/*/ 失踪教室 /*/
柳原と数言、やりとりをした――はずだった。
なのに、いつの間にか、先生の姿はどこかに溶けてしまっていて、気づけばわたしは一人で廊下を歩いていた。
夜の学校は、さっきの昇降口よりさらに“別物”だった。
蛍光灯は半分以上消えていて、非常灯と月明かりだけが、かろうじて輪郭を与えている。
靴音が、やけに大きく響く。
(音楽室に……行けって話、だったよね)
そう自分に言い聞かせながら、二階の廊下を進む。
そのときだった。
――ぱ、と。
先の方の教室に、一瞬、明かりが灯った。
「……え?」
今、この時間に、電気なんてつくはずがない。
思わず足を止めて、そちらを見る。
廊下の奥。
閉じられたはずの教室の窓から、蛍光灯の白い光が漏れている。
影が動いた。
誰かが、中にいる。
(用務員さん……じゃないよね)
こんな時間に授業でもしているみたいな光の強さだ。
足が勝手にそちらへ向かっていた。
廊下を進むほどに、ざわざわとした声が聞こえてくる。
笑い声。話し声。椅子のきしむ音。
耳慣れた、授業前後の教室の騒がしさ。
(……こんな時間に、何の)
戸惑いながらも、教室の前までたどり着く。
ドアは半分だけ閉まっていて、その隙間から、明かりと声が漏れていた。
息を飲んで、そっと覗き込む。
そこには――“授業風景”があった。
机と椅子がきちんと並び、前には教師らしき人物が立っている。
生徒たちは、教科書を開いて、そこに何の疑問もない顔で座っている。
その顔ぶれを見て、心臓が一回転した。
(……全員、行方不明者)
見覚えのある名前と顔が、同じ空間にずらりと揃っている。
噂に聞いていた“七人”――だけじゃない。
もう一人。最近姿を見ていない、別のクラスの上級生まで混じっていて、合計八人。
そして。
その中央あたりの席に、見慣れた横顔があった。
「……青見?」
思わず、声が漏れそうになって、慌てて口を押さえる。
東青見。
彼は前を向いて、まるで“ここが自分の居場所”とでも言うように、普通に座っていた。
教壇の教師が、黒板に何かを書いている。
その姿は、奇妙にぼやけていて、輪郭が定まらない。男なのか女なのかも分からない。
ただ、教室全体が、妙に“静かすぎる”のだけは分かった。
全員、笑っていない。
口は動いているのに、楽しそうな気配が一つもない。
生徒同士で交わされているらしき視線が、どこか空虚で、死んだ魚みたいな目をしている。
(……やだ)
背中に冷たい汗が流れる。
その瞬間、教室の空気が、ふっと変わった。
何か、“ささいなこと”が起きたのだろう。
椅子が少し動いて、鉛筆が床に落ちて、誰かが笑いながら何かを言った――ような気配。
けれど、次に起きたことは、“ささい”なんて言葉から何光年も離れたものだった。
立ち上がる椅子の音。
机がひっくり返る音。
誰かの悲鳴。
「――ッ!?」
生徒の一人が、別の生徒に飛びかかっていた。
手に握っているのは、シャーペン。
それを、何のためらいもなく、相手の胸に突き立てる。
シャーペンなんて、文房具だ。
なのに、その先端から、噴水みたいに血が吹き出した。
別の机では、椅子が振り上げられている。
木製の椅子が、同じクラスメイトの頭上に振り下ろされ、鈍い音を立てた。
――ドスッ。
人の身体が打たれる音を、教科書で習うことはない。
だけど耳が、瞬時にそれを理解してしまう。
「やめ――」
喉から声が出る前に、次の暴力が繰り返された。
殴る。
刺す。
蹴る。
床に倒れた誰かの腹を、机の脚で何度も踏みつける。
笑い声と泣き声と悲鳴が、ひとつの音の塊になって、教室の中をぐちゃぐちゃに満たしていく。
その中央で、青見も――殴られていた。
背後から椅子をぶつけられ、机の角で脇腹を突かれ、誰かの手に握られたコンパスが、腕に突き立てられている。
「っ……!」
血の色と、床の白とのコントラストが目に焼きつく。
現実味がなさすぎて、逆にリアルだ。
「やめなさい!!」
気づいたら、教室のドアを開けて中に飛び込んでいた。
その瞬間――すべてが、止まった。
凍った、みたいに。
誰かの振り上げた腕も、床に叩きつけられる直前の椅子も。
血の飛沫も、その軌道の途中で宙に留まり。
そして。
ふ、と。
全員の姿が、霧のようにほどけて消えた。
血の跡も、倒れた机も、ひっくり返った椅子も、何一つ残っていない。
きちんと整えられた机と椅子、黒板、教壇。
ただの、空っぽの教室。
「……は?」
自分の声が、ひどく薄く聞こえる。
ただ一人だけ。
教室の中央に、うつ伏せに倒れている影があった。
「青見!」
足が勝手に動いていた。
駆け寄って、その肩を掴んでひっくり返す。
制服の胸元が、べったりと赤黒く染まっている。
「おい、ちょっと、しっかりしなさいよ!」
顔は真っ青で、唇が乾いていた。
でも、わたしの手首を掴む力だけは、妙に強い。
「……あ、彩女……?」
かすれた声で、名前を呼ばれる。
「今、救急車――」
「ダメだ」
掴まれた手首が、ぎゅっと強く締まった。
「間に合わない。ここからじゃ、もう……」
「何言ってんのよ。間に合わせるのよ」
怒鳴るように言ってしまう。
自分でも、必死なのが分かった。
「……ごめん」
青見は、笑おうとした。
けれど、うまく口角が上がらない。
「また、巻き込まれた……」
「巻き込まれてんのは、こっちもだから」
「そっか……そうだよ、な……」
指先から、力が抜けていくのが分かる。
「ちょっと、やめなさいよ。勝手に諦めないでよ」
「大丈夫だよ……」
彼は、どこか遠くを見るような目をしていた。
「なんか、聞こえるんだ……あの音が。……ほら、耳をすませば、さ」
「聞きたくない」
即座に否定する。
「わたしは、聞きたくない。あんな音」
「彩女は、そう言うと思った……だから、さ」
かすかに笑って、わたしの胸元に縋りつく。
「俺のこと、ちょっとだけ、忘れないでくれよ」
「“ちょっとだけ”って何よ。バカじゃないの」
喉が、痛い。
「勝手に死ぬな。勝手に消えるな。勝手にわたしの前から――」
言葉が、そこで途切れた。
何かが、ぱちん、と切れたような気がした。
腕の中の重さが、ふっと消える。
見下ろすと、そこには誰もいなかった。
さっきまでしがみついていたはずの青見が、跡形もない。
制服に染みた血も、ない。
ただ、わたしだけが、空っぽの教室の真ん中で膝をついていた。
「…………」
声が出なかった。
喉の奥が、凍りついたみたいに動かない。
耳の奥に、かすかな音がした。
――ポーン。
乾いた、ピアノの音。
どこかで、誰かが鍵盤を叩いている。
/*/ 怨念音叉 /*/
音の方角は、分かっていた。
音楽室だ。
階段を上って、三階の音楽室前まで来ると、扉の小窓から、確かに明かりが漏れている。
黒板に反射した光の揺らぎ。
ピアノの蓋が開いているシルエット。
ゆっくりと扉を開ける。
――誰も、いなかった。
グランドピアノが一台。
譜面台。
壁には楽典表。
いつもの音楽室。
ただひとつ違うのは。
誰もいないのに、ピアノが鳴っている。
鍵盤が、勝手に沈み、戻る。
そのたびに、澄んだ音が教室に響く。
曲は、妙に単調だった。
同じフレーズが、何度も何度も繰り返される。
まるで練習曲みたいに。
でも、その短いフレーズの終わりには、必ず同じ言葉が乗っていた。
『いつまで』
声にならない声が、音に重なって聞こえる。
――いつまで。
――いつまで。
――いつまで。
(やめろ)
頭の中で叫ぶ。
足元で、何かがきしんだ。
ギギ、と音を立てて動き出したのは、教室の隅に立っていた人体模型だった。
理科室の片隅にいるような、皮膚のない人型の標本。
それが、ぎこちない動きでこちらを向いた。
「……冗談でしょ」
思わず、笑えてくる。
人体模型が、一歩。
また一歩と近づいてくる。
歩くたびに、関節がきしむ音がする。
逃げようと、ドアに向かって走る。
扉は――開かない。
さっきの昇降口と同じ。
鍵はかかっていないのに、何か見えない力で押さえつけられているみたいに、びくともしない。
「ちょっと、ほんとに……!」
焦りで涙が出そうになる。
振り向くと、人体模型は、もう目の前まで来ていた。
その指先が、こちらに伸びてくる。
触れられる――と思った瞬間。
ピアノの音が、途切れた。
代わりに、音楽室に満ちたのは、ぽたぽた、と何かが滴る音。
冷たいものが、頬に落ちた。
「……え?」
指で触れると、ぬるりとした感触。
真っ赤な液体。
血だ。
顔に。髪に。制服に。
上から、雨みたいに降ってくる。
見上げる。
天井一面が、赤に染まっていた。
そこに――“磔”にされていた。
東青見が。
「――――ッ!!」
声にならない悲鳴が喉の中で爆発する。
天井の青見は、目を開けたまま、何も見ていない目でこちらを見下ろしていた。
腕を広げ、足を揃え、見えない釘で打ちつけられているみたいに、身動きひとつしない。
口だけが、動いた。
『いつまで』
血が、雨のように降り続ける。
『いつまで』
制服が、真っ赤に染まる。
視界の端で、人体模型が溶けていく。
ピアノの鍵盤が、血に濡れて黒く光る。
『いつまで、待たせるの?』
誰の声か、分からなかった。
青見の声にも、柳原の声にも、メロディ様の旋律にも、全部重なっているみたいで、判別がつかない。
足元が、ぐにゃりと揺れた。
床が血の海に変わっている。
膝まで浸かって、動けない。
逃げ場なんて、どこにもない。
「いや……」
やっと出てきた言葉は、それだけだった。
次の瞬間、世界が、ぱん、と音を立てて白く弾け飛んだ。
視界が裏返り、音が遠ざかる。
自分の身体が、どこにあるのか分からなくなる。
最後に見えたのは、天井の青見が――ほんの少しだけ、悲しそうに笑った顔だった。
そこで、意識が途切れた。