/*/ 警察署・武道場 /*/
夕方の警察署道場には、竹刀の音と掛け声が響いていた。
「――では、本日の合同稽古に来てくれました、逢瀬学園剣道部の皆さんです」
署の武道主任が紹介すると、畳と板張りの境目に整列した高校生たちが、一斉に頭を下げた。
「お願いします!」
白い道着と袴。
まだ線の細い一年らしき子から、そこそこ仕上がった三年まで。
その列の真ん中あたりに、ひときわ背の高い男子がいる。
(あれが……)
安達彩女の父――安達巡査部長は、腕を組んだまま目を細めた。
東 青見。
逢瀬学園二年。全国高校個人戦 優勝。
娘の“健全なデート”の相手であり、
週末にはマッサージで同僚から羨望の的になっていた男でもある。
「全国個人の猛者……か」
隣で、機動隊上がりの巡査部長がにやりと笑う。
「いっちょ、もんでみっか?」
「お前な、相手高校生だぞ」
「手加減くらいはするって。なあ、課長」
視線を向けられた生活安全課長は、苦笑いしながら肩を竦めた。
「多少しごいてもらった方が、こっちの刺激にもなるだろ。
怪我させない範囲でな」
そんな大人たちの相談をよそに、稽古は淡々と進んでいた。
準備運動、素振り、足さばき。
高校生たちと警察側で列を組み、互いに号令をかけ合う。
その一番前で、青見は黙々と竹刀を振っていた。
派手なところはない。
ただ、振り上げから振り下ろしまでの線が、
一本一本、まるで定規で引いたみたいに真っすぐだった。
(――型が、綺麗だな)
安達は、警察学校時代の教官を思い出すような気持ちで、その背中を見ていた。
やがて形稽古が終わり、
「じゃあ、まずはウチの方からお願いしまーす」
防具を着け終えた機動隊上がりの巡査部長――佐久間が、
どすん、と一歩前に出た。
「東くんだっけ? 一番手、どうだ?」
「……はい。お願いします」
青見も、面をかぶりながら静かに答える。
その横で、高校生たちがひそひそとざわついた。
「いきなり佐久間さんかよ」「一番キツい人じゃん」「泣くなよ東」
安達も心の中で苦笑する。
(佐久間、お前ほんと加減って言葉知らねえな……)
中段に構えた二人が、ゆっくりと間合いを詰めていく。
カーン、と金属バットを軽く叩いたような一本の音。
次の瞬間――
「面っ!」
佐久間が、地面を踏み割るような勢いで飛び込んだ。
ぐっと詰めた間合いから、力任せに振り下ろされる面。
警察特有の「止めない」打突。
(おいおい、いきなりそれか――)
安達が眉をしかめかけた、そのとき。
ぱしん、と乾いた音が響いた。
青見の竹刀が、わずか半歩下がりながら相手の竹刀をそらし――
そのまま、すっと浮くように体が入れ替わる。
「メェン!」
わずかに遅れて、青見の面が、きれいに決まった。
佐久間の頭が、かすかに仰け反る。
一呼吸分の静寂。
「……おう」
佐久間が一歩下がり、面の中で口元を歪めた。
「もう一本」
「お願いします」
二本目。
今度は、佐久間がフェイントを混ぜる。
面に見せかけての小手。
さらに、そこからの引き面。
警察大会のベテランらしい、いやらしい崩し。
だが。
青見の足は、一度も止まらなかった。
前に寄りながら、竹刀の先だけで相手の動きを封じる。
わずかな刃筋の揺れで「ここからは打たせない」と示し――
佐久間の体が「来る」と決めた瞬間。
「ドウッ!」
喉の奥から絞り出した声とともに、
真横から鋭い胴が走った。
ぱぁん、と面金が鳴る。
警察側の見学組から、素直な感嘆の声が漏れた。
「速っ」「今の見えた?」「フェイント全部潰されてたぞ」
佐久間は、しばらく黙ったまま呼吸を整え――
やがて、面を軽く叩いて笑った。
「――参りました。全国は伊達じゃねぇな」
「ありがとうございました」
青見は丁寧に一礼し、列に戻る。
その背中を見ていた警察側の面々の目が、
さっきまでの「ちょっと遊んでやるか」から、
完全に「ガチで強い奴」のそれに変わっていく。
「じゃあ次、自分いいっすか!」
若手刑事が名乗り出る。
続けて交通課のベテラン、地域課の巡査、
機動隊経験者……と、連続で東の前に立った。
結果。
十分後には――
「面あり!」「胴あり!」「小手面あり!」
審判を務めていた武道主任の声が、
ほぼ東のポイントコールで埋め尽くされていた。
面と小手の隙間を、
するりと風が通り抜けていくような打突。
力で押し潰すのではなく、
相手の「打とうとした瞬間」にだけ鋭く線を通す剣道。
「……こっちが“打たされた”って感じだな、ありゃ」
汗を拭いながら戻ってきた若手刑事が、
半ば呆れ顔でつぶやく。
「高校生ってレベルじゃないだろ」「なんでうちの署に配属されてねぇんだ」
「採用試験からやり直してもらわねえとよ」
そんな冗談が飛び交う中で、
安達は面を取った東の顔をじっと見ていた。
呼吸は乱れているが、眼はまだ余裕がある。
相手が誰であれ、きちんと「稽古」として受け止めている目だ。
(――こりゃ、彩女が惚れても、そこまで文句言えねぇか)
警察官としての目と、父親としての目が、
珍しく同じ答えを出す。
「安達さん」
武道主任が、少しだけ意地の悪そうな笑みを浮かべて声をかけてきた。
「せっかくだし、最後一本どうです? “お父さん代表”で」
「……やっぱり、そう来るよな」
断れば、あとで署の飲み会でネタにされる。
受けても、たぶん別の意味でネタになる。
どちらにせよ、逃げ道はない。
「東くん」
安達は、防具を装着しながら声をかけた。
「一本、付き合ってくれるか」
「はい。お願いします」
正面に立った東は、
さっきまでと変わらない、落ち着いた構えをとった。
それを見て、安達はほんの少しだけ構えを下げる。
(娘の彼氏相手に、みっともない真似はできねえな)
そう思った瞬間。
すっと、竹刀の先が吸い寄せられるように絡んだ。
押しても引いても、先を取られる。
呼吸を詰めた瞬間――
「メェン!」
視界いっぱいに、面金越しの白い線が走った。
完全に、出鼻をさらわれる。
面を上げながら、安達は思わず笑った。
「……一本取られたな」
「ありがとうございました」
深く一礼する東。
道場の隅で、それを見ていた若手たちが、
にやにやと視線を交わし合う。
「安達さん、“親としての査定”は?」
「剣道の腕に関しては、満点だ」
安達は面を脱ぎながら、わざとらしく肩を竦めて見せた。
「――あとは、彩女を泣かせなきゃ、それでいい」
「うわ。お父さん出た」
道場に、どっと笑いが広がる。
その輪の中で、東は少しだけ照れくさそうに頭を掻いていた。
外は、夕方の光。
阿武隈川の向こうから吹き込む風が、
道場の窓をかすかに揺らしている。
その風の気配に、
安達は昨日娘から聞いた「黒い渦」の話を思い出し――
(……ま、こっちもこっちで、準備しとくか)
そう心の中で呟いてから、
もう一度、竹刀を握り直したのだった。