健全デート
/*/ 阿武隈サイクリングデート /*/
日曜の朝。
阿武隈川沿いのサイクリングロードは、まだ車も人も少なくて、
川面を渡る風だけが、二台のロードバイクのホイールをさらさらと鳴らしていた。
「どう? ギア、重すぎないか」
横に並んだまま、青見がちらっと視線をやる。
「ん、大丈夫。……というか」
彩女は、軽くダンシングしながら、すっと前に出た。
「思ったより、ぜんぜん楽なんだけど」
黒のサイクルパンツ、その上にカジュアルなスカートを重ね、
上はサイクルジャージ。
いつもの制服とは違う“走るための格好”で、ペダルをくるくる回していく。
「うちの父さん、珍しく良いことしてくれたわ」
「“珍しく”って言い方やめとけ。警察官に聞かれたら職務質問されるぞ」
「本人が聞いても“まあ否定はしない”って言うと思うけど?」
くすっと笑いながら、彩女は川面を見下ろす。
阿武隈川は、前に台風で暴れた面影を、まだ少しだけ残していた。
ところどころ、護岸のコンクリートに新しい継ぎ目があり、
河原の石の色も、場所によってまだらだ。
「で、今日のコース」
青見が、サイクルジャージのポケットからメモを引っ張り出す。
「阿武隈サイクリングロードで下流に抜けて――尾辻が滝経由で、
そこから空港までヒルクライム。往復六、七十キロってとこだな」
「はい、“健全なデート”」
彩女がわざとらしく言う。
「……お父さん、署で言いふらしてそうだな」
「既にやってる気しかしない」
二人は顔を見合わせ、苦笑いしながらペダルを踏み込んだ。
川沿いの道は、緩やかに下っていく。
右手には、きらきら光る阿武隈。
左手には、畑と住宅地。
ロードのタイヤが、アスファルトの微妙なザラつきを伝えてくる。
「サイクルロードってさ」
しばらく走ってから、彩女がぽつりと言った。
「なんか、“街の外周”って感じするよね」
「外周?」
「うちらが普段バスで通る道とか、駅とか商店街とかが“真ん中”だとするとさ。
こういう川沿いとか、峠とか、空港とかは、“縁のライン”っていうか」
「……まあ、分からんでもない」
青見は、少しだけ前を見据える目を細めた。
「“縁”の方が、だいたい何か起きるしな。うちのクラスの場合」
「自覚あったんだ」
そんな他愛もない会話を交わしながら、
二台のロードは、ゆっくりと南へと進んでいった。
/*/ 尾辻が滝 /*/
やがて、川の流れが少しずつ速くなり、
遠くから、水の落ちる低い轟音が聞こえてきた。
「……あ」
彩女がブレーキレバーを軽く握る。
前方、サイクリングロードから分岐して、
小さな観光用の駐車スペースと、遊歩道の入口が見えてきた。
「ここ、だよね。尾辻が滝」
「ああ。自転車、あの柵にロックかけとくか」
二人はロードを降りて、簡易スタンド代わりのガードレールに立てかける。
遊歩道の先には、緑に縁取られた阿武隈川が、
大きな段差でざぶざぶと落ち込んでいた。
水面に、白い筋が斜めに走っている。
川の中の岩が、漢字の「乙」の字のように折れ曲がっているから――
そう聞いたことがある。
「芭蕉が来たとこ、なんだっけ」
「うん。なんか句碑があるって聞いたけど……」
彩女が言いかけて、ふと足を止めた。
遊歩道の脇。
そこにあるはずの「社」が――
ぽっかりと、抜け落ちたみたいに無くなっていた。
「あれ?」
以前来たことがあるらしい。
彩女の足取りが、急に慎重になる。
「ここさ、小さいお堂みたいなのがあったんだよ。
芭蕉が立ち寄ったっていう何とか……不動堂?」
残っているのは、コンクリートの基礎と、
折れた柱の根元だけ。
その横に、傾いたままの石灯籠。
そして、泥に汚れたままの木製の案内板が転がっている。
「去年の台風でやられたって、ニュースで見た気がする」
青見が、泥のついた板をそっと起こす。
かろうじて読める文字。
――元禄二年、俳聖 松尾芭蕉、この地を訪れ……
「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」
その下の説明文は、途中で破れてしまっている。
「……なんか、もったいないね」
彩女が、複雑そうな顔をした。
「“歴史ある場所です”って感じのとこが、
まとめてごっそり持ってかれたみたいで」
「まあ、相手があの雨じゃな」
阿武隈川の色は、今でこそ穏やかな水色だが、
少し目を閉じれば、
茶色い濁流がこの辺りまで押し寄せた光景が、容易に想像できる。
「……なあ、彩女」
「ん?」
「この基礎、見てみろ」
青見がしゃがみこんで、
お堂の残骸のコンクリートを指さした。
角になっている部分に、
何か細かい刻印のようなものが残っている。
「これ……紋様?」
彩女もしゃがんで、覗き込む。
円が三つ重なったような図形と、
その周りに、細かく刻まれた波の線。
その上に、
誰かが後から貼ったらしい、
紙の護符の残骸がこびりついている。
破れて、半分剥がれかけた札。
消えかかった墨の文字。
――水門。
かすかに、そう読めた気がした。
「“みなと”じゃなくて、“すいもん”?」
「さあな」
青見は、指先でそっと札に触れかけ――
すぐに手を引っ込めた。
「……やめとくか」
「うん。なんか、嫌な感じする」
彩女も同じように身を引く。スマホで1枚だけ写真を撮る青見。
「……明日、英に言ってみるか」
「そうね。あいつなら、“こういうの”なんか知ってそうだし」
そう言って立ち上がった、まさにその瞬間だった。
滝の音が、一瞬だけ、ふっと遠のいた。
代わりに、耳の奥に、低い“うなり”のようなものが入り込んでくる。
ごう、ごう……でも、風の音とも違う。
水が、どこか別の方向に吸い込まれていくような――
妙な響き。
「……青見」
「聞こえる」
二人同時に、滝壺の方を振り向いた。
阿武隈の水面。
流れに逆らうように、
ひとつ、黒い渦が、すっと立ち上がる。
それは、ほんの数秒のことだった。
陽の光を受けた水飛沫の間に、
人の顔にも、何か巨大な魚にも見える“影”が浮かび――
すぐに、崩れるように消えた。
次の瞬間には、
またいつもの、ざぶざぶとした滝の音だけが戻っていた。
「今の」
「見た」
二人は、顔を見合わせる。
川風が、一段冷たくなったような気がした。
「……とりあえず、ここで長居はやめとこうか」
「賛成」
彩女は、短く息を吐いて、
わざと明るい声を出した。
「さ、空港までヒルクライムでしょ?
こんなんで気持ち折られてたら、もったいないし」
「メンタルは強いな、お前」
苦笑しながらも、
青見は、案内板をそっと元あった場所の近くに立てかけ直した。
その足下で。
コンクリートの隙間から、
じわり、と冷たい水が滲み出していることに――
二人は、まだ気づいていなかった。
/*/ 福島空港への坂道 /*/
「……ふふん」
「なに勝ち誇った顔してんだよ」
須賀川の平地を抜け、
福島空港へ向けてのヒルクライムルートに入っても、
彩女のペダルは軽快だった。
見上げれば、ゆるやかに続く登り。
両側には、畑と林。
車道脇の広い歩道を、二台のロードバイクが黙々と――ではなく、
わりと普通に会話しながら登っていく。
「だってさ。空港の坂、もっと“ガツンと来る”のかと思ってたんだけど」
ケイデンスはしっかり高め。
呼吸は上がっているものの、会話に困るほどではない。
「体操の補強でやってる坂ダッシュの方が、正直キツい」
「それは練習メニューの問題だろ」
青見も、わずかに汗をにじませながら、
それでも余裕ある声で応じる。
「普通の人はな、ここ来る頃には“はぁ、はぁ”なんだよ。
初ロードで“物足りない”とか言うな」
「じゃあ今度、タイムトライアルする?」
「絶対やる気満々じゃねぇか」
そんなやり取りをしつつも、
一定のペースを崩さずに、標高はじわじわと上がっていく。
途中、小さな谷を渡る橋に差し掛かったところで、
二人は自然と減速した。
「ここで一回、水分」
「賛成」
それは「苦しいから」の休憩ではなく、
単に計画どおりの小休止だった。
ボトルの水で喉を潤していると、
青見のジャージポケットでスマホが震える。
「あれ、父さんから?」
「いや……」
画面を見て、眉が寄る。
「ニュースの通知だ。“阿武隈川の水難事故発生”」
「水難?」
彩女が、顔を上げる。
「どこ?」
「……尾辻が滝の、少し下流だってさ」
ついさっきまでいた場所の、少し先。
川原で遊んでいた大学生グループの一人が、急に足を取られて流されかけたが、
仲間に引き上げられて軽傷――
そう短く書かれている。
「“原因不明の逆流”って、なんだそれ」
思わず、さっき見た黒い渦が頭をよぎる。
「……嫌なタイミングね」
「だな」
二人は、しばし黙り込んだ。
風だけが、坂道を吹き抜けていく。
「とりあえず」
先に口を開いたのは彩女だった。
「今できるのは、変に戻ってウロウロしないで、
ちゃんと父さんと、英に話すこと、かな」
「そうだな」
警察官の父。
それから、“こういう話”を持っていくには一番慣れているクラスメイト。
その二人なら、「変なもの」を見たと言っても、
頭ごなしに笑い飛ばしたりはしないだろう――と、彩女は思う。
「……今日は、とりあえず、登ろうぜ」
青見は、ハンドルを握り直した。
「せっかくここまで来たんだ。
坂の途中でビビって引き返したら、多分後悔する」
「分かってるって」
彩女もサドルにまたがり、ペダルを踏み出す。
ふくらはぎの筋肉が、きゅっと締まる。
新しいロードバイクが、静かに登り始める。
「頂上まで行ったら、空港でアイスね」
「結局甘いもんは行くんだな」
「お父さんのお小遣い、“健全な使い方”ってことで」
そんな会話が、
さっきまでのざわつきを、ほんの少しだけ薄めてくれた。
それでも青見は、
さっきの“水門”の刻印を、頭のどこかで反芻していた。
(封印が、壊れた……って考えるのは、さすがに考えすぎか?)
阿武隈川の流れは、もう見えない。
だが、どこか遠くで、水の音が一瞬だけ高まったような気がして――
彼は、それ以上その考えを深追いしないことにした。
この日、尾辻が滝の近くで起きた「原因不明の逆流事故」は、
大きなニュースにはならず、
地元紙の片隅に小さく載るだけで終わる。
だが同じ週のうちに、
阿武隈沿いで、小さな異変がぽつぽつと増えていくことになるのは――
もう少し先の話だった。