ひと通り跨いで感覚を確かめたところで、店主が手を叩いた。
「じゃ、次は細かいとこ決めてこうか。
まずは――鍵」
「あ、それは」
青見がすぐに口を挟む。
「オルトレ用は、オレが見繕っていいですか。
軽くて、でも“心の平穏はギリ守れる”くらいのやつ」
「お、東くん指名か。いいよ」
店主が鍵コーナーの前に案内すると、フックに色とりどりのロックがぶら下がっていた。
「え、こんなに種類あるの?」
「そりゃもう。軽さ重視、ガチ防御、普段用――」
青見は、その中から二つを抜き取る。
一つは、ずっしりしたU字ロック。
もう一つは、細めだけど頑丈そうなワイヤーロック。
「オルトレは、基本“見えないところに停めない”前提だから」
青見が説明する。
「普段は室内保管。外で休憩するときだけ、このU字でフレームとホイールまとめて固定。
時間長くなるなら、これにワイヤー足して。――そんな感じでどう?」
「……全部、あんた前提で話進んでるわね」
彩女は苦笑しつつも、少し安心する。
「まあ、お願いします。鍵とか分かんないし」
「クロスバイクで買い物行くとき用には、今のワイヤーで十分だと思うよ」
青見がさらっと言う。
「“買い物は今のクロスバイクで行こうな”。
オルトレをスーパーの駐輪場に置いたら、オレが寿命削れる」
「それはあたしも嫌だわ」
二人とも、そこは完全に意見が一致した。
「空気入れとか工具は?」
店主が聞くと、青見が手を挙げる。
「携帯ポンプと予備チューブとタイヤレバー、あとマルチツールは、オレのを当面共用で。
家から出る前と、ロングの時にまとめてチェックすれば大丈夫です」
「……家って東んとこ?」
彩女が聞くと、青見が少しだけ気まずそうに頭を掻いた。
「オルトレ、室内保管じゃないとさすがに怖いからさ。
東家の玄関脇、ローラー置いてるスペース空いてるし、そこにラック置いてもらうよう理事長から話通ってる」
「理事長、どこまで根回ししてんのよ……」
もはや驚きを通り越して、呆れ笑いしか出ない。
(でも、青見の家なら……変な心配はいらないか)
そう思った瞬間、自分で自分にツッコミを入れたくなった。
(“変な心配”って何よ。いや、分かるけど)
「さて、最後にウェアだな」
店主が話題を切り替える。
「ヘルメットとシューズは、サイズきっちり合わせた方がいいから今日フィッティングしよう。
サイクルジャージとレーパンは……君の体格だと、在庫じゃ微妙に足りねぇな」
「微妙に、ってなによ」
「身長とかが“標準女子M”から飛び出てんの」
数字を見ながら、店主が淡々と言う。
「悪い意味じゃなくて、“アスリートの身体”ってことだ。
既製品だと丈足りないか、どっかがキツくなるから、取り寄せ推奨だな」
「……ですよねぇ」
彩女は、体操用のレオタード探しで何度も苦労してきたので、妙に納得してしまう。
「カタログあるから、3~4セット選んで。
ジャージ上下の色合わせと、レーパンはビブ付きかウエストゴムか――好みで」
分厚いカタログを渡される。
ページをめくると、やたら細長い外人さんと、細マッチョな日本人が、ぴっちりウェアでポーズを決めている。
「……レーパンって、これ?」
「そう。パッド付いてるやつだ」
店主がうなずく。
「これさ、ノーパンで履くの?」
「基本そうだな」
店主と青見の声が、ぴったり揃った。
彩女は、一拍だけ黙った。
「……ふーん」
「あれ、思ったより拒否反応少ないね」
店主が首をかしげる。
「もっと“えー!”とか言われるかと思ったんだけど」
「まあ、体操のレオタードより布面積ありますし」
彩女はさらっと答えた。
「股関節までガッツリ出てるレオタードを、毎日練習で着てる身としては、今さらです。
むしろ“布あるな”くらいの感想なんですけど」
「なるほどな」
店主が妙に納得した顔をする。
「レオタード経験者は強い。ビブでも普通のでも、好きなのでいいよ」
「動きやすそうだし、ビブの方にしよ。
肩から吊ってる方が、お腹ゴムで締め付けられるより楽そう」
「よく分かってるじゃん」
そんなやりとりをしながら、カタログから3セットほど候補を選ぶ。
緑系、黒ベース、ちょっと明るい差し色入り――自然とオルトレに合う色を選んでしまう自分に、彩女は少しだけ苦笑した。
「……でもウェアも、けっこうするんですね」
ページの片隅に並ぶ値段を見て、思わずため息が漏れる。
「ジャージ上下でこれくらい、レーパンでこれくらい……。
これ、総額いくらになるんだろ」
「理事長、そこも含めて“予算取ってあるから気にするな”って言ってたから大丈夫だよ」
店主が肩をすくめる。
「今年は全国優勝者が多くて、寄付金でウハウハって言ってたしな。
“稼いだ分はちゃんと生徒に還元する”ってさ」
「寄付金でウハウハ、って言い方……」
彩女は頭を抱えた。
「ほんと、あの人どこまで本音でしゃべるのよ」
「まあ、広告も頑張ってるみたいだし」
店主は、カウンターの上に積まれていた雑誌の一つを引っ張り出した。
「ほら、これ。スポーツ系の月刊誌なんだけど――
このページ、東くんと彼女だろ?」
「ちょっ、店長!」
開かれた見開きには、「高校アスリートの腹筋特集」みたいな見出しと一緒に、二人組の写真が載っていた。
体育館の端で撮ったような、シンプルな背景。
Tシャツをたくし上げて腹筋を見せている青見と、スポブラ姿で横に並んでいる彩女。
どちらも、腹筋がきっちり割れている。
「な、なにこれえええ!?」
彩女の声がひっくり返った。
「ちょ、待って。あたし聞いてないんだけど!?
いつの間にこんなの撮られて、いつの間に雑誌載ってんのよ!?」
「それ、理事長経由で依頼来てたやつだよ」
青見も若干顔を赤くしながら説明する。
「“学校広報も兼ねて、高校生アスリートの取材受けてくれない?”って。
ほら、ほっそいおっさんカメラマン来てたろ。あれ」
「あーーーー!!」
記憶が蘇る。
体育館で体操の練習終わりに、「腹筋すごいねえ」とか言いながら、パシャパシャ撮っていったカメラマン。
(まさか本当に全国誌に載せるとは思わないじゃん!)
「“腹筋ペア”ってキャプション付いてるの、ほんとセンスどうかしてると思う」
青見が、雑誌の文字を指で隠しながらつぶやく。
「俺たち、そんなユニット名みたいなのじゃないからな」
「腹筋ペア……」
店主は、にやにやが止まらない様子だ。
「いやぁ、これ見てさ。
“ああ、理事長ほんと広告頑張ってんな”って思ったんだよ」
「理事長ぉぉぉ……!」
彩女は、その場で膝から崩れ落ちそうになる。
「ロードバイク二百万に、ウェア一式に、腹筋ペアで雑誌デビューって……
どこ目指してんの、あたしの高校生活……!」
「全国優勝したら、そういうオマケも付いてくるってことだな」
青見が、少しだけ気まずそうに笑う。
「……まあ、腹筋ペアって呼ばれるのは、悪くないけど」
「よくないわよ! 恥ずかしいわよ!」
言いながらも、彩女の口元には、どうしても笑いが浮かんでしまう。
(でも――)
オルトレの深い緑。
カタログに並ぶウェア。
雑誌の中の、自分と青見の腹筋。
全部が少しずつ繋がって、「今」の自分を形作っている気がした。
「……もういいや」
彩女は、雑誌をそっと閉じた。
「ここまで来たら、腹筋ペアでもなんでもいい。
ロードも、体操も、ちゃんとやるから。――東、覚悟しときなさいよ」
「何の?」
「峠も平坦も、あたしがそのうち“腹筋ペアの速い方”になるから」
「それは、負けられねぇな」
青見は、悔しそうというよりは楽しそうに笑った。
「じゃ、その勝負の第一歩として。
まずはクリート付けて、店の前で立ちゴケしない練習からだな」
「そこからかー!」
店の中に、三人分の笑い声が弾んだ。
二百万越えのオルトレRCと、取り寄せ予定のウェアと、“腹筋ペア”の雑誌。
全部まとめて、彩女の新しい生活圏のスタートラインに並んでいた。