八月。夏休み終盤。
昼の熱気が少しだけ引き、夕方の風に「もうすぐ二学期」が混じり始める頃――逢瀬学園の理事長室は相変わらず季節感が薄かった。木の匂い。紙の匂い。紅茶の残り香。冷房の静かな音。
伊集院貴也は、机の上に封筒を一つ置いた。
いや、正確には“封筒一つ分の厚みではない”。宿泊券と交通手配書類が束になっている。
「東くん、安達さん。全国優勝、おめでとう」
青見は立ったまま、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
彩女は椅子に座り直し、眉をひそめた。
「……理事長。なんか嫌な予感がする」
「失礼だな。これは純然たる“ご褒美”だよ」
貴也は柔らかく笑って、書類を二人の前へ滑らせた。
「乗鞍高原の温泉宿泊。食事付き。二泊三日」
彩女の表情が、ふっとほどける。
「温泉……」
青見も一瞬だけ目を細めた。彼の“嬉しい”は派手に出ない。けれど確かに出る。
貴也はそこで、さらりと付け足した。
「移動は安達家の車。東くんは同乗」
彩女が頷きかけて、途中で真顔になる。
「……え?」
貴也の視線が青見へ移る。
“説明するまでもない”という目ではない。
青見が、淡々と受け取れるように――いつも通りの温度で話を置く目。
青見は静かに頷いた。
「はい。俺は安達家と一緒に行きます」
彩女は、その一言でようやく“現実”に戻る。
青見には両親がいない。
だから旅行という形も、“家族”の形も――自然にそうなる。
貴也は続ける。
「宿の部屋も、四名一室で手配してある。安達家のご両親と、君たち二人だ」
彩女が口を開けかけ、閉じる。
そして小さく呟く。
「……家族扱いが、公式に確定した」
青見は否定せず、ただ「ありがたいです」と短く言った。
貴也は微笑んで、最後に――いつもの“嫌な予感の核心”を置いた。
「ロードバイクは持参で」
彩女が固まる。
「……は?」
「持参で」
青見はもう予測していたのか、眉一つ動かさない。
「温泉旅行に……ロードバイク?」
「そうだよ」
貴也は、何でもないように薄い封筒を取り出した。
薄い。だが嫌な意味で重い。
「乗鞍ヒルクライム。一般の部。エントリーは済ませてある」
彩女が椅子から半分立ち上がり、机を叩きそうになって、ぐっと拳を握りしめる。
「ご褒美って言いましたよね!?」
「うん。温泉と景色と空気は確実に良い。ご褒美だ」
「その前に山を登らせるな!!」
青見が横で淡々と言った。
「勝ってこいってことだろ」
「理解が早いね」
貴也は満足そうに頷く。
「コメントは学習済みだね? “家族旅行で乗鞍高原に来るので、こちらの大会にもエントリーして走るのを楽しみにしていました”」
青見が静かに復唱する。
「……家族旅行で乗鞍高原に来るので、こちらの大会にもエントリーして走るのを楽しみにしていました」
彩女が悔しそうに目を逸らす。
「……言えます。腹立つけど言えます」
貴也は笑った。
「よろしい。伸ばせるものは伸ばす。温泉は、レースの後のほうが気持ちいい」
彩女が小声で呟く。
「悪魔」
青見は否定しなかった。
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当日。
安達家の車は、郡山を出る前から“それ”だった。
屋根の上に、二台分のルーフキャリア。
そしてフレームを固定され、前輪を外したロードバイクが二台、きっちり載っている。
風切り音が増える。燃費も落ちる。
でも、見た目の“本気度”は跳ね上がる。
彩女は後部座席で、窓の外を見ながら呟いた。
「……旅行の車じゃない」
運転席の父が苦笑する。
「お前が言うな。自転車積めって言ったの誰だ」
「理事長!」
助手席の母が、笑いながら振り返る。
「青見くん、酔ってない?」
青見はシートベルトをきちんと締め、背筋をまっすぐにしている。
「大丈夫です」
いつもの丁寧な声。
安達家の車の中で、それが“他人行儀”にならないのが、もう当たり前になっていた。
彩女の父が、ミラー越しに青見を見る。
「四人で同じ部屋って聞いた。嫌なら言えよ」
青見は即答した。
「嫌じゃないです。……ありがとうございます」
彩女は横で、急に口数が減る。
照れるのをごまかすのが下手だ。
車は山へ向かう。
空気が変わる。匂いが変わる。景色が広くなる。
そして、乗鞍高原に着いた。
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宿。
玄関をくぐると木の香りが濃く、涼しい空気が肌にまとわりつく。
受付で鍵を受け取り、案内された部屋は――四人がちゃんと入れる広さだった。
畳。座卓。窓の向こうの緑。
そして、布団は四枚分。
彩女がその瞬間、ぽつりと言った。
「……ほんとに家族旅行だ」
母が笑って言う。
「そうよ。青見くんも家族でしょ」
青見は一瞬だけ視線を落とし、それから小さく頷いた。
「……はい」
彩女は、何も言えなくなって、代わりに荷物を雑に置いた。
「……明日、レースでしょ。早く寝る」
「そうだね」
青見が淡々と返す。
彩女の父は、ルーフキャリアに固定されたロードバイクを宿の駐車場で確認しながら、肩をすくめた。
「温泉旅行って、何だっけな」
母が笑う。
「レースの後に入るのが温泉よ。理事長先生の言う通り」
彩女が遠くから叫ぶ。
「理事長の言う通りにしないで!!」
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翌朝。
まだ空が薄い時間。
家族旅行――のはずなのに、起きる時間は“試合の日”のそれだった。
会場にはハイアマの空気が漂う。脚の太さが違う。目の鋭さが違う。
彩女はヘルメットを被り、ポニーテールをまとめ直す。
「……空気薄い」
「高原だからな」
青見は淡々と返し、ゼッケンを結びつける手が正確だった。
彩女は小さく息を吐く。
「温泉のために勝つ」
「オレも」
それだけで十分だった。
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スタート。
彩女は淡々と回す。踏まない。崩さない。
そして、気づけば次々と男子を抜いていく。
「……え、女子!?」
「嘘だろ……」
「脚、何それ」
唖然とする声が背後で膨らむ。
彩女は振り返らない。回す。登る。崩さない。
ゴールでは、女子の枠を越えて“男子トップ層に混じるタイム”が出た。
係員が計測板を二度見する。
青見は、自転車用の身体ではない。上半身の筋肉が多い。その分不利。
それでも、最後まで粘って勝ち切った。
ゴール後、前屈みで息を吐きながら、青見は小さく呟く。
「……勝った」
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取材が来る。
「お二人は同じ高校なんですね。同級生ですか?」
二人は一瞬だけ目を合わせる。
理事長原稿。パターンC。
「はい」
彩女が綺麗に答える。
「今回は家族旅行で乗鞍高原に来るので、こちらの大会にもエントリーして走るのを楽しみにしていました」
青見も淡々と続ける。
「景色も空気も良くて、走っていて楽しかったです。挑戦できる機会があるのはありがたいです」
そして最後の締め。
「逢瀬学園は、才能があって実力を示した生徒には手厚い支援をしてくれるので、色々挑戦できて楽しいです」
当たり障りなく、綺麗で、炎上しない。
――そして編集室で記者が後から“全国覇者”だと気付いて青ざめる未来が確定する、完璧なコメント。
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夜。温泉。
宿の廊下を曲がった先――「貸切家族風呂」の札が掛かった扉の前で、彩女が立ち止まった。
湯気の匂いが、もうここまで来ている。
「……家族風呂?」
彩女の母が、予約札を指でトンと叩く。
「そう。今日はね、みんなで入ろうって。水着着用だから安心して」
彩女が一瞬、青見を見る。
青見は、表情を変えずに頷いた。
「……はい」
彩女の父が、わざとらしく咳払いをした。
「念のため言っとくが、ここは“混浴っぽい見た目”でも、ちゃんと家族用に作ってあるやつだ。仕切りもあるし、脱衣も別々にできる。……理事長じゃないからな」
「最後の一言いらない!」
彩女が即ツッコミを入れると、母がくすっと笑った。
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家族風呂の中は、思ったより広かった。
檜の匂い。
壁際に小さな椅子と桶。
湯船は丸く、窓の外には夜の木立が揺れている。
湯気が柔らかく立ち上って、昼間の“勝負の熱”をゆっくりほどいていく。
そして――
水着姿の四人が、なんとも言えない距離感で並んでいた。
彩女は腕を組んで湯船の縁に腰掛け、頬が赤い。湯のせいだけじゃない。
青見は背筋をまっすぐにして、妙に礼儀正しく湯に浸かっている。
彩女が、耐えきれずにぼそっと言った。
「……一緒にお風呂とか、何年振り?」
母が湯を手ですくって、肩にかけながら言う。
「ほんとねぇ。小さい頃は普通に一緒に入ってたのに」
彩女は視線を逸らして、ぶっきらぼうに言った。
「幼稚園くらいまではね。……さすがに、それ以上は、な」
「だよねぇ」
母は笑いを含んだ声で頷いて、青見の方を見る。
「青見くんも、小さい頃は?」
青見は少し考えて、淡々と答えた。
「……幼い頃は、あったと思います。記憶はあまり残ってないですけど」
言い方が真面目すぎて、彩女の父が吹き出した。
「お前、相変わらず“礼儀”が先に出るな」
「すみません」
「謝るな」
彩女が小さく笑って、湯を指で揺らす。
湯面が波紋になって、天井の灯りがゆらゆら揺れた。
しばらく、静かに湯の音だけが続く。
その静けさが、逆に“家族旅行”を実感させて、彩女は少しだけ肩の力を抜いた。
「……今日、勝ったから入れるやつだね。これ」
青見が頷く。
「うん。勝ったから」
母が、嬉しそうに息を吐いた。
「頑張った後のお風呂って、ほんとに沁みるわね」
彩女の父が、少しだけ真面目な声で言う。
「二人とも、よくやった。……無茶はするなよ」
「はい」
青見はいつもの温度で返し、彩女も小さく頷いた。
「……分かってる」
その時、母がぽろっと言った。
「でもまあ……こうして皆で入れるのも、たまにはいいじゃない。水着だし、安心だし」
彩女が、なぜか急に咳払いをして、顔を逸らす。
「……まーね」
母は湯気越しに、にやっと笑う。
「そのうち、またこういうふうに、自然に“家族みたいに”入れるかしらねぇ」
「……え?」
彩女が反射で顔を上げる。
母はすぐに手をひらひら振って、何でもないふりをした。
「んーん、な、なんでもない!」
彩女は耳まで赤くなって、湯を両手でばしゃっとすくい、湯気の中に逃げるように顔を隠した。
「……っ、もー……!」
青見は状況が読み切れないまま、でも空気だけは察して、静かに言った。
「……のぼせる前に、上がろうか」
「それは正しい!」
彩女の父が即座に同意し、母は笑いをこらえきれず肩を震わせた。
湯気の向こうで、夜の木立が揺れている。
勝負の疲れと、ちょっとした気まずさと、家族の笑い。
温泉は、今日の“ご褒美”として――完璧だった。