尚、現地はクマが出るし、行方不明者も出てるので行かない様にして下さい。
旧三森トンネルの口は、思っていたよりも低かった。
山肌をくり抜いた穴を、無理やりコンクリの壁で塞いだような造り。
その端っこ、斜面との境目に、英たちが昨日ネットで見たとおりの「割れ目」が口を開けていた。
そこから、ひゅう、と冷たい風が吹き出してくる。
「……写真より、嫌な感じだな」
惣一郎が、小さく肩をすくめる。
「夏なのに、ここだけ冬ですよ」
勇吾が、腕に鳥肌を立てながら言った。
呼気が、うっすら白く見える気さえする。
英は割れ目に近づき、内部を覗き込んだ。
懐中電灯の光が、コンクリの壁と、黒く濡れた路面を照らし出す。
ほんの数メートル先で闇が濃くなり、その先には何も見えない。
耳を澄ますと、ほとんど風の音に紛れて――
ピチャ……ピチャ……と、水の落ちるわずかな音。
それから、もっと細かい「ざっ、ざっ」というリズム。
(……中で、もう“行列”が動き出している)
英はその感覚を飲み込み、ひとまず顔を上げた。
「とりあえず、割れ目の幅と深さを確認して――」
「君たち、そこで何をしている?」
背中に、落ち着いた男の声が落ちてきた。
四人が同時に振り向く。
少し離れた斜面の上から、一人の男がこちらを見下ろしていた。
ヘルメットに反射ベスト。
肩からは測量用らしい三脚とケースを提げている。
作業服は灰色がかったカーキ色。ぱっと見には普通の現場技術者だ。
ただ――
道端は乾いているのに、その足元だけ、じわりと濡れていた。
靴の周りの土が、そこだけ色を濃くしている。
「……やば」
惣一郎が、反射的にバリケードの方へ視線を向ける。
男はゆっくりと斜面を降りてきて、四人の数メートル手前で立ち止まった。
英は、一瞬だけ息を飲み、それからいつもの「外向けの顔」に切り替える。
「すみません。通行止めなのは分かっていたんですが、地震の後の状態が気になって」
男は、彼をじっと見た。
眼鏡の奥の目と、男の目がぶつかる。
くすんだ茶色。
だが、その奥に、深い水底のような暗さが一瞬だけ覗いた気がした。
「……君たちは?」
男が尋ねる。
「逢瀬学園の二年です」
英が答えた。
「僕は氷室。こちらはクラスメイトで、ええと……一応、郡山のオカルト研究会分室、という建前もあるのですが」
「建前って言うなよ」
惣一郎が小声で突っ込む。
男は、わずかに口元をゆるめた。
「高校生か。こんなところまで、よく来たね」
低い声。落ち着いた調子。
仕事で場数を踏んだ社会人にありがちな、相手を威圧しない距離感。
「私は、水野といいます。水野雅則。地質調査会社の者です」
胸ポケットから、会社名と顔写真の入った身分証を取り出して見せる。
「道路崩落対策調査」「福島支社」の文字がちらりと見えた。
「地質調査……」
青見が、どこか引っかかるような顔をする。
水野は、四人を順に見渡した。
背の高い剣道部上がりらしい少年。
無駄のない筋肉を纏った、不思議な雰囲気の少年。
悪友タイプの、どこか猫背の少年。
そして、眼鏡の奥で様子を伺っている、線の細い少年。
その視線が英に戻ったとき、一瞬だけ、空気が重くなる。
(……気付いてる?)
英は、自分の背中をつたう冷たい汗を意識した。
水野の周囲に、微かな匂いがある。
濡れた段ボール。
クローゼットの奥で湿ったまま放置されたタオル。
湿布とカビと、古い地下室を混ぜ合わせたような、重い湿気の匂い。
勇吾が、ほんのかすかに眉をひそめた。
(この匂い、嫌いだ。……“あそこ”と似た匂いがする)
彼の中の何かが、警戒のスイッチを入れる。
「地震の後の点検ですか?」
英が、わざと何気ない調子で問いかける。
「ええ。このあたりは、崩落しやすい地質ですからね」
水野は、視線をトンネルの入口に移した。
「旧道トンネルは本来、完全に封鎖されているはずでしたが……どうやら隔壁にヒビが入ったようだ。昨日、別の班がここを通ったときには、まだ割れ目はなかったと言っていましたけどね」
昨日――。
英は、掲示板の書き込み時間を思い出した。
肝試しに来た誰かが、割れ目を見つけたその夜。
それより前に、すでに「現場の人間」はここを見ていたことになる。
(……本当に“現場の人間”なら、だけど)
「君たちは、この中に入ろうとしていた?」
水野が、淡々と問う。
「まぁ、その……」
惣一郎が気まずそうに頭を掻く。
「噂になっててさ。埋められたトンネルが開いたって。現地確認くらいなら良いかな、って」
「良くないですよ、惣一郎」
英がすかさず突っ込む。
水野は、そのやり取りを見て、くすっと笑った。
「肝試し、というやつかな」
「……否定は、できません」
青見が観念したように言う。
水野は小さく頷き、トンネルの壁に近づいた。
コンクリの表面を手袋越しになぞり、割れ目の縁を覗き込む。
その動きは、いかにもプロの技術者らしい。
端的で、無駄がない。
だが、英には、別のものが見えていた。
割れ目から吹き出す冷気が、水野の足元で揺れている。
まるで、そこだけ水面を撫でるように。
英の耳の奥で、ピチャ……という音が一段階大きくなった。
「君たちの言い分も分かりますが、ここは危険です」
水野が、振り返る。
「地震でトンネル内の天井が落ちているかもしれない。二次災害が起きれば、私の仕事も増えますしね」
冗談めかした言葉に、惣一郎が苦笑いを返す。
「そう言われると、何も言い返せねぇな」
「ですから――」
一拍置いて、彼は英を見た。
「引き返した方が、賢明ですよ。氷室くん」
名字を一度も名乗っていないのに、自然に「氷室くん」と呼んだ。
英の眉が、わずかに動く。
制服の名札を見たのだ、と言われればそれまでだ。
実際、胸元には「氷室」と書かれたプレートがついている。
だが、さっき名乗ったとき。
(“氷室”って、僕、言いましたっけ)
頭の端でそんな違和感が灯る。
「……そうですね。無理はしないつもりです」
英は、表面上は素直に頷いた。
「ただ、ここがどういう場所かは把握しておきたい。師匠に報告もしなければなりませんから」
「師匠?」
「地質の……いえ、結界と地盤の……その、ええと……」
言い淀む英を見て、水野はまた、口元だけ笑った。
「なるほど。君たちは君たちなりの“仕事”でここへ来た、と」
「まぁ……そんなところです」
「そうですか」
水野はそう言って、四人の顔を一人ひとり見つめた。
その視線は、舐めるようでも、値踏みするようでもない。
ただ、まるで「並べられた標本を確認している」ような静けさがあった。
「では、今日のところは、お互い“顔見せ”ということで」
ゆっくりと、言葉を選ぶように続ける。
「私は、上から正式に入った調査です。君たちは――そうですね、“個人的な興味”とでも言っておきましょう」
英は黙っている。
惣一郎が、どこか居心地悪そうに頭を掻いた。
「怒らないんすか? 勝手に入ろうとしてたのに」
「怒っても、君たちはまた別の日に来るでしょう?」
水野は、あっさりと言った。
「だったら、今日は“ここまで”にして帰ってもらう方がいい。私も、君たちの顔と人数を覚えましたしね」
言いながら、手帳をちらりと見せる。
そこには何も書かれていないが、ジェスチャーとしては十分だった。
惣一郎が、「うわ」と小さく声を漏らす。
「監視対象に入っちゃった気がするんだけど」
「元から色々に入ってるでしょ、惣一郎は」
青見が、小声で返す。
英は、一度だけ深く息を吸った。
「……分かりました。今日は、外観の写真だけ撮って引き上げます」
「それが良いです」
水野は、満足そうに頷いた。
その一瞬、トンネルから吹き出す風が、彼の足元で渦を巻いた。
冷たい霧のようなものが、靴の周りでふわりと浮かび上がる。
それを見て、勇吾がほんのわずかに身構えた。
(人間じゃない“何か”が、足元から立ち上がってる)
だが、他の二人にはそこまでハッキリとは見えていない。
水野は、英に向かって右手を差し出した。
「現場で会う縁も、何かの機会でしょう。以後、お見知りおきを」
英は、一瞬だけ躊躇した。
手袋をしたままの手。
布の隙間から覗く手首の皮膚は、わずかに白くふやけている。
――長く、水に浸けたまま放置したような。
「……氷室です。こちらこそ」
英は、その手を取った。
布越しなのに、妙に冷たい。
握った瞬間、頭の奥で、水音が跳ねた。
ざわり、と。
湖の底に沈んだ無数の柱――槍に刺さった影の列――が、
一瞬だけ、英の意識の裏側に浮かび上がる。
すぐに手を離す。
「大丈夫ですか?」
勇吾が、英の顔を覗き込んだ。
「ちょっと冷たかっただけです。……冬の水道水レベルでした」
「それはまぁ、普通じゃないですね」
英の乾いた冗談に、惣一郎が「だよな」と小さく笑う。
水野は、自分の手袋を見下ろし、何事もなかったかのように三脚を担ぎ直した。
「では、私は上に戻ります。ここから先、くれぐれも“自己責任で”」
そう言い残して、斜面を登っていく。
足元の土が、濡れた靴のあとだけ、ぽたり、ぽたりと黒く染まっていった。
四人は、しばらく黙ってその背中を見送っていた。
「……英」
ややあってから、青見が口を開く。
「あいつ、どうだ?」
「どう、とは?」
「危険度だよ。クマと比べて」
例えが安生家基準なのがどうかと思いながら、英は少しだけ考えた。
「クマが“目に見える脅威”だとしたら……」
トンネルの暗闇を見やる。
「今の人は、“水面の下で足を掴んでくる何か”ですね。
気付かないうちに、じわじわ引きずり込まれるタイプの」
「最悪じゃねぇか」
惣一郎が、心底うんざりした声を出した。
それでも、今日という日は、まだ「顔見知り」になっただけだ。
水野 雅則。
道路崩落対策の専門家を名乗る男。
彼の本当の仕事と、旧三森トンネルの奥で眠る「槍」との距離を、
英たちは、これから嫌というほど思い知ることになる。