/*/ 阿武隈川の怪異 1 逆流する霧 /*/
その朝、川の色は、やけに白っぽく見えた。
阿武隈川沿いのサイクリングロードを走るのが日課のランナー・篠田は、
まだ半分寝ぼけた頭のまま、いつものペースで足を運んでいた。
早朝五時台。
東の空が、やっと薄橙色を帯び始めた頃。
川面から、薄い霧が立ち上がっている。
よくある光景だ――はずだった。
(……あれ?)
篠田は、呼吸を整えながら、片眉を上げる。
川霧は、川の流れと同じ下流方向へ流れていく。
それが当たり前のはずなのに――
今朝に限って、霧の帯は、
まるでビデオを巻き戻したみたいに、上流へ向かって走っていた。
「気温差、かな……」
独り言ちてみる。
だが、どう見てもおかしい。
川の流れは、いつもどおり下へ向かっている。
なのに霧だけが、スルスルと逆走していく。
走りながら、その帯の中へ足を踏み入れた瞬間だった。
ざっ。ざっ。ざっ。
自分の足音が、半拍遅れて耳に返ってくる。
ちょうど、誰かが後ろからついて来ているみたいに。
(うわ、気持ち悪……)
篠田は、思わずペースを落とした。
振り返る。
サイクリングロードには、誰もいない。
霧だけが、濃くなったり薄くなったりしながら、
ゆっくりと上流へと滑っていく。
なのに、耳にはまだ、もう一組の足音が残っていた。
ざっ。ざっ。ざっ。
自分の足と、リズムがぴったり重なっている。
霧の向こうに、ランナーらしきシルエットが浮かぶ。
自分と、全く同じフォームで走っている影。
息を呑んだ次の瞬間、
霧がさっと切れて、シルエットは消えた。
足音も、止む。
残っていたのは、
ランニングシューズの先から滴る水と、
ふくらはぎまでじわりとまとわりつく、川水の冷たさだけだった。
/*/ 阿武隈川の怪異 2 戻ってくる水音 /*/
その日の放課後。
阿武隈川の土手下、河川敷のグラウンドでは、
中学の野球部がノックの最中だった。
「はいー、ライトー!」
ノックバットが火花みたいにボールを弾く。
白球が弧を描いて、外野の端――
川に近いフェンスぎりぎりへ飛んでいく。
外野手が追いつけないと悟った瞬間、
チャポン。
水の音がして、ボールは見えなくなった。
「うわ、また流した!」
コーチが苦笑混じりに叫ぶ。
「すみませーん!」
外野の少年が帽子を脱いで頭を下げる。
そのときだった。
チャポ……ン。
さっきより、わずかに遅れて。
今度は、背後――土手の方から、水音が返ってきた。
「……え?」
外野の少年は、思わず振り向いた。
そこは、ただの芝生と土の斜面。
川から一段高くなった場所に、水たまりなんてあるはずがない。
なのに、草の間に、濡れた跡が円を描いていた。
石でも落としたような、丸い水しぶきの形。
「風、かな……」
自分で自分を納得させるように呟きながら、
少年は再び川の方へ目を向けた。
その後も、打球が川へ消えるたびに――
チャポン。
チャポン。チャポン。
水音が、一つ多く返ってきた。
ボールは四球流したはずなのに、
聞こえた水音は五回。
最後の一回分だけ、
土手の上のどこかから返ってくることに、
気づいていたのは、外野の少年だけだった。
/*/ 阿武隈川の怪異 3 濡れた足跡 /*/
日曜の午後。
小さな犬を連れた主婦・河合は、
いつもの散歩コースを歩いていた。
阿武隈川の堤防を上り、土手の道をゆっくり進む。
春に植えた花壇の手入れをしている人たちと挨拶を交わし、
橋を一本くぐったところで――
「……あれ?」
足元のアスファルトに、
水で濡れた足跡が並んでいた。
裸足。
しかも、子どものものではない。
大人と同じサイズの素足の形が、
ひとつずつ、河原から住宅街の方へ向かって続いている。
「さっき、雨なんて降ってないのに」
思わずつぶやく。
犬のリードを少し短く持ち直して、
足跡の列を避けるように横にずれる。
ぺた。
靴底が、ぎゅっと冷たくなった。
さっきまで乾いていたはずのアスファルトが、
その一歩ぶんだけ、水の中みたいにぬるりとしている。
「……気のせい、気のせい」
そう言い聞かせて通り過ぎる。
ただ、犬の方は、
耳を伏せて足跡の列をじっと見つめていた。
尻尾の先が、小さく震えていた。
/*/ 阿武隈川の怪異 4 水中の階段 /*/
「……おかしいな」
腰までウェーダーを履いた男が、阿武隈川の中で足を止めた。
アユ釣り歴二十年のベテラン・村上は、
いつもと少し違う瀬に入っていた。
ここ数年、川の底の形が微妙に変わっている。
台風のたびに石の配置がずれるので、
感覚をつかみ直そうとして、今日はあえて“未踏のライン”を試していた。
膝下の水深。
慎重に一歩、二歩と進む。
じゃぶ。じゃぶ。
水音のリズムが、ふと変わった。
次の一歩で――
ストン。
右足が、段差を降りるみたいに沈んだ。
「うおっ」
慌ててバランスを崩す。
腰までいく前に、左足で体を支えた。
(こんな深み、あったか?)
村上は、足もとを覗き込んだ。
川底の石の並びが、おかしい。
自然に転がった礫ではなく、
どこか、石畳の階段のように段々に沈んでいる。
水は、そこだけ、やけに澄んで見えた。
と――
ひたり。
ふくらはぎを、細い何かが撫でた。
魚にしては冷たすぎる。
指にしては、細すぎる。
「……っ」
背筋を悪寒が駆け上がる。
村上は反射的に竿を放り出し、岸へ向かって跳ね上がった。
ざばっ、と水が割れる。
振り返ると、さっきまで膝下だった水面が、
一瞬、丸い暗い穴になっているように見えた。
階段の先に、真っ黒な水の落ち込みが開いていて――
次の瞬間には、普通の浅瀬に戻っている。
岸に這い上がった村上は、しばらく膝に手をついて呼吸を整えた。
どくどくと鼓動が速い。
たまたま足を取られただけ。
そう思おうとしても、
ふくらはぎの内側に残る“撫でられた感触”だけは、どうしても消えなかった。
/*/ 阿武隈川の怪異 5 夜のホイッスル /*/
その夜。
河川敷のサッカーグラウンドには、
ナイター設備の白い光が降り注いでいた。
社会人チーム「FCアブクマ」の練習日。
「はい、折り返しダッシュ行くぞー!」
コーチのホイッスルが高く鳴る。
ピッ。
ラインからラインへ、選手たちが全力で走る。
人工芝ではない土のピッチに、スパイクがリズムよく食い込む。
数本目の折り返しになったときだった。
ピッ。
ホイッスルが鳴る。
だが、コーチは笛を口に当てていない。
「ん?」
彼が首を傾げる間にも、選手たちの体は条件反射で動いてしまう。
ピッ。ピッ。
笛の音が、連続して響く。
タイミングは、いつも同じ。
川の方で、水面がチラッと光った瞬間に、
グラウンドの端の方からホイッスルが鳴る。
「おーい、いたずらすんなよー」
コーチが声を張る。
返事はない。
代わりに――
ダッ。
一人の選手が、ラインから大きくはみ出した。
まるで、見えない誰かに引っ張られるように、
土手の斜面へ向かって一直線に走り出す。
「おいっ、そっちは!」
慌てて数人が追いすがる。
土手の上から一歩外れたところで、
なんとか背中を掴んで引き倒した。
息を切らせながら見上げると、
目の前には、真っ暗な川。
足を止められなければ、そのまま斜面を滑り落ちていた。
「お前、何やって……」
コーチが怒鳴りかけて、言葉を飲み込む。
倒れた選手のスパイクから、
ざああと信じられない量の水が流れ落ちていた。
さっきの走路は、乾いた土の上だったはずなのに。
/*/ 阿武隈川の怪異 6 橋脚の輪 /*/
満月の夜。
阿武隈にかかる古い橋の上を、
自転車通勤の会社員がゆっくりと走っていた。
川面には、月の道。
橋脚の影が黒々と落ちている。
(……ん?)
ふと視界の端で、何かが光った。
自転車を止め、欄干から顔を出す。
橋脚のコンクリートの一部に、
円が三つ重なったような光の輪が浮かんでいた。
輪は、月の光を反射しているようにも見えたし、
橋脚の中から滲み出ているようにも見えた。
中央の輪に、
水面がすっと引き寄せられる。
波紋が橋脚の表面に吸い込まれ、
その部分だけ、川の流れが止まって見えた。
「なんだ、アレ……」
スマホを取り出し、カメラを向ける。
画面には、何も映らない。
もう一度見下ろす。
肉眼では、はっきり見える。
月光の輪。
その向こうに、どこか別の夜景のようなものが揺らめいている。
ビルの光にも見えるし、
遠い雷光にも見える。
もう一度シャッターを切り、
写真を確認した瞬間――
そこに写っていたのは、
風景でも月でもなく、
真っ黒な渦のようなノイズだけだった。
/*/ 阿武隈川の怪異 7 川の声 /*/
団地の一室。
夜中の二時過ぎ。
小学三年生の男の子が、高熱でうなされていた。
「……みなと……みなと……」
汗で濡れた額に、冷えピタ。
母親は、眠気を押し殺して息子の背中をさする。
「川が……しゃべってる……」
少年は、掠れた声で言った。
「“あけるな”って……“ひらく”って……
“みなと、みなと”って……」
「夢見てるのよ。大丈夫、大丈夫」
母親は、そう言いながらも、
胸の奥がざわつくのを抑えられない。
翌朝。
熱は下がり、少年はけろりとした顔でテレビを見ていた。
母親は、買い物ついでに、
なぜか気になって河川敷へのルートを変えた。
団地から、普段は使わない階段を降りる。
途中で、足を止めた。
階段の踊り場に、
古びた鉄の標識が一本立っていた。
錆びて、文字は半分消えかけている。
それでも、読めた。
――水門
「すいもん」と振り仮名がふってある。
昨日まで、こんな標識を見た記憶はない。
標識の足元には、
濡れた裸足の足跡が、いくつも重なっていた。
/*/ 阿武隈川の怪異 8 月曜日・英と安達 /*/
「……以上が、ここ一週間で上がってる“変な水の話”です」
氷室 英は、プリントの束を閉じて顔を上げた。
場所は、市内の警察署・生活安全課の会議室。
簡易テーブルの向こう側には、
私服姿の安達巡査部長――彩女の父が座っている。
「まさか、高校生と情報共有する日が来るとは思ってなかったがな」
安達は苦笑しつつ、プリントをトントンと揃えた。
「逆流する霧、戻ってくる水音、水中の階段、夜中のホイッスル……」
「どれも、単発なら“偶然”で押し切れる案件です」
英は、淡々と補足する。
「でも、“場所”を地図にプロットすると――」
壁に貼られた市内地図。
赤いピンが、阿武隈川沿いに点々と刺さっている。
尾辻が滝。
その下流。
橋脚。
団地脇の階段。
全部を線で結ぶと、
一本の川の筋が浮かび上がった。
「“水門”の刻印のあった地点を起点に、
下流側に、じわじわと“何か”が漏れている感じですね」
「ふむ……」
安達は顎に手を当てる。
「水難事故自体は、今のところ死者なし。
ギリギリで誰かが引き戻してる。
だが、このまま放っとくと、いつか一線超えるかもしれねぇ」
「その前に、“蓋”をどうにかする必要がある、ってことですね」
英は、尾辻が滝で撮られた写真を一枚、テーブルの上に滑らせた。
崩れたお堂の基礎。
“水門”の文字。
剥がれかけの護符。
「東くんと安達さんが見た黒い渦も、
たぶんこの“ひび割れた水門”に関係してます」
「……高校生の“健全なデートコース”で、何見つけてんだか、うちの娘はよ」
安達は、半分ため息、半分呆れ声で笑う。
「でもまあ、見つけてくれたのは助かった。
気づかれないまま、全部向こう側に引っ張られるよりマシだ」
「じゃあ、方向性は一致ですね」
英は、静かにうなずいた。
「“怪物退治”じゃなくて、
“壊れかけの水門を、元の固さまで戻す”作業。
それが、今回のゴールです」
「警察としては、表向き“防災と安全対策”って名目にしとく。
お前らは――」
安達は、少しだけ表情を引き締めた。
「勝手に川に近づくな。
ただし、“呼ばれた奴”を見つけたら、引っ張り戻してやれ。
うちの娘も含めてな」
「了解しました」
英は、真面目な顔で頭を下げた。
窓の外では、
阿武隈川の方角から、かすかに風の音が聞こえる。
川面を渡る風の、そのさらに奥で――
ごう、ごう、と低い水のうなりが、
誰にも聞こえない深さで、
静かに続いているような気がした。
それが「阿武隈川の怪異」と呼ばれるようになるまで、
まだ少しだけ、時間があった。