石室の中は、予想以上に広かった。
低い天井。古い石組みに、昭和の補修コンクリが巻かれている。
中央には石壇。その上に――一本の槍。
灰緑色の結晶質の穂先。根元から輪状に生えた逆棘。
骨と黒ずんだ木を芯に、縄に歯や骨片が編み込まれた柄。
《グラーキの棘槍》が、そこに逆さに突き立っていた。
槍のまわりの床には、十数体の干からびた人影。
胸や腹を“内側から”貫かれた姿勢のまま、石に縫い止められている。
(……行列の、途中か)
英が息を飲んだ、その背後から。
「来てしまいましたか」
柔らかい男の声が落ちてきた。
振り向くと、石室の入口に作業着姿の男が立っていた。
ヘルメットに、地質調査会社のロゴ入りジャンパー。
胸には「水野地質コンサルタント」の名札。
一見どこにでもいそうな、四十代半ばの技術者――ただし。
足元の土だけが、やけに濡れている。
靴の縁から、じわじわと透明な水が溢れ出し、床石の上に薄い膜を作っていた。
「地質調査会社の、水野です」
男は穏やかに言う。
「ここが“棘蔵”ですね。……やはり、氷室くんは早い」
「名前、出ましたね。どこで聞きました?」
英は一歩も引かずに見据えた。
「『伊集院筋の若い管理者』。郡山で地盤を触っていれば、嫌でも耳に入りますよ」
水野は笑う。だが、その笑みに“体温”はなかった。
「地震計の波形。地下水の異常。
あなたが気にするものは、こちらも全部、よく知っています」
「勝手に見ないでほしいですね」
「“水”は、勝手に繋がるものですから」
足元の水が、さらりと広がる。
英は、わずかに眉をひそめた。
「……地質調査の範囲を、ちょっと逸脱してませんか、それ」
「地盤の“安定性”を確保しようとしているだけですよ」
水野の視線が、石壇の槍へ向かう。
「この槍は、危険です。
いつまでも、こんなところに刺したままにしておくには、あまりにも」
「ええ。その通りです」
英は、遮るように頷いた。
「だから、ここで再封印します」
水野の目が、細くなる。
「――壊すのではなく?」
「壊せるものなら、とっくに師匠がやってます」
英は、石壇へ一歩近づいた。
「あなたが狙っているみたいに、“外に持ち出す”のが一番危険なんですよ。
湖に返すのも論外です」
「理解が早い」
水野は口元の笑みだけを深くした。
その足元――水たまりの中で、ぽこり、と泡が弾ける。
冷たい水の匂いが、空気を満たした。
「ですがね、氷室くん。
あなたの“再封印”では、もう足りない」
彼はゆっくりと手袋を外した。
中から現れた皮膚は、白くふやけて皺だらけだ。
長時間水に浸かった死体のような手。
「この山の腹は、もう十分に柔らかくなっている。
クトーニアンが穿った穴も、湖底の棘も、全部ここに繋がる準備は出来た」
「郡山盆地の地下水系を、丸ごと“あちら側”に送る気ですか」
英の声が低くなる。
「そうすれば、湖はもっと深くなれる。
もっと多くの人間を底へ迎えられる」
水野の声には、うっとりした気配すらあった。
「地震も、津波も、全部“向こう側”からの呼吸になる。
素晴らしいと思いませんか?」
「ぜんっぜん」
惣一郎が、英の肩越しにぼそっと言った。
「国土強靭化の真逆じゃねぇかよ。どこの環境テロだ」
「テロというほど小さな話ではありません」
水野は、首を傾げる。
「あなたはここを“生活圏”と呼ぶ。
だが、そのために積もった死体も、汚れた水も、誰かが引き受けなければならない」
足元の水が、黒く濁った。
そこから、棘に貫かれた人影がゆらりと立ち上がる。
作業服のまま、槍を胸に刺した工事従事者。
ヘルメットごと棘に縫い止められた運転手。
崩れたガードレールに絡んだままのバイク乗り。
どれも、ここで死んだ者たちの“影”だ。
「“行列”は、止められませんよ」
水野が囁く。
その足元から、水が一斉に広がった。
「――来ます!」
英が叫ぶより早く、青見が前へ出ていた。
左腰で小さな鞘が鳴る。
貴也が鍛えた鉄の棒――小太刀ほどの長さに重量バランスを調整された“見かけはただの鉄塊”。
しかし、魔術刻印をなぞるように柄を握ると、棒の周囲に、肉眼には淡くしか見えない“刃”の気配が生まれる。
青見は、一歩踏み込んだ。
最前列の作業員の影が、棘に刺さったまま突進してくる。
胸から突き出た槍が、青見の喉元を狙っていた。
その穂先が届く寸前、青見は半身に捻り、鉄の棒を水平に払う。
――キン、と空気を裂く音がした。
刃は見えない。だが、槍の柄の途中から先が、まるで紙のように切断されて宙を舞った。
同時に、影の上半身が水飛沫とともに吹き飛ぶ。
「一本」
短く吐き、すぐ次へ。
二体目。
バイク乗りの影が横殴りに槍を振るってくる。
青見は後ろ足で床を蹴り、すれ違いざまに袈裟に振り下ろした。
鉄棒の軌跡に、水の飛沫と影の欠片が散る。
無音の斬撃。
見えない刃が、棘に貫かれた影を片っ端から切り崩していく。
「英! 右壁の割れ目、水圧上がってる!」
背後から惣一郎の声。
彼は戦おうとはしない。
代わりに、壁と床を、英から渡された護符で埋めていた。
ひび割れに札を貼る。
伊集院式の符号に、自分なりのメモを書き込んで“どこが危ないか”印をつける。
「ここ死んでる結界! 上書きいる!」
「了解!」
英が石壇から片手を離し、指先で印を切って札に“火”を入れる。
護符が一瞬だけ青白く光り、水の流れが止まる。
「火鳥くん!」
「準備できてます」
勇吾が一歩前へ出た。
両手をかざす。
掌の上に、とろりとした青白い炎が生まれた。
空気を焦がす熱ではなく、水分だけを吸い取る“乾きの火”。
「天井、崩れないギリギリまで。出力、三割」
彼は、慎重に火を石室の床一面へ広げた。
じゅ、と低い音が響く。
床に広がっていた水の膜が蒸発し、棘に貫かれた影たちの足が崩れ落ちていく。
上半身だけになった影が、なおも槍を支えながら這い寄ってくるが、その動きは鈍い。
(今のうちに――)
英は、石壇の上に両手を置き直した。
槍には触れない。
だが、石壇を通して棘の“根”が地脈に食い込んでいるのが分かる。
(師匠の術式は……ここだ)
伊集院謙吾のメモの断片が、脳裏でめくられていく。
山と湖の間に“栓”を打つプロトタイプ。
四十九囲区全体の結界への接続点。
そこに――英自身の“今の四十九囲区”のデータを、重ねて書き込んでいく。
都市の水道網。
下水管。
暗渠。
震災後の補強杭。
全部、線として頭に浮かぶ。
(槍を完全に破壊できないなら、棘の“出口”を変える)
湖からまっすぐ棘蔵へ来ていたルートを、途中で折る。
四十九囲区の外側――人の気配が希薄な“空白地帯”に、別の“捨て場所”を噛ませる。
その瞬間。
背中に、ぞわりと冷たい気配が走った。
振り向かなくても分かる。
石壇の下から伸びた細い棘が、英の影の背中に向かって伸びてくる。
現実には見えないが、“背骨の並び”をなぞるように狙っている。
(来たか)
覚悟を決めかけた、その時――
「英さん、動かないで」
勇吾の声が、すぐ後ろから聞こえた。
次の瞬間、背中の“すぐ外側”で、熱が弾けた。
勇吾は、英の影の背後に立ち、両手をかざしていた。
彼の目には、英の背中に食らいつこうとする“透明な棘”が見えている。
そこへ、ピンポイントで火を叩きつける。
物理的な炎ではない。
情報と呪いだけを焼く、“針の先ほどの火”。
棘が、突き立つ寸前で真っ黒に炭化し、ぱきん、と砕け散った。
「……っ!」
英の背中に、焼けるような痛みが走る。
だが、それは“刺さる痛み”ではなかった。
シャツの内側で、布がわずかに焦げる匂い。
「すみません、ちょっと焦がしました」
「……棘が刺さるより、ずっといいです」
英は歯を食いしばりながら答えた。
しかし、棘は一本だけではない。
石壇の下、地脈の奥から、次の細い棘がまた伸びてくる。
英の背中だけでなく、足元、影、頭上――「管理者」としての彼にタグ付けされた“位置”を狙って。
「しつこいな」
勇吾は、眉をひそめて集中を深めた。
「なら、全部まとめて焼き切ります」
彼の視界には、石室いっぱいに張り巡らされた“棘の線”が見えていた。
英の背骨へ向かうもの。
トンネルへ伸びるもの。
丘の上のセンサー類へ伸びかけているもの。
それらのうち、“英に刺さろうとしている線”だけを選び出す。
呼吸を一度止め、片手を突き出した。
「燃えろ」
低く呟く。
次の瞬間、石室の空気が一瞬だけ乾いた。
見えない棘の線が、英の背中まで伸びきる前に、途中から炭化していく。
黒くなった棘がぽろぽろと剥がれ落ち、床に届く前に崩れて消えた。
英の背中には、焼け跡のような鈍い痛みだけが残る。
刺さる感覚は、来ない。
「……ありがとう、火鳥くん」
「いえ。英さんに刺さられるくらいなら、ボクが全部焼きます」
勇吾の声には、妙な決意が滲んでいた。
その間にも、青見は前で影と渡り合っていた。
鉄の棒が、間合いを読むたびに、静かな斬撃を生む。
棘に貫かれた影の首。
槍の柄。
膝。
見えない刃が、必要最低限の箇所だけを切り落としていく。
「惣一郎!」
「分かってる!」
惣一郎は、壁伝いに走りながら、ひたすら護符を叩きつけていく。
右手で札を貼り、左手でペンを走らせる。
「ここ補強済み! こっちは古いまま! 英、こっちもルート変えとけ!」
「了解!」
英の指先が、石壇の上で別のラインをなぞる。
地脈の“配管図”が、頭の中で組み替えられていく。
(……もう少し)
湖底からまっすぐ伸びていた“行列の道”が、途中で折れ、別の地点へと流れ始める。
四十九囲区の外側。
人の暮らしがほとんどない山の裏側――「捨て場所」として選んだ地点へ。
水野の足元の水たまりが、不自然な波紋を描いた。
棘槍の中を流れていた“何か”が、別の方向へ引っ張られているのを感じ取ったのだろう。
「やめなさい」
彼の声が、初めて低くなる。
足元の水が逆巻き、最後の影たちが一斉に飛びかかってきた。
「来いよ!」
青見が踏み込む。
鉄の棒が一閃。
三体分の槍をまとめて叩き落とし、そのまま柄ごと影の胴を砕く。
「英、時間稼いでるから、さっさと終わらせろ!」
「急いでます!」
英は、石壇の縁に最後の護符を叩きつけた。
トメの鬼の術。
伊集院の結界フォーマット。
氷室英の“現場管理者としての上書き”。
三つのレイヤーが重なった瞬間――棘槍の穂先が、鈍く光った。
石室の空気が、一瞬だけ重くなる。
湖底の冷たい視線が、この場を貫いた――かと思うと、その視線は途中で折れ、暗いどこかへ滑り落ちていった。
「……っ」
水野が、膝をつきかけた。
足元の水が、一気に収縮する。
ふやけていた皮膚にひびが入り、剥がれ落ちていく。
「あなたは、“こっち側”に残ることを選ぶのですね」
彼は、苦しげに笑った。
「最初から、そのつもりです」
英は、息を荒げながら答えた。
「ここは“生活圏”ですから」
「……行列は、必ず続きますよ」
水野の身体が、水とともに薄れていく。
「あなたがどれだけ捨て場所を増やしても」
「そのたびに、誰かがここで止めます」
英は、石壇の上から目を離さずに言った。
「ボクが。ボクの後の誰かが」
最後に、水野の目に人間だった頃の影がよぎった。
猪苗代湖。
雨の夜。
増水した水面――。
断片的な記憶が、英の脳裏に一瞬だけ流れ込んで、すぐに千切れた。
「……また、湖で」
かすかな呟きとともに、水野の姿は霧散した。
静寂が戻る。
石室には、まだ湿り気は残っている。
だが、さっきまでの“底なしの冷たさ”は、いくらか引いていた。
棘槍は相変わらず石壇に逆さに突き立っている。
だが、穂先の奥を流れていた“行列の道”は、さきほどとは違う方向へと曲がっていた。
湖底からまっすぐここへ伸びていたルートは、途中で折れ、四十九囲区の外側へ逃がされている。
「……やった、のか?」
惣一郎が肩で息をしながら呟く。
「まだ調整は必要ですけど、棘蔵の圧は下がりました」
英は、石壇から手を離し、ふらつきながら一歩下がった。
「英、背中」
青見が近づき、心配そうに見つめる。
「さっきから歩き方おかしい」
「ちょっと、火鳥くんに炙られました」
「すみません」
勇吾が、申し訳なさそうに頭を下げる。
「でも、棘は刺さってません。英さんの影に伸びてたやつは、全部焼き切りました」
「上出来ですよ。……背中、ちょっとヒリヒリしますけど」
英は、無理に笑ってみせた。
惣一郎が、その笑いを見て、ふっと息を吐く。
「じゃ、残りは“現場管理者”の仕事ってやつか」
「ええ。結界の微調整と、地上側のセンサーの再設定と……トメ様への報告と、理事長への報告と、結先生への報告と」
「最後の二つが一番怖ぇな」
惣一郎の愚痴に、三人とも、ようやく小さく笑った。
(師匠。ボク、あなたみたいには出来ないけど――)
英は、まだじんじんと痛む背中を意識しながら、石室を見回した。
湿った空間の中に、ほんの少しだけ“人の温度”が戻ってきている。
(生活圏を守るためなら、ここで手を抜くつもりはありません)
氷室 英は、新しい“第二世代の封印”の中心として――
棘を焼き払ってくれた仲間たちと共に、棘蔵の中に立ち続けていた。