走行会の朝は、思ったよりあっさり終わった。
川沿いのサイクリングロードを、初心者組で並んで走る。
最初は集団のペースに戸惑っていた彩女も、10キロも行かないうちに感覚を掴んでいた。
(――あ、これなら走れる)
体操で何十本も全力の段違いをこなす脚は、30キロの「ゆるポタ」には、むしろ余裕があった。
途中の公園で休憩して、また折り返し。
転ぶ人も、パンクする人も出ず、初心者組は無事に店まで帰還した。
「初走行会にしては、だいぶ余裕そうだったな」
店の前で、ボトルを片手に店長が笑う。
「脚、まだ残ってるでしょ?」
「正直、まだ全然いけます」
彩女は、息も乱れていない。
「最後、ちょっと物足りなかったくらい。
みんなのペースに合わせるのって、逆に難しい……」
「贅沢言うな」
中級組から帰ってきた青見が、タオルで汗を拭きながら割り込んでくる。
「最初の走行会で“物足りない”って感想、なかなか出ねぇぞ」
「だって、あんたの練習メニューの方がキツいし」
「それはそう」
そこへ、汗だくの常連たちがぞろぞろと集まってきた。
中級とガチ組の面々だ。
「おーい、店長」
ひときわガタイのいいおじさんが、ボトルを振りながら声を上げる。
「このまま解散じゃ、なんか物足りねぇって声が多いんだけどよ」
「さっき“脚売り切れた”って言ってたの誰だっけ?」
「補給したら元気出ちゃったんだよ」
ケラケラ笑いながら、常連たちが勝手に輪を作る。
「でさ。せっかく腹筋ペアの片割れもロードデビューしたんだし――」
誰かが、ちらっと彩女を見る。
「この後、御霊櫃(ごれいびつ)峠、行かね?」
その名前を聞いた瞬間、店の空気がちょっとだけ変わった。
「おいおい、いきなり御霊櫃って。安達さん今日が初ロードだぞ?」
店長が苦笑する。
「無茶振りじゃね?」
「だーいじょうぶだろ。体操全国優勝だぜ? 脚、絶対太鼓判だろ」
「それはそうだけどさぁ……」
彩女は、知らない地名に首をかしげる。
「御霊櫃って、そんなにヤバいの?」
「そこそこ長い。そこそこキツい」
青見が、簡潔にまとめる。
「勾配は場所によるけど、平均6~7パーセントくらい。
真面目に登ると、結構しんどい」
「青見は?」
「オレは何回も登ってる」
「じゃあ、いいじゃない」
彩女は即答した。
「行く」
「いや今の“行く”のテンポなんなんだよ」
青見が額を押さえる。
「さっきまで“集団で走るの難しい”って言ってた初心者が、一段飛ばしでヒルクライム行くなよ」
「だって、せっかくロードもらったんだし、峠も経験しとかないとでしょ?
あたしだって、ずっと川沿いくるくるしてるだけじゃつまんない」
「……ほら見ろ」
常連のおじさんが、店長に向かって親指を立てた。
「こういう元気な若い子がいると、店の空気が明るくなんだよ」
「お前らの心拍も無駄に上がるけどな」
店長は、ため息まじりに笑う。
「じゃあこうしよう。御霊櫃行きは“自己責任のオマケメニュー”な。
店の走行会はもう解散ってことで、行きたい人だけ行ってこい」
「はーい!」
手を挙げたのは、常連数人と青見、それからもちろん彩女。
「本当に大丈夫か?」
スタート前、青見が小声で確認する。
「途中で“やっぱ無理!”ってなったら、マジで引き返すからな」
「分かってるって」
彩女は、ヘルメットのストラップを締め直した。
「体操でも、“今のコンディションでやっちゃいけない技”は分かるから。
自分の身体のことは、自分が一番よく知ってる」
(……まあ、今は正直、まだ全然足りないんだけど)
心の中で、そっと本音を足しておく。
御霊櫃峠の麓に着く頃には、太陽は少し傾き始めていた。
道端の自販機前で一息つき、水と補給食を口にする。
「じゃ、ここからは各自ペースで」
店長が言う。
「タイム計るわけじゃないけど、大体20分から30分くらいみときゃいいかな」
「東くんは?」
「本気出せば20分切るだろ、こいつ」
常連の一人が笑う。
「今日は新入りの付き添いだろうから、抑えてくれるだろうけどな」
「安達さんは、最初はマジで飛ばさないこと。
心拍上がりすぎたら、すぐギア落としてペース落とせ」
「分かってるって」
彩女は、軽く脚を回してみる。
フィットしたビブショーツのパッドが、サドルの上でしっくり収まる。
(練習の時みたいに、“自分のリズム”で行けばいい)
静かに深呼吸して、スタートの合図を待った。
「じゃ、各自――」
店長の手が、ひょいと上がる。
「いってらっしゃい!」
/*/
最初の数百メートルは、だらだらとした登り。
常連たちが固まって走り出し、その少し前に青見と彩女。
「どう? 重くない?」
「大丈夫」
彩女は、呼吸を乱さずに答える。
「体操のアップで、跳馬の助走してるくらい」
「例えが分かりづらいんだよ」
緩く笑いながらも、青見はチラチラと彼女の様子をうかがっていた。
呼吸。
ペダルを踏み込む時の膝の角度。
上半身のブレ。
(……まだ余裕あるな)
その判断が、逆に不安を煽る。
「ほんとに飛ばすなよ。
峠ってのはな、最初の“あ、これ楽勝じゃね?”って感覚が一番危ないんだ」
「分かってるって言ってるでしょ」
斜度が少しずつきつくなる。
周りの景色が、じわじわとゆっくりに変わっていく。
しばらくすると、後ろの方から常連たちの息が荒くなってきた。
「はぁ……はぁ……おい、東ー……」
「なにー?」
「その子、ペース落ちる気配ねぇぞ……」
「だから言ったろ。最初抑えろって」
「抑えてこれかよ……」
そんな会話を聞きながらも、彩女の呼吸はまだ安定している。
(……もうちょっと、いける)
脚が、自然とそう言っていた。
緩いカーブを過ぎたところで、路面が少し荒れる。
勾配も、ぐっと増す。
「ここからが本番だからな。マジで――」
青見の注意が、最後まで言い切られる前に。
彩女が、ふっとダンシングに切り替えた。
軽い。
車体が、体操のフロアの上でステップするみたいに、ふわりと左右に揺れる。
「あ、ちょっ――」
青見の前から、その緑のフレームがするすると離れていく。
「彩女! お前それ、ラストスパートの動きだって!」
「まだいけるー!」
振り向きざまに、笑いながら手を振る。
後ろから、常連の一人が声を上げた。
「やべえ、マジで行っちまった……!」
「おいおいおい。ちょっと。
若い子のお尻を見ながら登れると思ったのに――」
「だからそういう不純な動機からは千切られるんですよ」
女性ローディが、きっちりツッコミを入れる。
「やっぱりエンジンよ、エンジン。
若いアスリートって、ほんとすごいわね……」
その言葉どおり、彩女は、みるみるうちに集団から離れていった。
オルトレのフレームが、緑の残像になってカーブの向こうに消える。
――頂上の駐車スペース。
車も人もまばらな中、彩女はサイクルコンピュータをちらっと見た。
(……あ、ほんとに20分ちょいじゃん)
心拍は高めだが、まだ余力はある。
脚の筋肉も、体操で味わう“限界”にはほど遠い。
(ちゃんと“登りきった”感じするし……たぶん、いい感じ)
ボトルの水を飲みながら、下から聞こえてくるギアの音に耳を澄ます。
数分おいて、青見が姿を現した。
「はぁ……はぁ……」
息を上げながらも、笑っている。
「お前さぁ……
マジで、加減って知らねぇのな……」
「えへへ」
彩女は、ちょっと申し訳なさそうに笑う。
「だって、脚が“いける”って言うから」
「その“脚の声”が、だいたい周り殺しに行ってんの」
少し遅れて、常連組もぽつぽつと到着した。
「はぁっ……! やっと着いた……!」
「おい店長、あの子ほんとに今日が初ロードかよ!」
「体操の全国優勝って、やっぱ伊達じゃねぇな……」
誰かが、彩女のオルトレを指さす。
「やっぱりエンジンだわ。
こっちは高いフレームとホイール揃えてドヤ顔してんのに、中身が違いすぎる」
「若い子のお尻を見ながら登れると思ったのに……」
息も絶え絶えに、さっきのおじさんがぼやく。
「むしろ、若い子のお尻に夢を見てた中年たちが、まとめて千切られていく地獄絵図でしたね」
女性ローディが、冷静に総括した。
「不純な動機から千切られますよ、ほんと」
「すんませんでした……!」
おじさんが、そこそこ本気で土下座しかける。
「でも、マジで若いアスリートってすごいな」
別の常連が、感心したように言った。
「脚細いのに、パワー出てんのが分かるもん。
上半身のブレも少ねぇし、体幹バキバキって感じ」
「レオタードで宙返りしてる子だからなぁ」
店長が肩をすくめる。
「重力無視してる時間の長い奴は、登りも強いんだよ」
「重力無視はしてないですからね!?」
彩女が慌てて否定する。
「ちゃんと落ちないようにしてるだけだから!」
「はいはい」
青見は、そんなやりとりを横目に、コンピュータのログを眺めていた。
(やっぱり、W/kgお化けだな……)
自分と比べて、絶対的なパワーはそこまで変わらない。
けれど、体重差で登りの速度が如実に違う。
「……青見」
彩女が、少しだけ申し訳なさそうに覗き込む。
「その、飛び出してごめん」
「いや」
青見は、首を横に振った。
「峠ってのはな、“自分のペースで登りきる”のが正解だ。
オレの言うこと聞きすぎてタレるより、自分でペース作って完走できた方がいい」
「じゃあ、よかった」
「その代わり――」
青見は、にやっと笑う。
「次の走行会までに、オレも“腹筋ペアの速い方”奪い返すからな」
「言ったわね」
彩女も、負けん気の笑みを返す。
「じゃあ、あたしも負けないように、ちゃんと練習続ける」
「やれやれ」
店長が、空になったボトルを振った。
「うちの店、また一人、面倒くさい若いエンジンが増えたな」
「嬉しそうに言わないでよ」
そうツッコミながらも――
彩女は、オルトレのハンドルを握り直した。
御霊櫃峠の上に吹く風は、思ったよりも冷たくて気持ちよかった。
(体操のレオタードも、ロードのレーパンも。
どっちも、あたしの“エンジン”の使い道の一つなんだ)
そう思うと、坂も汗も、全部が少しだけ誇らしく思えた。
/*/
「いやぁ、マジで参ったわ……」
ボトルの水を飲み干した常連のおじさんが、しみじみと空を仰いだ。
「なぁ東くん」
「はい?」
「二人ともさ……ロードのインハイ狙えるんじゃない?」
「え、インハイ?」
彩女がきょとんとする。
「インターハイ。高校のロードレースの全国大会みたいなやつ」
青見が補足する。
「いや、ロードはチーム戦なので一人では……」
少し苦笑しながら首を振った。
「高校に自転車部があって、メンバー揃えて、戦術組んで――ってやる競技だから。
うちの学校、自転車部ないですし」
「それもそうか。おしいなぁ」
常連は本気で残念そうにため息をつく。
「腹筋ペアでインハイとか、絶対話題になったのに」
「その呼び名で全国デビューするのはちょっとやです」
青見が即座にツッコむ。
「ていうかあたし、本業体操だからね?」
彩女も慌てて手を振った。
「ロードはあくまで趣味! 峠で遊ぶ用! そこ間違えないでよ!」
「趣味でこの登り方される方が、よっぽど脅威なんだけどなぁ……」
常連たちのぼやきと笑い声が、御霊櫃峠の風に混じっていった。