なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

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オレのより良い奴

 

 

 市内の自転車店は、国道から一本入った細い通りにあった。

 

 ガラスの向こうにはロードバイクがぎっしり。

 白、黒、赤、水色――値札の桁だけ、彩女の知っている世界から遠く離れている。

 

(……高そう)

 

 他人事みたいな感想しか出てこない。

 

「ここ」

 

 隣の青見が、当然みたいな顔でドアを開けた。

 

 チリン、とベルの軽い音。

 

「いらっしゃい」

 

 カウンターの奥から現れた店主が、青見を見るなり目を細める。

 

「お、東くんじゃないか。久しぶりだな。

 この前の峠のタイム、聞いたぞ。相変わらずバケモンだな」

 

「どうもっす」

 

 青見は、いつもの調子で軽く頭を下げる。

 

「理事長の件、すみません。急に電話したみたいで」

 

「ああ、あれね」

 

 店主はおかしそうに笑った。

 

「“うちの生徒にロード一台見繕ってやってくれ”って。

 いつものことだよ、あの人。若い子に変なもん持たせたがる」

 

「……変なもん?」

 

 彩女が思わず口を挟む。

 

 店主は、そこでようやく彼女をじっと見た。

 

「お? もしかして――東くんの彼女か」

 

「ちょっ」

 

 彩女と青見の声が、綺麗にハモる。

 

「ち、違っ……」

 

「いや、その、まあ、その……」

 

 どっちの否定も弱くて、余計に怪しい。

 

「はは。まあ、どういう関係でもいいけどさ」

 

 店主は肩をすくめた。

 

「運動してるんだってね。体操だろ?

 身長もあるし、脚もしっかりしてる。ロードは向いてるよ」

 

「……あ、ども」

 

 褒められてるのかどうか微妙で、とりあえず会釈だけする。

 

「そういえば理事長、言ってたぞ」

 

 店主が思い出したように付け足した。

 

「“体操個人総合全国優勝のお祝いも兼ねて”ってな。

 せっかくだから、ちゃんとしたやつ乗せてやってくれって」

 

「……っ」

 

 彩女の背中に、ぞわっと実感が走る。

 

(全国優勝のお祝いって……それでロードなの?

 もっとこう、トロフィーとか額縁とかじゃないの?)

 

「若い子が乗ってくれてるとさ、常連のおっさん連中も元気出るからな」

 

 店主はニヤリと笑った。

 

「“あの子には負けてらんねぇ”って、急にローラー回し始めたりするんだよ」

 

「想像つきますね、それ」

 

 青見も苦笑する。

 

「で、彩女のバイクは……?」

 

「おう。組み上がってるよ」

 

 店主は、店の奥を顎でしゃくった。

 

「こっち来な」

 

 

 

 ホイールのラックを抜けた先。

 少し開けたスペースの真ん中に、それは立っていた。

 

 見慣れた水色じゃない。

 深いボトルグリーンと黒が溶け合うようなフレーム。

 

 光の当たり方で、緑にも黒にも見える、不思議な色。

 

 エアロ形状のフレームに、スッと伸びた一体型ハンドル。

 ワイヤーはどこにも見えない。

 

 チェーンステーのあたりに、小さくロゴが入っている。

 

 ――Bianchi Oltre RC

 

「……こ、これですか」

 

 青見の声が、わずかに裏返った。

 

(あ、これガチでヤバいやつだ)

 

 ロード乗り特有の“顔”になっている。

 本人は平静のつもりだろうが、彩女には分かる。

 

 これは、“全国決勝の怪物”を見たときの顔だ。

 

「綺麗な緑色だけど、凄いの?」

 

 彩女は、おそるおそる近づいた。

 

 トップチューブに指先で触れる。

 冷たくて、薄くて、軽そうで――でも、ぎゅっと詰まった感じ。

 

「あー、うん」

 

 青見は頭を掻いた。

 

「言った方がいいのかな、これ。

 オレ的には、知らないまま乗るのもどうかと思うけど……」

 

「なにそれ。怖いこと言う前に説明しなさいよ」

 

「店長、解説お願いしていいっすか」

 

 青見がパスを出すと、店主は腕を組んで少し考え込む。

 

「彼女、最初の一台なんだろ? うーん……」

 

「え、な、なに。なんなの!?」

 

 彩女の声が裏返る。

 

「じゃあ、まずはポジティブな方からね」

 

 店主はヘッドチューブをコンコンと叩いた。

 

「ビアンキの現行フラッグシップ。

 ワールドツアーのプロチームが実際に使ってる、“世界で勝つためのロード”だ」

 

「プロ……」

 

「全国レベルじゃなくて、“世界の表彰台”狙う連中の道具だな」

 

 青見が補足する。

 

「で、こいつはフレームもホイールも高グレード。

 コンポはフル電動シフト。スイッチ押すだけでギアが変わるやつ」

 

「で、電動……?」

 

「変速ワイヤーが入ってなくて、電気信号でカチャカチャって」

 

 青見は、自分のバイクを思い出して、ちょっと遠い目をした。

 

「オレのは紐式の105なのに……」

 

「ひも?」

 

「ワイヤー引っ張って変速するやつ。

 いや、105も十分すごいんだけどな!? ふつうの人間にはオーバースペックなんだけどな!?」

 

「東くん、ちょっと傷ついてるな」

 

 店主がクスクス笑う。

 

「まあ、東くんのは“真面目に頑張って買った良いロード”。

 こっちは“理事長の財布が爆発してるお祝いスペシャル”ってことで」

 

「財布が爆発って言い方やめてぇ!」

 

 彩女が半泣きになる。

 

「で、値段の話をするかどうかなんだけど――」

 

「そこ一番重要でしょ!」

 

 彩女が食い気味にツッコむ。

 

「言われない方が怖いんだけど!? あたし、買い物とかで普通に自転車置くんだよ!?」

 

「じゃあ、覚悟して聞きな」

 

 店主はさらっと言った。

 

「税込みで、二百万ちょい超え」

 

 沈黙。

 

「……に」

 

 彩女の口がぱくぱくする。

 

「……に、二百……?」

 

「二百万円クラス」

 

 店主はあっさり。

 

「フレームとホイールと電動コンポ。理事長指定で“ケチるな”って言われてるからね。

 サイズは君に合わせてるし、脚力的にも乗りこなせる範囲」

 

「に、二百万って……」

 

 彩女の頭の中で、数字が暴れ回る。

 

(振袖が何着分? 体操マット何十枚? コンビニのバイト何時間?)

(やばいやばいやばい。これ倒したら一生働いても働ききれないやつじゃない?)

 

「……理事長がすみません」

 

 青見が、今日何度目か分からない謝罪をした。

 

「ほんと、すみません」

 

「いいって言ってんだろ」

 

 店主は笑って手を振る。

 

「東くんの紹介じゃなかったら、さすがに“最初の一台でこれはない”って止めてたけどよ。

 体操の全国優勝のお祝いって聞いたしさ。

 なにより――」

 

 彩女の太腿からふくらはぎを、ちらっと見る。

 

「脚が“ちゃんと使える脚”してるから。

 道具に負けないなら、こういうの乗った方が伸びるのも早い」

 

「……褒められてるのは分かるけど、胃が痛いんだけど」

 

 彩女は額を押さえた。

 

「で、でさ。これでさ。スーパーとか行けないでしょ!?

 駐輪場に置いたら、なんか、こう、溶けてなくなる未来しか見えないんだけど!」

 

「あー、それは」

 

 そこで青見が口を挟んだ。

 

「買い物は、今のクロスバイクで行こうな」

 

「……あ」

 

「このオルトレは、練習とツーリング用。

 普段使いはクロス。その方が絶対気楽だし、精神衛生にもいい」

 

 言われてみればそのとおりで、彩女は少しだけ肩の力を抜いた。

 

「……そうか。

 そうだよね。全部これで済ませようとするから怖いんだよね」

 

「オレでも、二百万のバイクでスーパー行けって言われたら嫌だわ」

 

 青見が苦笑する。

 

「家から出るたびに寿命削れる」

 

「それ聞いてちょっと安心した」

 

 

 

「鍵はちゃんと良いの使えよ」

 

 店主が、現実的なこともちゃんと言う。

 

「駐輪場所も選べ。

 でも“盗られたらどうしよう”ってビクビクしすぎて乗らないのが、一番もったいない」

 

「……それは、そうかも」

 

 彩女は、フレームの深い緑を見つめる。

 

 湖みたいな色。

 光が当たると、奥からふわっと明るくなる。

 

(体操のお祝いで、全国優勝のご褒美で、ロード……)

 

(どうせいつか、自分でこういうの欲しくなってたかもしれないし)

 

 だったら、今もらって、ちゃんと乗りこなせるようになる方が筋が通ってる気がした。

 

「……分かった」

 

 彩女は、大きく息を吸い込む。

 

「理事長にはあとで文句言いに行く。

 “二百万って先に言え”って。でも――」

 

 フレームのトップチューブを、そっと撫でた。

 

「もらったからには、ちゃんと乗る。

 東、あんた責任持って教えなさいよ」

 

「お、おう」

 

 突然指名されて、青見はちょっと照れくさそうに頭を掻く。

 

「最初は平坦からな。

 ブレーキの感覚と、電動シフトの使い方と、身体の預け方、全部一からやる」

 

「坂も、そのうち行くんでしょ?」

 

「もちろん」

 

 青見は、少しだけ楽しそうに笑った。

 

「“おどろ槍の峠”じゃない、普通の峠な。

 ちゃんと安全で景色いいとこ、いっぱい連れてってやる」

 

「……それなら、まあ」

 

 彩女も、やっと口元をゆるめる。

 

「二百万って数字は、しばらく聞かなかったことにしておく」

 

「それはそれで問題な気もするけどな」

 

 店主は苦笑しつつ、ハンドルとサドルの高さを微調整した。

 

「ほら、跨ってみな。

 電動シフトとフレームの軽さ、跨いだ瞬間に分かるから」

 

「“二百万の現物”って言い方、ほんとやめて……!」

 

 悲鳴を上げながらも、彩女はサドルにそっと腰を下ろした。

 

 ――ペダルに足を乗せた瞬間。

 ふわっと、脚から上半身までが持ち上がるような感覚。

 

(……軽っ)

 

 まだ一ミリも走ってないのに、「走りたい」という感覚だけは、はっきり伝わってくる。

 

「……やっぱり、ちゃんと乗る」

 

 彩女は、小さく、でもはっきりと呟いた。

 

 その横顔を見て、青見は少しだけ安心する。

 

(理事長、やり方はどうかと思うけどさ)

 

(たぶんこれ、当分のあいだ彩女の“相棒”になるんだろうな)

 

 フレームの深い緑と一緒に、そんな予感が静かに胸に刺さっていた。

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