棘蔵からの帰り道は、来たときよりもずっと短く感じた。
石室を出て、脇道の掘削トンネルを抜け、旧三森トンネルの闇を逆にたどる。
湿ったコンクリの匂いも、天井から落ちる水滴の音も、さっきまでほど“底なし”には感じない。
やがて、埋め戻し壁の隙間から外へ抜けると――昼の光が、一気に視界を満たした。
「……うお、眩し」
惣一郎が目を細める。
さっきまで肌にまとわりついていた冷たさが、山の風に吹き飛ばされていく感覚。
「とりあえず、生還ですね」
英が、ヘルメットをかぶり直しながら小さく言った。
「まだ報告とか調整とか山ほどありますけど。それは後で」
「今は、下山優先だな」
青見は、MTBをガードレールから外し、前後ブレーキの効きを確かめる。
タイヤのサイドウォールに異常がないかを指でなぞり、ハンドルステムを軽く揺すってガタつきがないか確認した。
英と勇吾と惣一郎も、それぞれハンターカブのエンジンをかける。
ポコポコという単気筒の音が三つ、旧道の静けさに溶けた。
「上りはけっこうしんどかったけどさ」
惣一郎が、ちょっとわざとらしく肩を回す。
「帰りは文明の力のターンだろ? なぁ、東?」
「さあな」
青見は、ヘルメットのストラップを締め、サイコンをリセットした。
「降りなら、MTBの方が速いって、さっき言ったよな?」
「山の神様に誓って、今のオレは文明の勝ちを信じてる」
「じゃ、現実を教えてやるよ」
口元だけで笑って、サドルに跨る。
旧道の下りは、最初からガレ場だった。
砕けた砕石。拳大の石。ひび割れたアスファルト。
ところどころ、路肩側が抉れ、斜面へ向かって小さな溝が走っている。
「スピード上げすぎるなよ。落ちたら洒落にならないから」
英がインカムで釘を刺す。
《了解。六割くらいで》
それは青見にしては、だいぶ控えめな数字だ。
それでも――
前傾姿勢を取って、ペダルに体重を預ける。
フルリジットのフレームが、路面の形をそのまま脚に伝えてくる。
腕と膝をサスペンション代わりにして、細かく縮めては伸ばす。
石の帯を読む。
タイヤを置く場所を、二つ三つ先まで決めていく。
最初のカーブで、もう差がつき始めた。
ハンターカブ三台は、エンジンブレーキとフットブレーキを気にしながら慎重に進む。
フロントが石を踏み外せば、一気に転倒コース――そのことを、三人ともよく分かっている。
一方、青見は。
外側の大きな石を避け、内側の砕石の“細かい帯”だけを繋いで走る。
タイヤが、ざらりと砕石を踏み潰す音。
ブレーキレバーには、人差し指一本だけを掛け、前後を微妙に使い分ける。
スピードメーターが、あっという間に三十を超えた。
《おいおいおいおい!?》
インカム越しに、惣一郎の悲鳴じみた声。
《おいつけねぇ! っていうか、ついてったら死ぬ!》
《ついてこなくていいです! 自分のライン守って!》
英の返答が、わずかに震えていた。
ヘルメット越しに見えるミラーには、もう青見の姿は映っていない。
「……相変わらず、バケモンみたいな身体能力ですね、東くんは」
英が苦笑する。
「ボクも頑張ってるんですけどねぇ。バイクであれは追えないです」
「オフ車ならまだしも、ハンターカブだしね」
勇吾は落ち着いた声で言いながら、ラインを選んで下る。
「ここで無理したら、帰りの報告に“負傷”って項目が増えますよ」
「やめて。それが一番怒られるやつ」
下りの風が、青見の体温と、さっきの石室の湿気を一緒に剥がしていく。
路面の凹凸を拾うたびに、タイヤが小さく跳ねる。
だが、前後の荷重をすぐに調整して、グリップを回復させる。
(……生きてるな)
さっきまで、湖底の冷たさに触れていた感覚が、脚の筋肉の熱と入れ替わっていく。
ガードレールの向こうに、一瞬だけ郡山盆地の街並みが見えた。
家々の屋根。
国道。
遠くのショッピングモール。
(あそこまで帰る)
ペダルに、もう一踏み力を込めた。
旧道がやがて新しい舗装路と合流する手前、道端が少し広くなっている場所がある。
そこに、一台の古い自販機がぽつんと立っていた。
登山客と工事関係者向けなのか、ラインナップはスポドリと缶コーヒー、それに微妙に古そうなデザインのジュース。
そこに――
「……お前、マジかよ」
十数分後、ハンターカブ組がたどり着いたとき。
MTBをガードレールに立てかけて、自販機の前でペットボトルを傾けている男が一人。
東・青見は、すでに汗を拭き、喉を潤し終えていた。
「お疲れ」
炭酸の残りを飲み込みながら、軽く手を挙げる。
「だから言っただろ。降りならMTBの方が速いって」
ドヤ顔だった。
惣一郎は、ヘルメットを脱いで、その場にへたり込む。
「おいつけねぇ! っていうか、途中から姿見えなかったぞ!?
普通にバイクの速度域だったからな、今の!」
「三十後半くらいだって。ちゃんと減速ポイントは守ったし」
「そういう問題じゃねぇんだよ!」
惣一郎が叫ぶ横で、英がハンターカブをスタンドに載せ、深く息を吐いた。
「……まあ、誰も転ばなかったので、良しとしましょう」
勇吾もエンジンを切り、ヘルメットのあごひもを外す。
「英さん。帰ったら、報告の前に水分補給とシャワー推奨ですね」
「ですね。今日は、いろんな意味で“風呂案件”です」
英は、自販機の前に並び、青見と同じスポドリのボタンを押した。
ガコン、と落ちてきたペットボトルを拾いながら、ちらりと青見を見る。
「……さっき、行きに言ってた『降りならMTBの方が速い』、証明されちゃいましたね」
「ほらな」
青見は、もう一口だけ炭酸を残していたボトルを軽く振り、名残惜しそうにそれを飲み干した。
「文明の力もいいけどさ――」
MTBのフレームを軽く叩く。
「こういう時は、脚とタイヤの方が信用できるんだよ」
「はいはい、“ゴリラの脚力”な」
惣一郎のつっこみに、さすがの英も、少しだけ笑った。
棘槍のことも、水野のことも、湖底のことも――
全部まだ片付いてはいない。
けれど。
とりあえず今は、山を下りてきた四人の喉を潤す自販機と、
その前でドヤ顔している一人のMTB乗りがいる。
それだけで、この瞬間だけは“生活圏”に帰ってきた実感が、確かにあった。