その始まり
最初に揺れたのは、海の底だった。
◆ 福島県沖・日本海溝 ◆
そこは、光という概念のない世界だった。
岩と、熱と、圧力だけがあるはずの深さ。
だが、日本海溝のさらに下――プレートの縁が、ゆっくりと別の層に潜り込んでいくその隙間には、
ひとつの「街」があった。
触手でも脚でもない、岩と同化したような塊たちがうごめいている。
クトーニアンのコロニー。
彼らは、固く乾いた岩を好む。
灼けるような熱と圧力に満ちた世界こそが、安らぎの場所だ。
だからこそ――それは、異常だった。
じわり、と。
岩盤の割れ目を伝って、冷たいものが入り込んでくる。
水だ。
真っ黒な海水が、プレートの隙間からにじみ込み、ひび割れた岩と岩の間を、細い蛇のように滑り落ちてくる。
触れた岩が、わずかに鳴いた。
クトーニアンたちの耳には、それは悲鳴に聞こえる。
ざらり、と。
一体が身をよじり、岩盤を押し広げた。
水を避けるように、奥へ、奥へと潜ろうとする。
それに続いて、何十、何百という群体が、地鳴りのようなうねりを起こした。
水から逃れろ。
岩の奥へ。
もっと深く、もっと乾いた場所へ――。
岩盤に亀裂が走った。
プレートの境界が、想定より大きく「ずれ」る。
その揺れは、波となって地殻を駆けあがり、
やがて、地上の人間たちが「地震」と呼ぶ現象へと変わった。
◆ 郡山・夕方のニュース ◆
『――続いてのニュースです。本日未明、福島県沖の日本海溝付近を震源とする、最大震度5強の地震がありました』
「またかよ」
安生家のリビングで、胆がぼそっと呟いた。
テレビ画面の隅には、震源地を示す赤い丸と、「津波なし」のテロップ。
『専門家によりますと、震源の深さや波形に、やや“特異な点”があり――』
専門家のコメントは、ニュース独特の言い回しに濾過されて、耳に残らない。
ただ、「ちょっと変わった揺れだったらしい」という程度の情報だけが、
郡山の街の空気に、薄いざわめきとして混ざっていった。
◆ 氷室家・地下の小さな部屋 ◆
「……やっぱり、変だ」
暗い部屋の中、モニタだけが青白く光っていた。
グラフ。波形。数字。
氷室 英は、椅子の背にもたれながら、画面に流れるログに目を走らせる。
地震研究所の公開データとは別に、
彼のモニタには、三森峠周辺に設置したセンサー群のデータも並んでいた。
地盤傾斜計。地下水位。湿度。微小振動。
「本震は……ふつうのプレート境界。だけど、ここ」
英は、マウスを動かしてグラフの一部を拡大する。
ぐにゃ、と。
一定周期で刻まれた波の上に、別の「震え」が薄く乗っていた。
規則正しすぎる何か。
まるで、岩の下で“何か”が、足並みを揃えて走り抜けたような――。
「……師匠の言ってた“余計な揺れ”って、これなんだろうな」
独り言のように呟いて、英は一度、椅子の背にもたれた。
その視線の先。
三森峠のセンサーログのグラフだけが、じわりと色を変えている。
夜間だけ、地下水位がわずかに上昇。
旧三森トンネル付近の地盤傾斜が、ほんの少しだけ傾く。
数字としては誤差。
だが、あの峠と、その下に眠るものを知っている者にとっては。
「……笑えないな」
英は小さく息を吐いた。
あのトンネルの奥、脇道の先にある玄室。
棘槍を逆さに突き立てて封じた「棘蔵」。
本来なら、二度と誰も近づけないように、両端をコンクリで埋めてあるはずの旧三森トンネル。
そのどこかが、地震で「きしんだ」のだ。
◆ 旧三森トンネル・夜 ◆
街灯もない山道を、一本の車のライトが抜けていく。
「ここだろ、たぶん」
ブレーキが軋む音とともに、ボロい軽自動車が停まった。
運転席から男子高校生、助手席からもう一人。
どちらもジャージにサンダルという、いかにも「ちょっと肝試ししてきた」格好だ。
「マジでやるのかよ、これ」
「いや、だってさ。埋められたはずのトンネル、今は『入れる隙間がある』って、あのスレに書いてあったろ?」
彼らのスマホには、掲示板のスクショが残っている。
『旧三森トンネル 今入れる』
『埋め立ての横、割れてて人一人くらいなら行ける』
『冷気がヤバい。本当に“向こう側”に繋がってる感じ』
曖昧な写真。
ブレたトンネルの入口。
暗闇の向こうから、白い霧のようなものが流れ出ている。
投稿に付いたレスの中には、
「ネタ乙」と並んで、「でも俺も夢で見た」といった、妙に生々しいコメントも混じっていた。
「ほら、さっさと行こうぜ。動画撮って上げたら、絶対伸びるって」
「……はいはい」
二人は懐中電灯を取り出し、獣道のような旧道跡を歩き出した。
しばらく行くと、木々の切れ間に、ぽっかりと黒い穴が口を開けている。
旧三森トンネル。
入口はコンクリの壁で塞がれ、
白いスプレーで「立入禁止」「危険」と雑に書かれている。
だが、その壁の端――地盤との境目に、
人間の肩幅ぎりぎりの「割れ目」が、確かに存在していた。
そこから、風が吹き出している。
夏の終わりだというのに、その風は冬の冷気のように冷たく湿っていた。
「……うわ、キモ」
「マジで冷蔵庫じゃん、中」
懐中電灯の光が、割れ目の奥を照らす。
剥き出しのコンクリ。黒く濡れた壁。
奥へ奥へと続く、細い暗闇の筋。
じっと耳を澄ますと、かすかな音がする。
ピチャ……ピチャ……ピチャ……
どこかで、水が落ちる音。
もう一つ。
足音にも似た、規則的なざわめきが、一瞬だけ混ざった気がした。
行進のリズム。
だが二人は、そこまで聞き分ける耳を持っていない。
「な? やべぇって。こんなん、バズる未来しか見えねぇ」
「……うん、まぁ。ちょっとだけ、だぞ?」
そう言って、先に腰をかがめた方が、割れ目の中へと身を滑り込ませる。
ひんやりとした空気が、肌を撫でた。
足首のあたりまで、冷たい何かに浸かったような錯覚。
彼は思わず、足元を照らす。
そこに水たまりはない。
ただ、わずかに暗いトンネルの床があるだけ。
「……変な感じ」
「ビビってんのかよ。ほら、さっさと奥――」
友人の声が、背後で途切れた。
「おい?」
振り返る。
割れ目の向こう、夜の闇の中にいるはずの友人の姿が、一瞬、ぼやけて見えた。
車のヘッドライトに照らされる影。
そのすぐ後ろに、もう一つ、彼と同じくらいの背丈の「影」が寄り添って立っているように見えて――。
「……おーい? 入んねーの?」
瞬きをした瞬間、幻覚は消えた。
いつもの友人が、いつものように間抜けな顔で、割れ目の向こうから覗き込んでいる。
「……なんだよ。早くしろって」
「あ、ああ。悪い」
トンネルの奥から、風が吹いた。
その風は、言葉ではない何かを運んでいた。
列を成せ。
進め。
こちらへ。
彼らには、意味を理解できない。
ただ、「ちょっとワクワクする」「妙に心が浮つく」程度の感覚としてしか、受け取れない。
だが、棘槍は知っている。
この山の腹の奥、石の床に逆さに突き立てられたまま、
長いあいだ眠っていた「死者の槍」は、いまやっと、息を吸い込んだところだった。
地震が、扉を少しだけ開いた。
ならば、行列を増やすときだ。
水底へ向かう長い長い行列――
その先頭に立つべき「シモベ」を、呼び寄せるために。
◆ 氷室家・同じ夜 ◆
英のスマホが、机の上で震えた。
通知。
自動監視しているキーワードのアラート。
画面を開くと、見覚えのある単語が並んでいる。
『三森 旧トンネル ヤバい』
『マジで冷気すごい 埋めてる壁の横から入れた』
『動画うpした これ夢のやつと一緒なんだけど』
「……やっぱり、開いたな」
英は小さく舌打ちした。
数字も、ログも、噂も。
全部、同じ方向を指している。
三森峠の旧道トンネル。
埋め戻されたはずのその奥に――
死者の槍《棘槍》が、また外の世界に手を伸ばそうとしている。
「一人じゃ、ちょっと手が足りないかもしれませんね」
彼は眼鏡のブリッジを押し上げて、椅子から立ち上がる。
明日。
学校で、あのクラスメイトたちに声をかけよう。
三森峠の旧トンネルに、ちょっと“見てもらいたいもの”がある――と。