英の家は、学校から少し離れた、山根町のはずれにある。
門構えだけ見れば、どこにでもある古い一軒家だが――
敷地に足を踏み入れた瞬間、彩女は鼻の奥をくすぐる匂いに首を傾げた。
「……なんかさ、本とか紙の匂いすごくない?」
「蔵ごと本棚、みたいなもんだからな、ここ」
すでに何度か来ている惣一郎が、慣れた感じでスニーカーを脱ぐ。
「昔の伊集院家から譲られた屋敷なんだっけ?」
「はい。三代くらい前の当主が、『本の置き場がないから』って理由で」
英は淡々と答え、玄関の奥へと皆を案内した。
廊下を抜けると、すぐにそれと分かる一室がある。
壁一面、本、本、本。
天井まである本棚に、古い箱と、紙束と、謎の巻物が無造作に詰め込まれている。
「……図書室より濃いな、ここ」
青見が、思わず小声になる。
「“なんか出そう”って意味ではな」
「出ませんよ。出るのは、埃と鼻水くらいです」
英はそう言いながら、部屋の隅に置かれた金属製のキャビネットを開けた。
鍵を二つ外し、古びた取っ手を引く。
中から、灰色のボックスファイルがいくつか出てくる。
「三森峠関係……三森……」
英がラベルを追い、一本を抜き出した。
“昭和三十年代 三森峠旧道工事/棘槍(仮称)”
「名前からして物騒なんだが」
惣一郎が顔をしかめる。
「当時はあくまで“仮称”です。正式名称にしたいわけじゃないですよ」
英は、ボックスから紙束と写真の封筒を取り出し、低いテーブルの上に広げていった。
モノクロの写真。
手書きの図。
古いタイプライターの文字が並んだ報告書。
「……お、これ」
惣一郎が、一枚の写真を指さした。
山の斜面を背に、二人の人物が並んで立っている。
一人は、着物姿の若い女。
腰まである黒髪をきちんとまとめ、和装の上から作業用のジャンパーを羽織っている。
背は高くないが、どこか“太く”見える輪郭だ。
もう一人は、スーツ姿の青年。
まだ二十代とおぼしき顔つきだが、目つきだけ妙に鋭い。
「……理事長、に似てんな」
青見が、写真を覗き込みながら言った。
「この人が、若い頃の伊集院謙吾先生です」
英が頷く。
「隣が?」
「安達トメ。今の安達の里の大巫女さんです」
「え、うちの“おばあちゃん”? こんな感じだったんだ、昔」
写真の中のトメは、鋭い目でカメラを睨んでいた。
着物の裾をたくし上げ、長靴を履いて、山の泥に立っている。
「カメラ向けられてこれって、相当気合入ってる時だな」
惣一郎が、どこか感心したように呟く。
英は、その隣の紙を一枚指で押さえた。
手書きのラフスケッチ。
四角い枠で描かれたトンネルと、その脇から分岐する細い通路。
その先に、丸で囲まれた空間――石室。
石室の中央には、槍のようなものが逆さまに突き立てられている。
その横に、さらりと走り書きがあった。
『棘槍(仮称)/湖底から伸びた“指”の一部か?』
「やな字面だな、ほんと」
惣一郎が顔をしかめる。
「トンネルの脇道って、この前の“割れ目”の先か?」
「可能性は高いですね」
英は、スケッチと、現代の地形図を見比べながら頷いた。
「師匠のメモを見る限り――」
別の紙束から、一枚を抜き出す。
そこには、簡潔なメモ書きが並んでいた。
『山と湖の間に“バッファ”を設ける』
『安達側・湖側双方の地脈を束ねて棘槍を固定』
『将来、安達の子らと、我が弟子に封印更新を託す』
「“託す”って……」
彩女が、思わず口を挟んだ。
「それ、あんたのことでしょ、英」
「文脈からすると、そうですね」
英は淡々と答える。
どこか他人事みたいな口調だが、指先がわずかに強く紙を押さえている。
「だからこそ、安達の側に直接聞きに行った方が早い」
「トメさんにか?」
「はい。
当時、現場を見て、山の側から“湖底の棘”の気配を読んだ人ですから」
英は、顔を上げて三人を見渡した。
「お願いがあります。安達の里まで、付き合ってもらえますか」
「もちろん」
青見は、即答した。
「ここまで来て『怖いから行かない』は、オレのプライドが許さねぇ」
「“プライド”の方向性どうなんだろな」
惣一郎は肩をすくめつつも、「でも行くけど」と笑う。
「愛香にはあとで説明しとくから。どうせバレるし」
「火鳥くんも来たがるでしょうしね」
英は、しれっと全員分の参加を前提に話を進めた。
「じゃあ、明日。放課後、そのまま。
安達の里の方には、先に連絡を入れておきます」
◆ 安達の里・鬼の家 ◆
山を一つ越えた先に、その集落はあった。
表向きの地図には載っていない。
山道の途中で分かれる細い道を入り、さらに獣道みたいな坂を登った先。
古い瓦屋根と、真新しいトタンが混ざった家々。
奥には、湯けむりの立つ共同浴場――「鬼ノ湯」の煙突が見える。
「マジであったんだ、“鬼の隠れ里”……」
初めて来た惣一郎が、半ば感動、半ば引き気味に呟いた。
「お前、その口ぶり、里の連中に聞かれたらシメられるぞ」
青見が肘で小突く。
「大丈夫です。ここまで来る外部の人間、基本的に“事情持ち”しかいませんから」
英は、案内してくれた若い男に軽く頭を下げた。
「おばあちゃんのところまで頼むね、洵くん」
「はい、氷室様。トメ様、今日は調子いいですよ。……あ、彩女姉ちゃん、お帰り」
「ただいま。おばあちゃん、機嫌悪くなってない?」
「それは会ってからのお楽しみですね」
洵と呼ばれた青年は、どこか彩女にも似た鋭い目つきをしていた。
鬼の血を引く安達の若者――だが、英には礼儀正しい。
「……“氷室様”って呼ばれるのお前ぐらいだよな、同級生で」
惣一郎が小声でぼやく。
「やめてください。慣れません」
英は、目をそらした。
案内された家は、里の中でも一番古そうな造りをしていた。
広い縁側と、低い瓦屋根。
風鈴が一つ、ちりんと鳴る。
「トメばあちゃん、英と青見たち連れてきたよー」
彩女が戸を開けると、奥の部屋からしゃっきりした声が聞こえた。
「うるさいねぇ、その呼び方は相変わらずだね、彩女。入っておいで」
「はいはい」
彩女がぞんざいとも甘えともつかない返事をして、四人を手招きする。
部屋の中は、思っていた以上に生活感があった。
畳にちゃぶ台。
古いブラウン管テレビ(なぜかまだ現役)。
壁には、昭和の頃に撮ったらしい家族写真と、山の風景画。
その真ん中の座布団に、安達 トメが座っていた。
一見すれば「山の古株のばあちゃん」だが、
背筋は真っ直ぐで、目つきは若い頃の鋭さをそのまま細くしたようだ。
「ほう」
英たちを見て、トメの目が細くなる。
「氷室の坊に、惣一郎の坊。それと――」
視線が、すっと青見に止まる。
「久しぶりだね、彩女の婿殿」
「はっ?」
青見より先に、彩女が跳ねた。
「待って、ばあちゃん!? なんで初手それなの!」
「事実は早めに言っといた方が話が早いだろ」
トメはあっさり言い切る。
「東の坊、じゃなかったな。東の婿殿か。顔をよく見せな」
「あ、東青見です。……ええと、その、まだ婿になる予定とかは」
「予定はこれから固めるんだよ。彩女があれだけ分かりやすく尻尾振っとるのに、今さらとぼけるんじゃないよ」
「ばあちゃん!」
彩女の顔が一気に赤くなる。
「やかましい。あんたは黙って座ってな。――で、そっちの猫背は伊東の坊だな。口の悪さは相変わらずか」
「初手から手厳しいですね!? 伊東惣一郎です。お久しぶりです」
「口が回るのは結構。余計なこと言って首突っ込まんよう気ぃつけな」
「はい……」
惣一郎がしゅんとする横で、英が前に出た。
「お久しぶりです、安達トメ様。氷室 英です」
「うん。顔つき、少しは“現場の顔”になってきたね」
トメは、英の顔をじっと覗き込んでから、満足げに頷いた。
「で、今日は遊びに来た顔じゃない。話を持ってきた顔だ」
「はい。見ていただきたいものがあって」
英は、持ってきた封筒から、一枚の写真を取り出した。
若い日のトメと、伊集院謙吾が並んで写っている、あの写真だ。
「こっちに」
英が写真を差し出すと、トメは「ふん」と一声だけ返し、それを受け取る。
光にかざして、じっと見る。
老眼らしい仕草はあるが、その目は全くぼやけていない。
そして――ある瞬間、ぴたりと動きが止まる。
部屋の空気が、一段階、冷たくなった。
「……その顔」
トメが、低く言った。
「忘れようにも忘れられんわ。
伊集院の、あの生意気な坊の顔じゃ」
写真から視線を外し、英の顔を見る。
さっきまでの柔らかい祖母の顔ではない。
山の巫女として、幾度も“向こう側”を見てきた者の目だ。
「で、その弟子が、あんたか」
「はい。氷室 英です」
英は、背筋を伸ばして頭を下げた。
「三森峠の棘蔵について、教えて頂きたくて参りました。
封印に、異常が出ている可能性があります」
トメは、写真をちゃぶ台に置いた。
「地震の揺れ方が悪かったからね。嫌な感じはしてたよ」
ちゃぶ台の縁を指でとん、と叩く。
「山の底が、一回“のたうった”。日本海溝の方でクトーニアンが暴れたのとも、少し響き方が違った」
「やっぱり、感じてましたか」
英が頷く。
「プレートのずれに、余計な“怒鳴り声”が乗ってました。
こっちでもイヤな波形が取れてます」
「機械でも感じるくらいなら、本物だね」
トメは小さく笑った。
「じゃあ座りな。氷室、婿殿、伊東。彩女も。話は長くなる」
彩女が、むっとしながらも「婿殿」のところで青見を横目で見る。
「青見、変な期待したら殴るからね」
「してねぇよ」
そんなやり取りをしつつ、全員がちゃぶ台の周りに座った。
トメは、テレビのリモコンをぱちんと押して音を切る。
「三森峠の話はね――」
その声ははっきりしていて、よく通る。
「わしと、伊集院の坊と、山と湖で、どうにかこうにか“手打ち”にした話だ」
昭和三十年代。
ダム工事と旧道の建設ラッシュ。
その裏で、三森峠の工事現場では、連続して「転落」「地すべり」の事故が起きていた。
「作業員の一人がね、『地面の下から槍に刺さった人影の列が見える』なんてこと言い出してね」
トメの指先が、ちゃぶ台の上に線を描く。
「湖の底から伸びた“棘”が、山ん中を這って、この里のすぐ下まで来てた」
「猪苗代の……“あれ”の、指ですか」
英が言葉を選ぶ。
「名前をはっきり呼ぶんじゃないよ。向こうが耳を立てる」
トメはぴしゃりと言い、続ける。
「湖底の棘はね、山の地脈を伝って伸びてきてた。
放っときゃ、この山ごと“あちら側”へ引きずられてく」
青見が、無意識に背筋を伸ばした。
「それを止めるために、棘蔵を?」
「そうだよ」
トメは、懐から古びた紙片を取り出した。
そこには、石室の簡単な図が描かれている。
トンネル、脇道、玄室。その中央に逆さに刺さった槍。
「石室を“倉”に見立てた。
棘槍を逆さに突き立てて、山と湖の間に“栓”を作った」
「湖に戻さなかったのは……」
「戻したら、湖底と直通になる」
トメは、婿殿をじっと見る。
「婿殿。川の蛇口をそのまま排水溝につないだら、どうなる?」
「水、流れっぱなしですね」
「そういうこと。
山と湖の間に“タンク”を噛ませて、棘をそこで一回殺す。
湖の奴らが指を伸ばしてきても、ここで爪を切るようにしてある」
「爪って表現やめてほしいんだけど」
彩女が顔をしかめる。
「じゃあなんて言えってんだい。あっちの感覚で言えば、そんなもんだよ」
トメは肩をすくめた。
「伊集院の坊は、山の上から結界の網を張った。
わしは、山の中から地脈を縛った。
真ん中に“棘蔵”を挟んで、ようやっとバランス取った」
英は黙って頷く。
「そのとき、あの坊が言ったんだよ」
トメの口元が、少しだけ緩む。
『いつか、安達の子と、わしの弟子が、これを更新する日が来る』とね」
「……フラグ立てて帰ったんですね、師匠」
惣一郎がぼそっと言う。
「フラグ言うんじゃないよ、坊や」
トメは笑いながらも、目は冷静だ。
「で、こうして氷室の坊が前に座ってる。
彩女の婿殿も一緒にね」
「ばあちゃんその言い方やめて!? 青見が困ってんでしょ!」
「婿殿は案外腹が据わってるから大丈夫さ。ねぇ?」
「……まぁ、三森の件から逃げる気はないです」
青見は苦笑しつつも、真面目な声で答えた。
トメは満足げに頷き、英へ視線を戻す。
「ええか、氷室」
ちゃぶ台を、とん、と指で叩く。
「忘れるんじゃないよ」
言葉の一つ一つが、部屋の空気を締めていく。
「――槍を抜くな」
英の喉が、ひくりと鳴る。
「抜かせるな。
抜いた者は、“行列”の先頭に立たされる」
彩女が、無意識に自分の腕をさすった。
惣一郎は、夢で見た光景を思い出している。
槍に縫い止められた影の列が、水の中を峠の下を延々と続いていた、あの光景を。
「行列の先頭って……」
「“これから死にに行く奴ら”の先頭だよ」
トメは、はっきりと言う。
「槍を抜いて道を作るほど、その先に続く列が増える。
その先導役を務めさせられるんだよ。――湖の底までね」
英は、拳を膝の上で固く握った。
「ボクは、抜きません」
「それでいい」
トメは即答した。
「問題は、抜きたがる奴だ。
湖の従者か、“自分が神さまになれる”と勘違いしたアホか、そのどっちかだよ」
英の頭に、水野 雅則の顔がよぎる。
トンネル前で見た静かな目。濡れた足元。握手したときの冷たさ。
「……従者は、もう動いています」
「だろうね」
トメは目を細める。
「湖底からの呼び声が、山にも響いてる。
肝試しのガキを釣る匂いがぷんぷんするよ」
「じゃあ――」
青見が前のめりになりかけたところで、トメが手で制した。
「焦るな、婿殿」
「その呼び方の方が心臓に悪いんだけど」
「いいじゃないか。覚悟決めるにはちょうどいいだろ」
トメは、ふっと笑う。
「この山は、まだ完全には“向こう側”に傾いてない。
バランスはギリギリ保たれてる」
もう一度、英を見る。
「山と湖の腹の間に立つのは、今はお前だよ、氷室」
英は、その視線を真正面から受け止めた。
「わしら年寄りは、山の奥から睨みを利かせるくらいしかできない。
前に出て、現場で判断して、走り回るのは――」
「ボクら、です」
英が言葉を継ぐ。
「ボクと、青見と、伊東くんと、火鳥くん。
この“生活圏”に住んでる側の人間です」
「そういうこと」
トメは満足そうに頷いた。
「怖いかい?」
「……怖いですよ」
英は、正直に答える。
「でも、怖いからって“生活圏”を手放すつもりはありません」
「上出来」
トメは、ニヤリと笑った。
「じゃあ、次に三森へ行くときは、わしの“上書き”を持って行きな」
「上書き?」
「棘蔵に仕込んだ術式を、今の地脈と、あんたの結界に合わせる文だよ。
伊集院の坊の古いフォーマットに、うちの山とあんたの街用のパッチを当てる」
「パッチって言い方、怖い話なのに妙にシステムっぽいな」
惣一郎が笑う。
「なんでもかんでもアップデートで済むと思うなよ、伊東」
トメは笑いながらも、目は鋭い。
「氷室。
この里の若いのも、必要なら貸す。ただし――」
「隠し事はしない、ですね」
英が先に言う。
「はい。全部報告します。
山で起きたことも、湖から伸びてきているものも。
“現場管理者”として評価されるかどうかは、そのあとでいいです」
「評価なんかいらないよ」
トメは鼻で笑った。
「お前がちゃんと怖がって、自分なりに踏ん張って、ここを守ればそれでいい。
怖がらなくなったら、その時はどっかで“線”を踏み越えてる」
「肝に銘じておきます」
英は、深く頷いた。
ちゃぶ台の上には、若き日のトメと謙吾の写真が置かれたまま。
そのすぐ横で、今の英と逢瀬組の姿が重なるように――
昭和の封印と、現代の「生活圏を守る側」の線が、
彩女の大事な“ばあちゃん”を挟んで、静かに一本に繋がり始めていた。