山道を押し戻って、四人がそれぞれの足と車輪を回収したころには、日が傾きかけていた。
その日のうちに、英は三つの「報告」と「説教」と「手配」を片づけることになる。
◆ 逢瀬学園・理事長室 ◆
放課後、人気の薄くなった校舎の最上階。
ノックを三度。
中から「どうぞ」という落ち着いた声がする。
「失礼します。氷室です」
扉を開けると、広い理事長室には、窓からの夕陽と、書棚の影だけが落ちていた。
ソファの向こう、机に書類を広げているのは、
逢瀬学園理事長・伊集院 貴也。
氷室 英の師匠――伊集院謙吾と同じ血を引く男であり、
この街の「表と裏」のバランスを預かる一人でもある。
「おや、英くん。今日は早いね」
貴也が顔を上げ、微笑を浮かべる。
「はい。早めにお伝えした方がいい案件でしたので」
英は扉を閉め、足早にソファの前まで進んだ。
理事長は「まぁ座りなさい」と片手で促すが、英は立ったまま報告を始める。
「三森峠の旧トンネルです。――埋め戻しの隔壁に亀裂が入り、内部への侵入が可能になっていました」
「やはり、さっきの地震の余波か」
貴也の声色が、少しだけ真面目なものに変わる。
「中は確認したかね?」
「外観までです。割れ目からの冷気と水音、それから……」
英は、トンネルの前で聞いたあのリズムを思い出す。
「“行列”の足音が、かすかに。
棘蔵の封印そのものに、大きな破綻はまだ出ていないと思います。ただ、外装が“薄くなった”感触です」
「ふむ」
貴也は頷き、指先で机の上を小さく叩いた。
「…そして、もう一つ」
「まだあるのかい」
「現場に、『地質調査会社の技術者』を名乗る人物がいました」
英は、握手したときの冷たさを思い出しながら続ける。
「名前は水野 雅則。道路崩落対策の専門家という触れ込みでした。身分証も、それらしく」
「“それらしく”、か」
「ええ。
外見は普通の四十代男性ですが、足元だけずっと濡れていました。雨も降っていないのに。
近づくと、湿布とカビと、古い地下室を混ぜたような匂いがして……」
貴也の表情が、そこで一瞬止まった。
「英くん。彼は、君の名字をどう呼んだ?」
「『氷室くん』と。名乗っていないのに」
「名札だろう、と片付けることも出来るが……」
理事長は、椅子の背にもたれかかり、天井を見上げる。
「三十年前、猪苗代湖で行方不明になったダム技師の事件を覚えているかい」
「師匠の資料で、名前だけは」
「水野 雅則。地質調査のプロだった男だ」
空気が、わずかに冷えた。
「――行方不明時の年齢と照らし合わせると、
今、生きていれば六十代半ばのはずだがね」
貴也は、静かに言った。
「君の見た“水野”は、どう見ても四十代半ばだった。そうだろう?」
「はい」
英は、握った手の冷たさを、もう一度確かめるように指を動かした。
「湖底で眠っていた死体を“素材”にした従者、というわけですね」
「そう考えるのが自然だ」
理事長は、肘掛けに組んだ指先を顎に当てた。
「三森峠、棘蔵、地震、水野。
いくつかの線が、同じ場所を指している」
短い沈黙。
「師匠――謙吾先生は?」
英が問う。
「四十九囲区結界の中枢から動けん。
君も知っている通り、今は“王”の案件で手一杯だ」
「ですよね」
分かっていた答えだ。
「だからこそ、君に現場を任せている。
三森は、君の“生活圏”の一部でもあるからね」
貴也は、英の目を見る。
「怖いかい?」
「……正直に言えば、怖いですよ」
英は、苦笑した。
「ただ、怖いからといって放置できる場所でもありません。
ここが抜ければ、棘蔵から漏れたものが、真っ先に降りてくるのは――」
「君の家と、学校だ」
理事長が言葉を継ぐ。
「はい」
英は深く頷いた。
「君一人で背負えとは言わん。
だが、君が前に出ないと、誰も適切な距離で“現場判断”ができない」
「分かっています。……だから、今日も彼らを連れて行きました」
「彼ら?」
「東くんと、伊東くんと、火鳥くんです」
貴也の口元に、かすかな笑いが浮かぶ。
「なるほど。最前線の“生活圏側”というわけだ」
「はい。
あの三人が、“人間側の現実”を持ち込んでくれる限り、ボクはまだ『人間のための結界管理』として動けます」
「頼もしいね」
理事長は軽く肩をすくめ、それから真面目な声に戻った。
「英くん。
君には、二つ頼みたい」
「二つ?」
「一つ。
水野 雅則の動きを、結界側と情報側から監視すること。
夢経由での接触も含めて、可能な限りログを残してくれ」
「了解しました」
「二つ。
次に現場へ入るときは――車輪の戦力を一人増やしなさい」
英が目を瞬く。
「……車輪?」
「火鳥くんだよ」
貴也が、わざとらしく咳払いをする。
「彼に原付二種を取らせて、ハンターカブでも用意しなさい。
今のメンバー構成だと、足が足りない」
英は、一瞬きょとんとして、それからふっと笑った。
「やっぱり、そうですよね」
「“生活圏の王候補”を、徒歩か自転車で山に向かわせ続けるのは非効率だ」
冗談めかした口調だが、内容は至極真面目だ。
「分かりました。――火鳥くんには、ボクから話を通しておきます」
「頼むよ。免許と、あのバイクの代金くらいなら、
『結界維持のための設備投資』として予算もつく」
「経理にどう説明するんですか、それ」
「“防災協力費”だよ」
さらっと言ってのける理事長に、英は思わず苦笑した。
◆ 逢瀬学園・カフェテリア ◆
同じころ、別の場所では、別種の「報告会」が開かれていた。
「――で? あんたら、どこ行ってたの?」
フォークをくるくる回しながら睨んでいるのは、安達 彩女。
その隣では、松坂 愛香が、笑っているのか怒っているのか分からない微妙な表情をしている。
向かい側の席で、トレーを前に固まっているのが、青見と惣一郎。
「どこって……ちょっと山の方を走りに」
「“山の方”って言い方がもう怪しいんだよね」
彩女が、目を細める。
「スマホの位置情報見たらさ、思いっきり“三森峠方面”って出てたんだけど?」
「……あ」
惣一郎の肩が、露骨に跳ねた。
「愛香、おまえまた惣の位置情報とってんの?」
「“また”ってなに? 心配だからに決まってるじゃん」
愛香は、さらっと言う。
「それに、三森峠ってさ。こないだの地震の後、崩落のニュース出てたよね?
そんなところにバイクで突っ込んでって、無事だからいいけどさ」
「いや、ほら。英も一緒だったし」
惣一郎が、悪あがき気味に言う。
「あの人、危険そうなら止めるだろうし」
「その英くんが、危険なとこ連れて行く張本人だって、いつになったら学ぶの?」
彩女のツッコミが容赦ない。
「で、なに? また“肝試し”?」
「半分は仕事だよ」
青見が、重い腰を上げるように口を開く。
「英の“現場確認”手伝い。オレと惣一と火鳥で、付き合ってきただけだ」
「……“だけ”ねぇ」
彩女は、ため息をついた。
「どうせさ、バリケードくぐって、廃道押して、その先のヤバそうなトンネルの前まで行ったんでしょ?」
「なんで分かる」
「分かるわ!」
テーブルが軽く揺れる。
「青見。あんた、昔からそう。『危ないかも』って分かってても、“自分が見とかなきゃ気が済まない”って顔して突っ込むでしょ?
剣道の時もそうだったけど、山とか怪異相手にまでそれやるの、やめなさいよ」
青見は、言葉に詰まった。
「……見ておかないと、何かあったときに後悔すんだよ」
「後悔するのは、置いてかれた方だってば」
彩女は、まっすぐ彼を見た。
「“何かあったとき”ってさ。
あんたが無事に帰って来なかったときのこと、考えたことある?」
その言葉に、青見は視線を逸らす。
代わりに、隣で惣一郎が「はいすみません」と頭を下げた。
「ちょっと軽く考えてました。俺も反省してます」
「惣くんは最初から反省して」
愛香が、頬をぷくっと膨らませる。
「だってさ、地震の後の山道でしょ? 落石あるかもだし、路肩崩れてるかもしれないし、
幽霊以前に“物理的に危ない”じゃん」
「物理的には、だいぶ危なかったな」
惣一郎が、正直に認める。
「途中からガレ場でさ。英のスクーターは腹擦るし、火鳥のクロスバイクはパンクするし、結局全員押して歩いた」
「は?」
彩女と愛香の声がハモった。
「押して歩いた?」
「ええ。押して歩いた」
青見が、やや気まずそうにうなずく。
「ほぼ登山だった」
「……それ、もうツーリングじゃないよね?」
彩女が呆れ、愛香が頭を抱えた。
「ねぇ青見。
今度からさ、“ガレ場押して進むレベルの現場”に行くときは、一言でいいからLINE頂戴」
「なんて送ればいいんだよ」
「『今から馬鹿なことしに行きます』で良いから」
「自己申告ひでぇな」
苦笑しながらも、青見は「分かった」と小さく頷いた。
「……ちゃんと戻って来いよ」
最後に付け加えた彩女の声は、さっきより少しだけ小さかった。
◆ 火鳥勇吾、次の乗り物を得る ◆
「原付二種免許、ですか?」
翌日。放課後の廊下で、勇吾は首を傾げた。
英が、いつもの淡々とした口調で告げる。
「はい。
今回みたいな山間部の現場に行くことを考えると、徒歩と自転車だけでは機動力が心許ないですから」
「ボクなら、走って行っても問題はありませんが」
「君の体力前提で物事を組み立てないでください」
英は、軽くため息をついた。
「火鳥くんが“普通の人間”として生活するつもりなら、
一般的な移動手段も一通り持っておいた方がいい。
その一つとして、原付二種免許を取っておいて損はありません」
「なるほど」
勇吾は、素直に頷く。
「それに――」
英は、やや声を落とした。
「クマでも怪異でもなく、“山の中で事故った一般人”を見つけたとき。
救助や通報のための足があるかどうかで、生存率は変わります」
「……それは、確かに」
勇吾の目が、わずかに真剣になる。
「ボクは、自分の好ましい対象や、安生家、逢瀬学園の生活圏を守るために動いています。
その観点から考えても、移動手段の強化は合理的です」
「ですよね」
英は、少しだけ口元をゆるめた。
「それに――」
今度は、ほんの少しだけ冗談めかす。
「ハンターカブ、似合うと思いますよ。火鳥くん」
勇吾は、ぱちぱちと瞬きをしたあと、こくりと頷いた。
「では、手続きしてきます」
「はい。
これからはあると便利でしょうから、取っておいて下さい。
バイク本体の方は、理事長から“防災協力費”が出ます」
「便利な名目ですね」
「便利な名目です」
二人は、珍しく同じ言葉で締めくくった。
その週末。
郡山駅近くの小さなバイクショップ。
「……これが、ハンターカブ」
勇吾は、展示車の前で立ち止まった。
深緑の車体。
丸いヘッドライト。
がっしりしたフレームと、太めのタイヤ。
無駄のない実用一点張りのバイク――なのに、どこか愛嬌もある。
「いいねぇ、君。身長あるし、足も長いし、全然余裕で跨れるよ」
店主のおじさんが、感心したように言う。
「安生道場の子かい? この前、お父さんの方がクマの話してたけど」
「はい。ボクは内弟子の火鳥です」
「そりゃまた、すげぇとこで修行してるな」
勧められるまま、勇吾はシートに跨る。
両足がしっかりと地面に着く。
ハンドルまでの距離も、窮屈さはない。
(これなら、道場への行き帰りも、山への移動も効率化できる)
頭の中で、ルートと所要時間が自動的に組み立てられていく。
「色はどうする? このグリーンの他に、赤とかマットなブラックもあるけど」
「安生家の周辺環境と、山林での視認性を考えると――」
勇吾は少し考えてから言った。
「このグリーンでお願いします。
自然の中でも浮きすぎず、かといって見失われるほどではない、中間値です」
「“見失われる”って表現は初めて聞いたなぁ」
店主は笑いながら、注文書を取り出した。
「じゃ、免許の取得手続きの方は進めてるってことでいいね」
「はい。学科と実技も、早急に終わらせます」
「頼もしいねぇ。最近の若い子は原付に乗りたがらないのに」
「ボクは、“生活圏の王候補”なので」
「なんだいそれは」
「人に説明しても、あまり理解されない概念です」
勇吾は、さらっとそう言って署名した。
これで、彼の“足”は一つ増える。
山へ、峠へ、棘槍と従者と、その先にいる“外なるものたち”との距離を、
ほんの少しだけ、自分の意志でコントロールできるようになる。
そのころ英は、自室の端末で、
三森峠周辺のセンサー配置図の隅に、新しいアイコンを一つ追加していた。
『火鳥勇吾/機動戦力(原付二種)』
「……これで、少しはマシになりますかね」
小さく呟いて、椅子にもたれる。
スクリーンの端では、まだ三森峠の地下水位のグラフが、
夜だけわずかに跳ね上がっては、ゆっくりと沈んでいく波形を描き続けていた。