初!カモノハシ邸!?
カモノハシ邸は、郊外の古い住宅地の外れにあった。
その名の通り、住宅地の真ん中に、ぽつんと小さな丘のような雑木林が残されている。その雑木林まるごと――四千坪はありそうな一帯が、この家の敷地らしい。
だからオレは、自然と「家」じゃなく「邸」と表現したくなった。
低い垣根の一角に、「三森啓司(みもり・けいじ)」と書かれた表札と郵便受けが掛かっている。
インターホンは見当たらない。
どうやら、鍵の掛かっていないこの門をそのまま開けて、家まで歩いて行けということらしい。
それだけで、ちょっと腰が引ける。
「なんだか、どんどん現実離れしてきてるなぁ……」
思わず、ぼそりと独り言が漏れた。
呟いたところで状況が変わるわけでもないし、ため息をついても現実は現実のままだ。
――だから、オレは進むことにした。
秋風の中、家へと続く曲がりくねった小道を歩く。
最近は手入れが行き届いていないようにも見えるけれど、それでも林も小道も、もともとはきちんと手が入れられていたのがわかる。
散歩にはもってこいの雰囲気だ。
ただ、外からでは中の様子がまったく見えない。
プライバシーという意味では完璧だが、防犯という意味ではどうなんだ、これ――と、余計なことまで考えてしまう。
十メートルほどのくねった小道を抜けると、ようやく建物が姿を現した。
個人の家としては、破格に広い敷地。
その中央に、古びた洋風建築がどん、と立っている。
素人目にも、かなり手間と金のかかった造りだとわかる。
大正から昭和初期あたりの建築だろうか。
屋敷と呼ぶほどの巨大さではないが、それでも普通の家と比べれば十分「立派な邸宅」と言っていい。
玄関に通されると、正面の壁に大きな窓があった。
首をかしげてその向こうを覗き込むと、外からは見えなかった中庭が広がっている。
三階吹き抜けの中庭。
壁面の一部には鏡か何かが仕込まれているらしく、思った以上に明るい。
多種多様な観葉植物がバランスよく配置されていて、うちの庭と比べても遜色のない、見事な庭園だ。
……ただ、ここもまた、最近は世話が行き届いていないように見えた。
オレに対応したのは、隙のないスーツ姿の中年女性だった。
ノンフレームのメガネ。その奥にあるのは、鋭い眼差し。
その鋭さを隠そうという意志すら感じられない。
きっちりと仕事をこなすキャリアウーマン――そんな印象の女性で、この古い洋館にはどことなく似合わない。
どくん。
冷たいほど理知的な雰囲気が、さらに冷淡な印象を強調しているのかもしれない。
丁寧な言葉づかいをしているのに、どこか温度のない対応。
心臓が、大きく跳ねた。
彼女は、オレが名乗る前から屋敷の主人――三森啓司の「秘書」であること、自分の名前が小西須美(こにし・すみ)であることを、淡々と告げた。
どくん。
――あの夏の夜。
どくん、どくん。
あの真夏の悪夢。
父さんと母さんが殺された、あの夜の鼓動を思い出す。
どくん、どくん、どくん。
心臓が、さっきからおかしい。
……どうしてだ?
何が、そんなに警鐘を鳴らしている?
本音を言えば、こういう古い屋敷なら、メイド服のお姉さんあたりを期待していた。
だから、おばさんが出てきた時点で、かなりがっかりしたのも事実だ。
表面的な意識は、平然を装っておばさん――小西さんと会話をしている。
けれど、その奥で、オレの魂が真っ赤な警告灯を点滅させていた。
どくん、どくん、どくん。
あぶない。
これは、あぶない。
うなじの毛がチリチリと逆立つ。
意識は水面のように静まり返っているのに、身体の芯は燃えるように熱い。
いつでも全力で身体も心も動けるような、妙な戦闘前の感覚。
あぶない。
これは、あぶない。
カモノハシにメールで招かれてここへ来たことを、自己紹介を交えて伝える。
小西さんは、微笑みひとつ浮かべないまま、
「雅之(まさゆき)さんのお友達ですね。少しお待ちください。今、雅之さんに伝えてきますから」
それだけ言って、さっと姿を消した。
廊下を歩く靴音。そのあと、階段を上っていく足音。
――あまり、歓迎されてはいないらしい。
オレは大きく息を吐いて、身体の緊張を少しだけほぐした。
ふと視線をやると、玄関の下駄箱の上に、無数のタマゴ細工が並んでいるのが目に入る。
タマゴ細工――
鶏の卵の殻を専用の研磨機で薄く削り、透かし彫りにしたり、美しい模様を彩色したりしたものだ。
ここに並んでいるのは、どれも手の込んだものばかりで、見ているだけでため息が出る。
そういえば以前、メールのやり取りの中で、カモノハシが「タマゴ細工が趣味です」と話していたことがあった。
そのときは、珍しい趣味だなと軽く流したが、こうして実物を見ると納得する。
人魚や鳥をモチーフにした透かし彫りや、精密な幾何学模様を彩色した作品が、ぎっしりと並んでいる。
――中でも、一つだけ妙に目を引くタマゴ細工があった。
不思議の国のアリスを題材にしたと思しき細工。
ウサギを追いかけるアリス。
そのウサギが見つめているのは、懐中時計ではなく「東」と描かれた青いタマゴ。
その上には、
LOOK! LOOK!
と、大きく描いてある。
これだけは透かし彫りではなく、彩色だけで仕上げられていた。
しかも、他の作品に比べると明らかに塗りが雑だ。
いかにも「急いで作りました」という感じ。
塗料の色も鮮やかで、作られてからそれほど時間が経っていないように見える。
――その瞬間、唐突に記憶がつながった。
あのメールの追伸。
「カモノハシの子供を差し上げたいのですが、カモノハシはどうやって子供を増やすんでしたっけ?」
カモノハシは単孔類。
単孔類は、卵で増える。
東と書かれた青いタマゴ。
オレのハンドルネームは「イースト・ブルー」――東に青。
だから、オレは首をかしげながら、そのタマゴ細工をそっと手に取った。
カサカサッ。
乾いた音が、掌の中で鳴る。
眉をひそめる。
――何か、入っている。
そう思った瞬間、迷う暇はなかった。
オレは、タマゴ細工を握りつぶした。
パキン、と小気味いい音がして、殻が砕け散る。
掌の中に、砕けた殻と一緒に、五センチ四方ほどの小さなメモ紙が現れた。
そこには、小さな文字でこう書かれていた。
「来てくれてありがとう。この手紙を見ているという事は、私はいまどこかに監禁されていることでしょう。小西さんの言うことにだまされないでください。お願いです、私を助けてください!」
どこか丸っこい、女の子のような文字。
震える手で慌てて書いたのか、字そのものが細かく揺れている。
オレは、メモと砕けた殻を一緒に握りしめ、そのままポケットに突っ込んだ。
ポケットの中で、そっと殻だけを指先で払い落とす。
まだ、小西さんは戻ってこない。
玄関をぐるりと見回すと、外履きとして出ているのはサンダルのような簡単な履物だけだ。
オレは遠慮なく、下駄箱の扉を開けた。
中には、男物の革靴が数足と、女物の靴がいくつか並んでいる。
くたびれた革靴は、おそらく三森啓司のものだろう。
あまり身なりにはこだわらないらしく、かなり使い込まれた靴をそのまま履いているようだ。
女物の靴のうち二足は、このあたりの中学校指定の運動靴。
あとは、街へ出るときに履くようなパンプスが何足かと、ガーデニング用と思しき長靴。
その他、おばさん――小西さんのものらしい靴が一足と、「雅之さん」と呼ばれていた人物のものだろう靴が一足。
普通、自宅の下駄箱には何足か靴が置いてある。
出かけている人間の靴が一足、減っている――今ここにない、というのも当然だ。
……さて、どうしたものか。
ガキ同士の揉め事なら、最悪、殴り合いで話をつけることもできる。
だが、あんなおばさんが絡んでいるとなると、そう単純な話では済まないだろう。
下駄箱をそっと閉めて、ため息をひとつ。
どうするかなんて――
とっくに、決めているんだけどな。