運命来訪
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柳原先生から電話がかかってきたのは、夜の十時を少し回ったころだった。
その時間の電話は、それだけで嫌な予感がする。
リビングでテレビを見ていた母が「塾?」と首をかしげ、わたしは「たぶん学校」とだけ答えて自室へ駆け込んだ。
ドアを閉めてから、そっと通話ボタンを押す。
「……はい、安達です」
『ああ、よかった。起きていたのね』
受話口から聞こえたのは、柳原郁代の声だった。
音楽室で聞くときと同じ、少しだけ眠そうで、どこか甘さを含んだ声。
『急にごめんなさいね、夜分に。お母様には“学校からの連絡”とでも言っておいてちょうだい』
「……何か、ありましたか」
言いながら、中原が消えたあの瞬間の光景が、脳裏をよぎる。
『ええ。あると言えば、あるし。ないと言えば、まだ何も起きていないとも言えるわね』
柳原は、わざとらしく言葉を選ぶような口調で続けた。
『――真のメロディ様を、知りたくない?』
背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
「真の……?」
『あなた、見たのでしょう? 中原くんの“消え方”を』
心臓が一度、大きく跳ねる。
『あれは不完全だった。音が、ほんの少し外れていたもの。だからあの子は、あの程度のところで満足して消えてしまった』
「……“あの程度”って」
『でも、あなたなら。安達さんなら、もっと“正確な音”を見つけられると思うの』
メロディ様。
頭の奥で、あの旋律がじわりと滲み出す。
『気になっているのでしょう? 耳の奥から離れないあの音が。本当は、どこへ繋がっているのか』
図星だった。
――知りたくないわけじゃない。
むしろ、知ってしまえば、このしつこい旋律から解放されるんじゃないかとさえ思っている。
「……もし、知ったら」
自分でも驚くくらい、乾いた声が出た。
「中原みたいに、消えたりします?」
『さあ、どうかしら』
柳原は、くすっと笑った。
『音階は扉みたいなものよ。開けた先がどこに繋がっているかは、その人次第。
……でも、何も知らないまま、扉の前でずっと耳を塞いでいるだけの人生なんて、退屈だと思わない?』
沈黙が落ちた。
『今夜、学校に来なさい。零時ちょうどに昇降口から入りなさい。鍵は開けておくわ』
「……一人で、ですか」
『ええ。一人で。
――東くんは、巻き込まない方がいいわよ』
その名前を出されて、喉がきゅっと詰まる。
『あの子は、まだ“こちら側”に来なくていい。あなたがどうするのかを、先に決めるべきだわ』
通話が切れたあと、しばらく携帯を見つめて動けなかった。
(どうするのよ、わたし)
青見の顔と、中原の消えた空間と、頭の中で鳴り続けるメロディ様。
全部がごちゃ混ぜになって、胸の内側で渦を巻いている。
――行かなければ。
そう思うのと同じ強さで、行きたくないとも思っていた。
でも。
(中原、あの顔で……)
あの“解放”みたいな笑みが、どうしても頭から離れない。
(……一人で行く)
口に出したら、それは決定になってしまう気がして、心の中だけで呟く。
青見のことが、脳裏をかすめた。
LINEを開いて、“ちょっと相談したいことがある”と打ちかけて――全部消す。
(巻き込みたくないって、さっき言われたしね)
柳原の言葉に背中を押される形になったのが、少しだけ癪だった。
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零時前、月城高校の昇降口は、昼間とまるで別の学校みたいに見えた。
街灯のオレンジ色の光がかろうじて届くくらいで、校舎の輪郭は夜に溶けかけている。
ガラス越しに見える下駄箱の列が、墓標みたいに並んでいた。
(バカじゃないの、こんな時間に)
そう自分に悪態をつきながら、用務員もいない正門脇から忍び込む。
昇降口のドアに手をかけると――本当に、鍵は開いていた。
きぃ、ときしむ音とともに、冷たい空気が流れ出てくる。
中に足を踏み入れた瞬間、外の世界がすっと遠ざかった気がした。
ぱたん。
背中の方で、扉が閉まる。
……閉まるだけなら、まだよかった。
カチリ。
明らかに「鍵」の音がした。
「え」
慌てて振り向く。
さっき開けたばかりの扉の取っ手を掴んで、引く。押す。揺する。
びくともしない。
「ちょっと……」
鍵穴に差さっているものはない。
なのに、内側からガチャガチャと回しても、ロックは外れない感触だけが伝わってくる。
心臓が、どくん、と嫌な跳ね方をした。
(入ったら自動ロック、って。そんな機能、うちの学校にあったっけ)
いや、あるはずがない。
これはそういう“仕掛け”じゃない。もっと、別の――
不安がじわじわ膨らんで、喉の奥までせり上がる。
逃げ道を探すように、廊下の窓に近づいた。
窓の鍵を外して、力いっぱい引く。
開かない。
「……嘘でしょ」
今度は蹴る。
ガラスが震えるだけで、ひびひとつ入らない。
(防犯ガラスってレベルじゃないでしょ、これ)
一枚一枚、他の窓も試してみる。
どれも、まるで壁みたいに動かない。
汗が背中を伝った。
「……閉じ込める気、満々じゃない」
自分の声が、広い廊下に吸い込まれていく。
蛍光灯はところどころ消えていて、非常灯だけがぼんやりと緑色に光っている。
さっきまで外から聞こえていた車の音も、人の話し声も、今は何ひとつ届かない。
世界からひとつ切り離された箱の中に、自分だけ放り込まれてしまったような感覚。
不安。
怯え。
恐怖。
それらの名前が、じわじわと皮膚の下から染み上がってきた。
だけど、ここで泣いてしゃがみ込んだって、扉は開いてくれない。
(上だ……)
柳原が「昇降口から入って」と言っただけで、「どこに来い」とは告げていない。
だったら、音楽室か、あるいは――
足が、階段の方へ向かっていた。
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二階へ続く階段は、月明かりでうっすら照らされていた。
踊り場の窓から差し込む光が、白い階段に長く伸びている。
その光が、階段の上から下へ流れるみたいに傾いていて、いつもの景色なのに、どこか異様だった。
ふと、視界の端に違和感を覚える。
踊り場の窓ガラス。その向こうに、校庭が広がっている――はずなのに。
(……暗い)
外の月は出ているのに、窓に映っているのは、真っ黒な何かだった。
よく見ると、それは“向こう側”の景色じゃない。
“こちら側”の景色を映している。
階段。
手すり。
その少し下に見える、一階の廊下。
全部が、窓ガラスの向こう側に「もう一度」存在していた。
「……合わせ鏡、みたい」
思わず、そう呟く。
踊り場の窓ガラスと、下の廊下にある大きなガラス扉。
月明かりの角度がちょうどいいのか、その二つが鏡と鏡になって、何度も景色を反射し合っている。
覗き込むと、階段が、廊下が、ずっと奥の奥へ続いている。
引き延ばされた校舎の内側が、ありえない遠さで続いている。
その奥の方。
反射の重なりで、輪郭が少し歪んだ一枚の“景色”が見えた。
(……なに、あれ)
目を凝らす。
そこには、見慣れた制服の後ろ姿があった。
東青見。
間違えようがない。
肩のラインも、立ち方も、手のポケットの突っ込み方も、全部知っている。
その隣に、一人の少女が立っていた。
髪をおさげにした、小柄な中学生。
メロディ様の“カモノハシ”、三森玲子。
彼女は、青見の袖を、少しだけ遠慮がちに掴んでいた。
でも、その顔は嬉しそうで、安心したように笑っている。
青見も、穏やかな顔で彼女に何か話しかけていた。
口の形だけで、言葉は分からない。
でも、雰囲気で分かる。
――楽しそうだ。
視線を追っていくと、二人の先に、もう一つの影が見えた。
誰かが待っている。
そこにいるのは――柳原先生、だ。
彼女は、優雅に笑って二人を迎え入れ、その後ろに、ぱらり、と何かが開く。
本。
巨大な本のようなもの。
三人の姿が、そこに吸い込まれていく。
わたしの立っている場所から、手を伸ばしても、届かないくらい遠くへ。
「……やめてよ」
自分でも驚くくらい、弱い声が出た。
その瞬間、景色が、ぐにゃりと歪む。
合わせ鏡のように重なっていた廊下と階段が、一枚一枚、別の景色に切り替わる。
その中のひとつで、青見が振り返った。
こちらを見た――ように、思えた。
でも、その目は、わたしを通り抜けて、もっと遠くを見ている。
玲子が、その袖を引く。
“行こう”と口が動く。
青見は、ほんの少しだけ迷うような顔をしてから、玲子の方へ体を向けた。
わたしのいる方向とは、逆側へ。
扉の向こう側に歩いていく。
遠ざかっていく。
「なによ、それ」
喉の奥が熱くなった。
「なによ、それ……!」
手すりを掴む指先に、力が入る。
白くなるくらい、強く。
(未来なんて、勝手に決めないでよ)
頭のどこかで、冷静な声が囁く。
――これは見せられているだけだ、と。
――「知りたいもの」が映る鏡なら、「怖れているもの」もセットで映るに決まっている、と。
分かっている。
そんなことは、分かっている。
でも。
青見が自分の知らないところで、玲子と笑い合って、どこかへ行ってしまう未来。
それは、あまりにも、生々しくて。
さっきゲーセンで四人で笑っていた光景よりも、ずっと“ありそう”に見えてしまう。
「……やだ」
やっと出てきた言葉は、それだけだった。
合わせ鏡の奥で、扉が閉まる。
ぱたり、と音がして――景色が、すべて真っ暗に塗りつぶされた。
踊り場の窓には、今、わたし自身の顔しか映っていない。
青ざめた顔。ひきつった口元。
その目の奥に、まださっきの光景の残像が張り付いている。
背後から、足音がした。
コツ、コツ、とヒールの音。
階段を、ゆっくりと上がってくる。
「――来てくれて、うれしいわ。安達さん」
柳原郁代の声が、夜の校舎に溶けていく。
わたしは、まだ震えの残る手を、手すりから離せないまま、その声の方を振り向いた。