そんな事、言われても
/*/ 安達家・夕方のすれ違い /*/
夕方のスーパーは、思ったよりも混んでいた。
「はぁ……特売の日って、やっぱり侮れないわね」
両手にレジ袋を提げて、安達家のお母さんは小さく肩を回す。
玄関の前でひと息ついてから、そっと鍵を回した。
「たっだいまー。……って、まだ六時前か」
声をかけながら靴を脱ぎかけた、そのとき。
廊下の奥――リビングのほうから、彩女の声が聞こえてきた。
「……あ、いい……そこ、青見、気持ち良いよ……あ……」
「彩女、力抜いて」
――ガサッ。
レジ袋が、手から落ちた。
(…………はい?)
頭の中で、時間が一瞬止まる。
さっき家を出るときの会話が、スローモーションで蘇ってきた。
『ちょっと夕飯の買い物行ってくるから、あんたたち留守番お願いね』
『おーけー』『オレ、宿題やって待ってます』
(うん、確かにそう言って出たわよね、私)
そして今、廊下の向こうから聞こえてくるのは――
「そこ、もっと奥……あっ、そこそこそこ……!」
「だから力入れるなって。余計張るから」
(…………)
お母さんは、玄関でしばし固まったあと、
両頬をぺちぺちと叩いた。
(落ち着け、落ち着け私。
最近の高校生は進んでる、とかそういう問題じゃなくて。
いやでも、よりによって親が買い物行ってるスキにって、あんたたち……)
背後で、また彩女の声。
「そこ、さっきのところ! そこ気持ちいい……!」
「ここか? じゃあ十秒キープな」
「ひぃっ……効く……っ」
(待って、これほんとにアレなやつじゃないわよね!?)
お母さんは、レジ袋をそっと拾い上げると、
覚悟を決めて廊下を進んだ。
リビングのドアの前で、一度だけ深呼吸。
(もし“やっちまってた”としても、
まず深呼吸。怒鳴らない。
顔を見て話す。取り乱さない。
……取り乱さないったら取り乱さない)
心の中で三回唱えてから、ノブに手をかける。
そして――勢いよく、扉を引いた。
「彩女!! あんたたち、なに――」
言いかけた言葉が、そのまま喉の奥で凍りつく。
リビングの真ん中。
ラグの上に、彩女がうつ伏せになって寝そべっていた。
Tシャツに短パン、その下にはいつもの黒スパッツ。
片脚だけ膝を立て、太腿の横をぐいっと押されている。
その太腿の横に膝をつき、
両手の親指でぐっと圧をかけているのは――
「……東くん」
ジャージのズボンにTシャツ姿の青見だった。
片手には、スポーツマッサージ用の小さなローラー。
もう片方の手は、彩女の太腿の横――腸脛靭帯あたりを押さえたまま、
中途半端な姿勢で固まっている。
「……あ」
彩女が、こちらを振り向こうとして、
うつ伏せのままビクッと肩を揺らした。
「お、おかえり……」
「お、お邪魔してます……」
二人の声が、妙にハモる。
リビングに、数秒間の沈黙が落ちた。
時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
「…………」
お母さんは、ゆっっっくりとレジ袋をダイニングテーブルに置いた。
「……説明、して?」
できるだけ平坦な声を心がけたつもりだったが、
若干、震えが混じっているのは自覚している。
青見が、慌てて手を離して立ち上がった。
「ち、違いますこれはその!」
「あーもう、ややこしい言い方しないでよ……!」
彩女も、うつ伏せから転がるように仰向けになり、
慌てて上体を起こす。
「スポーツマッサージだってば!」
「スポーツマッサージです!」
二人が、ほぼ同時に叫んだ。
お母さんは、思わず目を瞬かせる。
「……スポーツ、マッサージ」
「そう!」
彩女は、短パンの裾をぺちぺち叩きながら言い募る。
「ほら、こないだのパルクール撮影のあとからさ、
中庭走り回ってたじゃん。
あれの後遺症で、太腿の横とかお尻とか、めっちゃ張ってて」
「“腸脛靭帯が固いと膝壊すぞ”って道場の先生に言われてて」
青見も、必死に頷く。
「うちの道場でやるストレッチがあって……その延長で……」
「さっきの“そこ気持ちいい”は?」
お母さんが、じとっとした目を向ける。
「筋肉ほぐれて気持ちいいって意味で!」
「“力抜いて”は?」
「力入ってると余計張るから、“抜け”って……」
青見が、耳まで真っ赤にしながら答える。
「ほんとにそれだけだから!
なんか変な想像したでしょ今!!」
彩女が、クッションを抱きしめながら叫んだ。
お母さんは、額に手を当てて、ふぅ、とひと息吐く。
「……してないとは、言えないわね」
「しちゃったんだ……」
彩女が、床に突っ伏した。
「だって廊下で聞いたらさ」
お母さんは、ちょっとだけ声を落として、廊下側を振り返り、
さっき聞こえたセリフを思い出す。
「『あ、いい……そこ、青見、気持ち良いよ……』
『彩女、力抜いて』
って聞こえてきたら、親としては一度深呼吸するしかないでしょ」
「文脈!!」
彩女が、頭を抱えた。
「そこだけ切り取るのやめてよ!」
「言い方が悪い、言い方が」
お母さんは、呆れ半分、安堵半分のため息をつく。
「“そこ、腸脛靭帯のとこ効いてる”とか、
“その押し方いい感じ”とか、なんかあるでしょ言い方が」
「痛くてそれどころじゃなかったんだってば!」
彩女は、まだじんじんしている太腿の横を押さえながら、
ぷくっと頬を膨らませる。
「でもまあ……」
お母さんは、改めて二人を見回した。
Tシャツに短パンの彩女。
ジャージ姿で耳まで赤くなっている青見。
床に転がったマッサージローラーと、ストレッチ用のチューブ。
――少なくとも、さっき廊下で一瞬よぎった「最悪の想像」とは、
だいぶ違う光景だ。
胸の奥にあった変な緊張が、じわじわとほどけていく。
「本当に、マッサージだけ?」
「だけです!」
二人の声が、またぴったり揃った。
「じゃあ、続きは夕飯のあとで」
お母さんは、つい意地悪く笑ってしまう。
「ついでに、あたしの肩も頼める? 青見くん」
「えっ」
青見の目が丸くなる。
「お母さん!? 何その展開!」
「だってせっかく“気持ち良い”って言ってたんでしょ?」
お母さんは、にやにやしながら肩を回してみせた。
「主婦の肩も、だいぶ凝ってるのよ。
“特殊な訓練を受けた生徒”のマッサージ技術、体験してみたいわ」
「理事長のテロップやめて」
彩女が、頭を抱えながら突っ込む。
青見はしばし悩んだ末、観念したように苦笑した。
「……分かりました。
夕飯のあとで、彩女と一緒に順番にほぐします」
「なんであたしもセットなのよ!」
「さっきあんだけ世話になったんだから、今度はお前がやれよ」
「うぐ……」
言い返せずに、彩女は口をつぐむ。
お母さんは、それを見てクスクス笑った。
「じゃ、まずは夕飯作るから。
青見くん、ちょっと悪いけど、冷蔵庫までその袋運んでくれる?」
「は、はい」
青見が、慣れた手つきでレジ袋を持ち上げる。
キッチンへ向かう背中を見送りながら、
彩女は、さっきより少しだけ軽くなった脚を伸ばしてみた。
(……気持ち良かったのはほんとなんだけどさ)
あの言い方は、次から気をつけよう――
と、心のどこかでひっそり反省するのだった。