすぐ天井には昇らず、
斜めに引っ張られるように、ぐるりと渦の中に巻き込まれた。
「……扇風機も何もないのに、この流れ方はねぇな」
炉跡の真上。
そこが、三方向からの“風と気配”の交差点になっている。
「旧道のトンネルが地脈の切れ目、
ここがその真上の“調整点”」
青見は、肺の奥からゆっくり息を吐いた。
さっきの冷気と、今感じている流れが、
一本の筋で繋がっていくのがわかる。
「で、今は――」
耳を澄ます。
風の音が、また少し、変わってきていた。
さっき旧道で聞いた足音や、荷物の軋みとは違う。
もっと細かく、もっと雑多な「ざわめき」。
聞き取ろうと、意識をそちらに傾けた瞬間――
断片的な声が、耳の奥に、直接擦り込まれてきた。
――「……この峠さえ越えれば……」
――「ブレーキ、利けよ利けよ……!」
――「雪、ひどくなる前に……」
――「ここ通ると、変な夢見んだよな……」
男女も年齢も、時代も違う声。
馴染みのない方言や、古い言い回し、
逆に、最近の若者っぽい口調まで混ざっている。
それらが、風に乗って、
炉の上の一点に収束しては、また散っていく。
「……通行人の“記憶”か」
惣一郎が、低く呟いた。
「峠を利用してきた時代ごとの“通行人の残り香”が、
旧道とトンネルの中でごちゃ混ぜになって、
たまに“ここ”に浮かび上がる、とか」
「ありだな」
青見は、タフネススマホを取り出して、録音アプリを立ち上げた。
マイクを炉の真上に向けて、数分間回しっぱなしにする。
「音、入るか?」
「あとで英にも聞かせる。ノイズに埋もれてても、どうにかしてくれるだろ」
“風に乗りて歩むもの”と関係する、あの男の顔を思い浮かべる。
こういう類のデータを渡したら、目を輝かせるに決まっている。
「それにしても」
録音しながら、惣一郎が天井を見上げる。
「ここ、ほんとは“ゲート調整装置”なんだよな。
湖の底と、空飛んでる冷たい連中と、地下の蛇の連中を、
“今この峠を通る人間にとって無難なレベル”に調整してくれるやつ」
「そうじゃなきゃ、とっくにここ住めなくなってるだろうな」
猪苗代湖の古いものが、本気で這い上がってきていたら。
イタクァの類が、気まぐれで吹雪を落としてきたら。
蛇水鍾乳洞の夢の回廊が、開きっぱなしになっていたら。
人間の村なんて、維持できるはずがない。
「だから、たぶん今も、“働いて”るんだよ」
青見は、火床の縁にそっと手を置いた。
冷たい土の下から、微かな振動が伝わってくる気がした。
「さっきの“それ以外”が、旧道からこっち向いたときもさ。
本気で来るつもりなら、ここまで上がってきてたはずだ」
「途中で、“何か”に押し返された?」
「あるいは、ルートを変えられた」
この住居の比率と配置が、
今でもかろうじて、“通行調整”の役割を果たしているのだとしたら。
自分たちは、その真上で、
ただ「通り過ぎるものたち」を横から覗き込んでいるだけの存在だ。
「……観測者でいられるうちに、取れるもん取っとこうぜ」
惣一郎が、いつもの調子を少し取り戻した声で言った。
「動画と写真、星図の記録、風向き、温度。
“怖かった”で終わらせるには、もったいなさすぎる」
「同感だ」
青見は、スマホの録音を続けたまま、
コンデジを手に取り、炉の真上や支柱の間隔を撮り始める。
その間にも、時々、風がふいに冷たくなった。
雪の匂いをかすかに含んだ空気が、一瞬だけ頬を撫でる。
床の上に置いたマグカップの表面に、
水面とは思えない、蛇のような模様の細い波が走る。
それは、蛇水鍾乳洞の奥で見たことのある「夢の流れ」に、どこか似ていた。
(……三方向、全部、微妙に“顔出し”してるな)
湖の冷気。
空の圧。
地下のうねり。
その全てが、
この小さな縄文住居の中で、
ぎりぎり人間が耐えられる程度に薄められた“ノイズ”として感じられる。
その夜、
二人は交代で仮眠を取りながら、
夜通し、風の音と星空と、住居の中の“底鳴り”を聞き続けた。
何かが直接現れて襲いかかってくることは、
最後までなかった。
――けれど。
明け方近く、東の空が白み始める頃、
旧道の方角から吹き上げてきた風が、
一度だけ、はっきりとした日本語になった。
それは、誰のものでもない、
男とも女ともつかない声だった。
「――通るなら、気をつけて通れ」
それだけ。
聞こえたのか、
夢で見たのか、
二人とも判然とはしなかったが。
縄文住居の天井の星が、
外の空の星と、
一瞬だけぴたりと重なって見えたのは、確かだった。
そしてその瞬間、
三森峠の旧道は、
“人とそれ以外がすれ違う道”であり続けている――
という事実だけが、
二人の胸に、妙にクリアな形で刻みつけられていた。