◆ 三森峠・夜明け ◆
炉の上の空気の流れが、ふっと緩んだ。
気づけば、入口の隙間から差し込む光が、さっきより白い。
外で鳴いている鳥の声も、夜の鳴き声から、朝のさえずりに変わっている。
「……おい」
レジャーシートの上で丸くなっていた惣一郎の肩を、青見が軽く揺さぶった。
「んぁ……」
「朝。撤収するぞ」
惣一郎は、寝たのか寝てないのかよく分からない顔で上体を起こす。
目の下には薄いクマ。
夜通しの底鳴りと風の音で、熟睡とは程遠い。
「……夢じゃ、ねぇよな、あれ」
「夢なら、二人とも同じの見る理由がない」
短くそう言い切ると、青見は手早く荷物をまとめ始めた。
レジャーシートを畳み、マグを拭いて片づけ、
落ち葉を軽く散らして、足跡だけは目立たないようにしておく。
住居の外に出ると、山の空は薄い灰色。
東側だけが、細くオレンジを帯び始めていた。
「……生きて朝迎えたな」
「縁起でもないこと言うな」
斜面を下り、トンネル跡の前を通り過ぎる。
昨夜、光の列が通った旧道は、
今はただのひび割れた一本道にしか見えない。
埋め立てられたコンクリートの表面に、指先を一瞬だけ触れる。
冷たい硬さだけが返ってきて、
夜の気配は、どこかに潜ってしまったようだった。
「報告書、どうまとめるかな……」
「“旧道・通行層の重なりを観測”でいいんじゃないか」
「先生に見せたら、絶対現地下見に来たがるよな、結先生」
「そのときは昼間にしてもらおう」
ハンターカブに跨る惣一郎と、リジットMTBにまたがる青見。
二つのタイヤが、ガレ場を慎重に下っていく。
空が明るくなるにつれて、
さっきまで“何か”がすれ違っていた旧道は、
ただの荒れた山道に戻っていった。
◆ 下山・解散 ◆
通行止めのバリケードを抜け、舗装のしっかりした峠道に戻ると、
惣一郎のスマホがようやく「サービスなし」から「4G」に切り替わった。
「お、電波戻った」
次の瞬間、通知音が連打される。
ピコン、ピコン、ピコン……。
メッセージ、着信履歴、未読通知。
画面が一気に数字だらけになった。
「うわ、やべ」
「愛香だろ」
「うん、ほぼ愛香」
時刻は深夜0時過ぎから明け方まで。
『まだ?』『どこ?』『本当に大丈夫?』
そして『既読がつかないのが一番こわいんだけど』の一文。
「……これは、怒られるな」
「怒られとけ」
峠を下りきった集落の自販機前で、二人はいったん停車した。
「オレ、このまま帰る」
ハンターカブのエンジンをかけ直しながら惣一郎が言う。
「まず愛香んとこ顔出す」
「起きてるだろうな」
夜通しの心配を想像して、青見は少しだけ肩をすくめる。
「……とりあえず、“生きてる”ってのを見せてこい」
「了解」
軽く手を上げて別れ、
それぞれのルートへと散っていった。
◆ 惣一郎宅 朝のキッチン ◆
玄関の鍵をそっと開ける。
朝の光が差し込む廊下。
靴箱の上には、小さな花瓶と、昨日のままのチラシ。
(……いる)
キッチンの方から、カチャカチャと食器の触れ合う音と、
出汁の匂いが漂ってきていた。
惣一郎は、一瞬だけ踵を返したくなったが、
ここは自分の家だ。逃げ場はない。
恐る恐るキッチンを覗くと――
「……あ」
エプロン姿の愛香が、振り返った。
いつも通り柔らかく笑っている……ように見えて、
その笑顔の奥に、はっきりと「言いたいことがあります」という気配がある。
テーブルの上には、朝食が二人分。
味噌汁、焼き魚、卵焼き、ほうれん草のおひたし。
惣一郎の好きなものばかり、きれいに並んでいた。
「おかえり、惣くん」
いつも通りの呼び方。
声色も穏やか。
なのに、足がすくむ。
「……ただいま」
惣一郎は、靴を脱ぎながら小さく答えた。
「夜通し、三森にいたんだって?」
愛香が、味噌汁の椀をテーブルに置きながら言う。
「彩女ちゃんから聞いたよ。
『今、三森峠で張り込み中。惣一郎も一緒』って」
「……あー……」
逃げ道は、完全に塞がれていた。
「ごめん」
とりあえず謝る。
愛香は、少しだけため息をついた。
「座って」
促されるまま椅子に座ると、
向かいに、ちょこんと愛香が腰掛けた。
少しの沈黙のあと、
彼女は努めて落ち着いた声で言う。
「まず、怒ってるところから言っていい?」
「はい」
「連絡がつかないのは、一番だめ」
真正面から、まっすぐな一言。
「どこ行くかざっくりでもいいから、
最初に教えて。
『山に行く』『電波なくなるかも』って。
そしたら、こっちも覚悟して待てるから」
「……はい」
「次」
少しだけ視線をきつくして続ける。
「スマホが圏外になるのは仕方ないよ?
でも、“圏外になる前に”メッセージ一本くらい送れたよね?」
「そ、それは……」
図星すぎて言葉に詰まる。
夕方「オカ研でちょっと出る」とだけ送って満足していた自分を、
今ここで殴りたい。
「心配して、妙な時間にお菓子、いっぱい食べちゃったじゃない」
「……それは普通にごめん」
「それだけじゃなくてね」
愛香は、少し声を落とした。
「通学路で、惣くんにくっつきかけてた“変なの”とか。
この前の、あの、自殺しようとしてた人の残りみたいなのとか」
さらっと、とんでもない単語が混ざる。
「昨日の夜もまた出てきたから、
ついでに“片づけ”ておいたけど」
「……また出てたのか」
惣一郎は眉をひそめる。
彼の周りには、時々、そういうものが寄ってくる。
本人は自覚が薄いが、
愛香の感覚からすれば、放っておけない“ノイズ”だ。
「惣くんの周り、そういうの寄ってくるんだから。
『どこで何してるかわからない』状態って、
わたしにとっては、そういうのが一番恐い状況なんだよ?」
静かな口調なのに、言葉の芯は固い。
「……ごめん」
今度の謝罪は、さっきよりずっと低い声になった。
しばらくの沈黙。
やがて、愛香はふっと表情を緩める。
「生きて帰ってきてくれたから、許す」
「……うん」
「でも、“次からは気をつけて通る”」
その言葉に、惣一郎は一瞬、息を飲んだ。
――通るなら、気をつけて通れ。
峠で、風の声がそう言った気がした。
同じフレーズ。
「って、約束して?」
愛香は、何も知らない顔で言っている。
峠の出来事と、この言葉が繋がっていることを意識しているのかどうか、
惣一郎には分からない。
「……今、なんて?」
「“次からは気をつけて通る、って約束して?”」
まったく同じ文言。
頭の中で、三森の朝の風景と、
キッチンのテーブルが重なった。
「三森峠、わたし、あんまり好きじゃないの」
愛香は、少しだけ目を伏せる。
「“通る人”の匂いが、濃すぎて。
生きてる人も、そうじゃないのも、ごちゃごちゃで。
昨日の夜も、なんか、ざわざわしてたから」
彼女が感じていた“ざわめき”が、
あの旧道の光の列と同じものなのかどうかは、分からない。
ただ、三森の夜のノイズが、
彼女には彼女の感覚で、確かに届いていたのだろう。
「だからね」
もう一度、まっすぐに顔を上げる。
「惣くんが“そういう場所”通るときは、
ちゃんと教えて。
わたしも一緒に、心の準備するから」
それは、縛るための言葉ではなく、
ただ「生きて帰ってきてほしい」という、ごくシンプルな願いだった。
「……うん。約束する」
惣一郎は、正面から頷いた。
「次からは、“気をつけて通る”。
場所も、電波も、人も」
「よろしい」
ようやく、愛香の笑顔が、完全にいつものものになった。
「じゃあ、先に朝ごはん食べて。
徹夜でしょ? ちゃんと食べてから寝ていいよ」
「女神かな?」
「変な神さまと比べないで」
軽口を交わしながら、湯気の立つ味噌汁に箸を伸ばす。
出汁の味が胃に落ちていくと、
夜通し張り詰めていた神経が、ようやくほどけ始めた。
その日、
オカルト研究会の活動報告書には、
“旧道での通行層の重なり現象の観測”という項目と並んで、
惣一郎の心の中には、
“三森峠を利用するときは、
自分だけの道じゃないことを忘れない”
という、もう一つのルールが、
静かに書き加えられることになったのだった。