放課後の教室は嫌いじゃない。
チャイムが鳴り終わって、みんなが部活だの塾だのに散ってしまったあとに残る、空っぽの空気。
黒板に書き残されたチョークの文字と、机の上に置き忘れられたプリント。
さっきまで「授業」という名前で押しつけられていた時間が終わって、ようやく自分の呼吸だけが戻ってくる。
――のはずだった。
「……あ?」
一年C組のドアに手をかけた瞬間、中から何かがぶつかるような鈍い音がした。
机か椅子か、何かが蹴られた音。
続いて、耳障りな笑い声。
「なあなあ、やっぱそうなんだろ、中原」
「メロディ様のおかげで、バイオリンコンテスト受賞、ってやつ?」
胸の奥が、ざらっと逆なでする。
嫌な気配、って本当にあるんだな、とこんな時だけ妙に冷静なことを思う。
ドアを開けると、がらんとした教室の真ん中で、三人が固まっていた。
一人は、中原洋平。
痩せぎすで、いつも猫背で、音楽室にいる時間の方が普通の教室より長いって噂の、あの中原。
シャツの襟を掴まれて、後ろの黒板に押しつけられている。
その前に立つのは、タチの悪さに定評のある二人組――
廊下で先生に怒られてもヘラヘラしているタイプの男子たちだ。
「ちょ、やめて、ください……」
「いやいやいやぁ? いいじゃん、別に減るもんじゃねーだろ?」
一人が中原の肩を小突く。
もう一人が、ニヤついた顔で続ける。
「なあ、“メロディ様”っての、教えてくれよ」
「俺たちもご利益ほしいんだけど? コンクール受賞パワー、分けてくださいってさぁ」
げっそりするくらい、分かりやすいひやかしだ。
「ちょっと」
気づいたら、声が出ていた。
ドアを閉めるのも忘れて、ずかずかと教室の中に入っていく。
「なにしてんの、あんたら」
二人がこちらを振り向く。
あからさまに「めんどくさいのが来た」という顔。
「あー? 安達じゃん」
「何って、俺らは“メロディ様”を教えてもらおうとしてるだけじゃね?」
ヘラヘラ笑いながら、一人が言う。
「そうそう、なあ中原? なあ、“メロディ様”って、あのメロディ様だろ?」
「顔色悪いよ? 大丈夫?」
中原に声をかけるけれど、彼はわたしの方を見ようともしない。
ぎゅっと歯を食いしばって、肩を震わせている。
「やめなさいって言ってんの」
「別に殴ってねーし? なあ?」
「そうそう、“無理やり”とかじゃねーから。なあ、中原?」
二人は、わたしの言葉なんて、そよ風くらいにしか思ってない笑い方で受け流す。
そして、わざとわたしの存在を無視するみたいに、中原の方へ身を乗り出した。
「ほら、中原。唱えろよ、メロディ様」
「そうだそうだ、“メロディ様”ってやつ、聞かせてくれよ。な? な?」
肩を小突かれて、中原がびくりと震える。
うつむいたまま、喉の奥で何かを噛み殺すような音がした。
「やめ――」
言いかけたその時。
「……わかった、から」
かすれるような声で、中原が言った。
顔は真っ青で、唇は乾いてひび割れている。
それでも、どこか、諦めたような、決意したような目をしていた。
「中原?」
思わず名前を呼ぶ。
けれど、彼はわたしを見ない。
小さく息を吸い込むと、震える声で――それを、歌い始めた。
メロディ様。
……それは、歌というには短すぎる。
呪文というには、あまりにも整いすぎている。
ほんの数小節だけの、断片的な音階。
最初の二音で、心臓がひやりと冷たくなった。
(――あ)
聞いたことがある。
最初に“メロディ様”の噂を耳にした夜、
頭の奥底に、誰かが指で触れたみたいに浮かび上がってきた、あの旋律。
中原の声が、震えながらも、正確にその音をなぞっていく。
上がって、下がって、捻じれて、落ちる。
どこかで聴いたクラシックとも、教科書の合唱曲とも違う。
でも、気を許したら、そのまま口ずさみたくなるような、妙な心地よさがある。
(やば――)
頭の中で警報が鳴る。
けれど、それと同時に、どうしようもなく、その音階を追いかけてしまう自分がいる。
耳から入ってきたメロディが、そのまま脳のどこか柔らかいところに、じゅっと焼きつくみたいに広がっていく。
(やめ――やめなきゃ、って……)
思うのに、心がするりと滑っていく。
気を抜いたら、そのまま同じ音を自分の口でなぞってしまいそうで、奥歯を噛みしめた。
――最後の音が、教室の空気の中で震えながら消えた。
その瞬間。
中原の輪郭が、ふっと、薄くなった。
「……え?」
見間違いだと思った。
目をこすりたくなったけれど、できなかった。
白いシャツの肩口が、透けていく。
黒板の文字が、向こう側から見えた。
「やった……」
中原の表情が、変わる。
さっきまでの青ざめた顔じゃない。
至福、という言葉が一番近い。
心の底から嬉しそうに、目を細めて笑っていた。
「やった、やっと見つけた……」
彼の声は、震えているのに、とても澄んでいた。
「この音だったんだ。これで、こんな学校から離れられる……」
足元から、煙みたいに身体がほどけていく。
指先が、消える。
袖が、溶けていく。
「ちょっ……」
一歩踏み出しかけて、足が床に張り付いたみたいに動かない。
冷たい。
背骨の内側に、氷を流し込まれたみたいに冷たい。
「な、な、なん、だ――」
さっきまでヘラヘラ笑っていた二人組が、同時に声を裏返らせた。
「お、おい、中原? ……なあ、中原?」
返事はない。
彼は、ただ、嬉しそうに笑ったまま――
ぱちん、と指を鳴らしたみたいに、すっかり消えてしまった。
そこにあったはずの人間が、跡形もない。
黒板と、机と、ペン立てと、プリントだけが、何事もなかったみたいにそこにある。
「――――」
喉から音が出ない。
心臓が、どくん、と一回、大きく跳ねたきり、動きを忘れたみたいになる。
「ひっ……ひぃぃっ!?」
悲鳴を上げたのは、いじめていた側の一人だった。
中原のいた空間を指さして、腰を抜かしそうになりながら後ずさる。
「うそ、うそだろ……? 今の、なんだよ……!」
もう一人も、顔面蒼白でがたがた震えている。
さっきまでのヘラヘラ笑いは、どこにもない。
「お、俺ら、知らねぇからな! なあ!?」
「やば、やばいやばいやば……!」
二人は、椅子を蹴飛ばし、机に足をぶつけながら、教室の出口へと転がるように走った。
誰もわたしの方なんて見ない。ただ、化け物から逃げるみたいに、全速力で廊下へ消えていく。
残されたのは、わたし一人。
がらんとした教室。
さっきまで三人分あった気配が、急に一つに減った空間。
「……っ」
膝が笑いそうになるのを、机の端を掴んで誤魔化す。
(今の……なに……?)
頭の中で、さっきの中原の言葉がリピートする。
『やっと見つけた』『この音だった』『こんな学校から離れられる』
そして――
メロディ様。
さっき聞いたばかりの、あの短い旋律が、脳の奥で延々と鳴り続けていた。
一度流れた音の軌跡が、そのままループ再生されているみたいに。
(やめ――)
口を、手で押さえる。
今、少しでも気を抜いたら。
わたしの唇から、あの音階が零れ落ちる。
上がって、下がって、捻じれて、落ちる。
たったそれだけの並びが、どうしてこんなに、魅力的なんだろう。
(やめろ、やめろって……)
頭の中で叫ぶ。
叫ぶのに、心のどこかは、そのメロディに身を預けたがっている。
胸の奥が、おかしなリズムで脈打った。
「……ッ」
ようやく、息を吐いた。
肺に酸素が戻ってきて、少しだけ現実が色を取り戻す。
けれど、さっきの光景の“非現実さ”は、どうしても消えない。
中原が、笑いながら消えていった瞬間。
あの至福の表情。
思い出した瞬間、胃の中身が逆流しそうになった。
「……最悪」
誰に聞かせるわけでもなく、呟く。
世界が、少しだけ、軋んでいる気がした。
この教室の床も、黒板も、机も――全部が、「普通の学校生活」という皮を被った何か別のものに見える。
その違和感から目をそらすみたいに、わたしは教室を出た。
廊下を歩きながら、気づく。
無意識に、喉の奥で、音をなぞいていた。
――上がって、下がって、捻じれて、落ちる。
「……やめろってば」
自分で自分に噛みつくみたいにそう言って、唇を噛んだ。
それでも、頭の中のどこかで、メロディ様はしつこく鳴り続けている。
耳の奥に棲みついた虫みたいに、何度払いのけても、また戻ってくる。
それが、この先どれくらいわたしの中に居座るのか――
その時のわたしは、まだ知らなかった。