/*/ その夜、安達家マッサージ道場 /*/
夕飯をはさんでひと段落ついたころ。
リビングでは、さっきの流れでお母さんの肩を揉まされた彩女と青見が、
二人でぐったりソファに沈んでいた。
「……青見、あんたの師匠、なに教えてんのよ」
「“人を殴る前にまず壊さない触り方を覚えろ”って……」
「物騒な前置きだなぁ」
そんな会話をしていると、玄関の鍵の回る音が聞こえた。
「ただいまー」
低めの声とともに、彩女の父が帰ってくる。
スーツ姿に、少しだけくたびれたネクタイ。
いつものビジネスバッグを置いて、スリッパに履き替えながら、
「お、青見くんも来てたのか」
「お邪魔してます」
青見が立ち上がってぺこりと頭を下げる。
お父さんはネクタイを緩めながら、ふっと肩を回した。
「今日は会議続きでさ……肩こったなぁ。腰も重いし」
その一言に、キッチンからお母さんの声が飛んでくる。
「はいはい、ちょうどいいわねー」
「ちょうどいい?」
不穏な単語に、お父さんが瞬きをする。
お母さんが顔だけ出してニヤリと笑った。
「今ね、青見くんと彩女に“スポーツマッサージ”してもらってたの。
私もやってもらったけど、けっこう効くのよ、これが」
「お母さん!? 勝手に宣伝しないで!」
「じゃあその“スポーツマッサージ”とやら、
父さんにも一つお願いしていい?」
お父さんは、あっさりソファの前に座り込んだ。
「最近、目もかすむしさ。肩まわりガチガチなんだよね」
「かすみ目は目医者行って」
彩女が即ツッコミを入れる。
だが、横で青見が少し考えるように父の背中を眺め、
「首と肩の血行は、多少マシになるかもしれません」
と、真面目に言った。
「やります?」
「やってください」
即答だった。
◆ 父、初・東マッサージ体験 ◆
お父さんは、ラグの上に正座させられ、
その後ろに青見が膝をつく。
「じゃ、ちょっと失礼します」
「お、おう」
ゴツい手が、そっと肩甲骨のあたりに触れた。
最初は軽く、様子を見るように。
それから――
「……力、入れないでくださいね」
「え?」
「さっきからずっと肩に力入ってます。
このままだと、指が沈まないんで」
「社会人の宿命だから許してやって……」
彩女のぼやきが飛ぶ。
青見は、そんなツッコミも受け流しながら、
指の腹でじわりじわりと押し込んでいく。
肩、肩甲骨の内側、首のつけ根。
ポイントを探るように押して、少し場所を変え――
「あっ……」
お父さんの口から、間抜けな声が漏れた。
「そこ、今の……何」
「ここですか」
少し圧を強める。
「ぐぅ……そこ……! なんかこう、電気走るみたいな……!」
「そこまで凝らす前にストレッチしろってば」
彩女が呆れた声を出す。
それでも青見は、一定のリズムで淡々と手を動かした。
「じゃあ、ここから十秒キープするんで、
ゆっくり息吐いてください」
「十秒も!?」
「五秒にしとく?」
「十秒でいいです!」
謎の見栄を張ったお父さんが、
顔をしかめながらも指示どおり呼吸を合わせる。
肩の上、首の横、肩甲骨と背骨の間。
何度かポジションを変えながら、同じように圧をかけていく。
その合間に、彩女が横から腕を掴んだ。
「じゃ、わたしは腕と手ね」
「お、おお……?」
前腕から手首、指の一本一本まで、軽くさすってほぐす。
マウスとキーボードの持ち方で固まりがちな場所を、
的確に、けれど優しく伸ばしていく。
「……あれ」
数分もすると、お父さんの表情が変わり始めた。
最初の「痛い」の顔から、
徐々に眉間のしわがほどけていく。
「なんか……体、軽いぞ……?」
「さっきまで、肩に無意識で力入ってたんですよ」
青見が、首の付け根を軽くさすりながら言う。
「それが抜けるだけでも、だいぶ楽になると思います」
「腕も、ぽかぽかしてきたでしょ」
彩女が、指先をぐいっと伸ばしながら笑う。
「パソコンとスマホばっかりいじってるからさ。
指と手首、けっこうパンパンだよ、お父さん」
「ぐ……耳が痛い……」
そう言いながらも、お父さんはどこか嬉しそうだ。
最後に、肩全体を軽く叩いてしめると、
「はい、いったん終了です」
青見が手を離した。
お父さんは、その場でゆっくり首を回してみる。
ぐり、と音がした気がした。
「……お?」
左右に倒してみる。
さっきよりも、明らかに動きが滑らかだ。
「なんか……すごくないか、これ」
「気のせいじゃないの?」
「いや、ほんとにだよ。
さっきまで、こう……肩の上に誰か乗ってたみたいに重かったんだけどさ」
腕を上げ下げしてみる。
「軽い。なんか体が軽い。
あと、なんかこう……全体的にあったかい」
「血が回ってるんでしょ」
彩女が、そっけなく言う。
「さっき『かすみ目』って言ってたとこは?」
「それは、まあ……」
お父さんは、わざと瞬きを数回してみせる。
「……気のせいかもしれないけどさ。
さっきより、ピント合いやすくなった気がするぞ?」
「それ、絶対“楽になった”って思い込み効果だからね」
彩女が苦笑する。
でも、どこか誇らしげでもある。
◆ 父の評価と“お小遣い” ◆
「いやあ……」
お父さんは、大きく一つ伸びをした。
「青見くん、彩女。助かったよ。
こんな本格的にほぐしてもらえると思わなかった」
「道場でやってるののマイルド版です」
青見が、少し照れくさそうに頭を掻く。
「本気のは、泣きます」
「やらなくていい」
即答するお父さん。
ひとしきり肩をぐるぐる回してから、
ふと、何かを決めたような顔で立ち上がった。
「よし。二人に、お礼をしよう」
「お礼?」
彩女が首をかしげる。
「いつも頑張ってるしさ。
今日のマッサージ代も込みで」
お父さんは、財布を取り出した。
中から、折りたたんだお札を二枚――
彩女と青見、それぞれの前にぽん、と置く。
「はい。これ、お小遣い」
「え、ちょ、ちょっと待って」
彩女が、慌てて手を振る。
「そんな本格的なやつもらうほどのことしてないってば!」
「いいから受け取りなさい」
お父さんは、にやりと笑った。
「名目は“父さんの健康維持協力費”だ。
これで父さんの寿命が三年伸びたと思えば安いもんだよ」
「三年は盛りすぎだと思うけど」
お母さんが、キッチンからツッコミを入れる。
「で、それを何に使わせる気?」
「決まってるだろ」
お父さんは、二人を交互に見た。
「健全なデートでもしてきなさい」
「ぶっ」
最初に変な声を出したのは彩女だった。
「な、なに言ってんの、いきなり!?」
「いやぁ、青見くんにはいつも世話になってるしさ。
この前も、夜まで学校の撮影だって聞いたし」
お父さんは、悪びれもせず続ける。
「たまには、道場でも体育館でも中庭でもない場所でさ。
映画でも、ご飯でも、スポーツショップでもいいし。
“ふつうの高校生デート”ってやつ、してきなよ」
「健全な、って付け足すあたりが生々しいんだけど」
彩女は、顔を真っ赤にしながらお札をにらんだ。
一方で、青見はというと――
「……ありがとうございます」
少しだけ頬を赤くしつつ、真剣な顔で頭を下げる。
「青見!?」
「いや、その……」
青見は、言い淀みながらも正直に続けた。
「前から、その……
彩女とロードの店、ちゃんと一緒に見に行きたいと思ってたし。
峠の下見も、どっかで一回しといた方がいいし。
その……その時の交通費とか、飲み物代とか、そういうのに……」
「言い訳が全部トレーニング前提なんだけど!?」
彩女が思わず叫ぶ。
「もっとこう、“映画見てー”とか“甘いもん食べてー”とかないの!?」
「映画も甘いものも、行けばいいだろ」
青見は、当たり前のように言った。
「ロードの店見て、峠ちょっと走って、
そのあと甘いもん食べに寄れば、完璧じゃないか」
「ロード峠スイーツコースを“完璧なデートプラン”みたいに言うな!」
わちゃわちゃしている二人を見て、
お父さんは肩を揺らして笑った。
「ほら、もうだいたい行き先決まってるじゃないか」
「決まってないし!」
彩女は、お札を掴んでぐしゃぐしゃにしそうになってから、
慌てて折り目を整えた。
「……返さないけど」
「受け取るんかい」
お母さんが呆れたように笑う。
それでも、その目はどこか柔らかかった。
「青見くん」
お父さんが、改めて青見に向き直る。
「うちの娘の脚と肩と、ついでに心のケアも、
これからもよろしく頼むよ。――健全な範囲でね」
「は、はい」
珍しく、青見の返事が裏返った。
「健全って何回言うつもりよ、もう!」
彩女の抗議の声と、
リビングに広がる笑い声。
その夜、安達家では――
「スポーツマッサージ道場・一日限定開店」と、
「健全デート資金支給式」が、
家族公認でしれっと執り行われたのだった。