/*/ 囁く者の家 /*/
闇の底から、誰かが呼んでいた。
身体の感覚が戻るより先に、耳だけが浮かび上がる。
目は開いていない。開け方を忘れてしまったみたいに、まぶたは重く張りついている。
それでも、声だけは鮮明に聞こえた。
『――聞こえるかい、風の子』
柔らかい、けれど底の見えない声だった。
男とも女ともつかない。年齢もよく分からない。
囁くようでいて、耳元ではなく、胸の奥から響いてくる。
『ここは、囁く者の家。壊れた心が流れ着く、ちっぽけな避難所さ』
(……ここ、どこ)
喉は動かない。
声を出そうとしても、肺が空気の使い方を忘れている。
代わりに、その声が続けた。
『よく耐えたね、安達彩女。
血の雨も、磔の幻も、あれは全部――外から吹き込もうとする“風”の見せる虚ろだ』
外なる風。
その言葉に、どこかで聞いたはずの記憶が、かすかに疼く。
山奥の神話。夢の中の物語。
風を纏う一族の昔話の、そのまた奥の方。
『あなたは山の民の血を引く。風を従え、風に舞い、風と共に襲い来る、嵐の民。
本来なら、ああいう幻に惑わされる筋合いなんてないんだよ』
囁きは、まるで額に冷たい掌を当てられたみたいに、落ち着いた温度をしていた。
『あれはね、外なる風を呼び込もうとする邪なものの、ささやかな誘惑さ。
“見たいもの”と“怖れているもの”をごちゃ混ぜにして、心をひび割れさせようとする』
中原が消えた教室。
椅子と机で打ち据えられる青見。
血の雨の中で磔にされたまま笑う彼。
さっき見たばかりの光景が、鮮やかすぎる残像になって、意識の内側にこびりついている。
『惑わされるな。全部、幻だ。選ばなければ、触れなければ、本物にはならない。
まだ戻れる。まだ、“こちら側”に――』
(戻りたくない)
その言葉が、思考より先に、反射のように浮かんだ。
(だって、見た。聞いた。感じた。
あれが幻なら、本物の青見はどこにいるの。
玲子と一緒に、本の向こう? それとも、天井に打ちつけられて、血を流して――)
『違う』
囁きが、少しだけ強くなる。
『それは、風のない世界の見せる夢さ。
あなたが信じている彼は、そんな風に“ただ消えていく”だけの子じゃないだろう?』
(……知ったようなこと、言わないでよ)
喉は動かないのに、心の中だけは、荒れていく。
遠いところで、星がひとつ、瞬いた気がした。
――遠い星は、ただ信じることしかできない。
どれだけ手を伸ばしても、雲の向こうから見下ろすことしかできない。
届かない距離から、願うことしかできない。
『彩女』
囁きが、名前を呼ぶ。
その響きは、どこか懐かしかった。
深月返歌――そう名乗ったことのある声だと、ようやく思い出す。
『わたしの言葉を、忘れないで。
風はあなたの味方だ。
外から吹き込もうとする“風ならざるもの”と、本当の風を、決して取り違えてはならない』
はっきりとした忠告。
でも、その意味を、今の心は受け止めきれなかった。
(だって)
胸のどこかで、別の声が囁く。
(だって、あの時――青見は、わたしに「忘れないでくれ」って言った)
幻だと、頭では分かっていても。
腕の中で、かすれていく息遣いの感触だけは、妙にリアルで、消えてくれない。
『彩女』
深月返歌は、もう一度だけ呼びかけた。
『――外なる風に、心を売るな』
その忠告は、壊れかけた精神の壁に打ちつけられ、砕けて落ちた雨粒みたいに、どこかへしみ込んで消えた。
残ったのは、ひとつだけ。
風を従える異能。
嵐の民の血が、目を覚ます。
壊れた精神のまま、感情だけが剥き出しに、風の筋を捕まえてしまった。
囁きは、そこから先には届かない。
遠い月は、ただ、見ていることしかできなかった。
/*/ 七夕狂宴 /*/
気がつくと、屋上が見えていた。
ここがどこなのか、もう分からない。
ただ、目の前に広がる景色だけが、やけにはっきりしている。
夜の校舎。
中庭を囲むように建つ四角い建物。
その向こう側の屋上に、誰かが立っている。
東青見だった。
柵のそばに立って、こちらに向かって手を振っている。
おいでおいで、と。
まるで「こっち、こっち」と呼ぶみたいに、のんきな仕草で。
「……青見」
喉が、今度はちゃんと動いた。
声になって、空気を震わせる。
彼は確かにこちらを見ていた。
いつもの、少し呆れたような、でもちゃんと優しい目で。
『おいで』
言葉は聞こえないのに、動きで分かる。
ふらり、と足が前に出た。
ここは――どこだろう。
中庭の縁に立っている。
目の前には何もない空間が広がっているはずなのに、怖くない。
足元から吹き上げる風が、やけに頼もしく感じられる。
風の流れが、見えた。
見たこともないはずの“筋”が、夜の空気の中に何本も走っている。
それは縄梯子みたいに絡まり合って、向こう側の屋上まで繋がっていた。
(――ああ)
思うより先に、身体が理解する。
ここを、歩ける。
わたしは、風の子だから。
一歩、踏み出した。
何もないはずの空中に。
けれど、足裏には確かな抵抗があった。
風が、足場になっている。
踏みしめるたびに、空気がぎゅっと固まって、次の一歩を支えてくれる。
中庭の上。
宙に描かれた、見えない橋を渡るように、彩女は歩く。
夜風が髪を撫でる。
制服の裾が、ゆっくりと揺れる。
高い。
怖い。
でも、その全部を上回るくらい、目の前の屋上に立つ青見の姿しか、見えなかった。
(待っててよ)
心の中で呟く。
彼との距離が、少しずつ縮まっていく。
中庭の向こうまでの距離が、歩数に換算されていく。
その途中で、気づいた。
屋上の縁に、他にも人影がある。
八人。
V字を描くように並んで、真ん中だけぽっかりと空いていた。
行方不明になった八名の生徒たち――のはず、なのに、一人足りない。
Vの字の両端から、均等な間隔で立っている七人。
顔はよく見えない。
でも、その誰もが、こちらに背を向けて、空いた中央の一点を見つめていた。
Vの字の頂点だけが、ぽっかりと開いている。
さっきまで、そこに青見が立っていた。
……はずだった。
瞬きをした瞬間、彼の姿が消えていた。
「え?」
足が止まる。
風が、きしむ。
足場がぐらりと揺れた。
屋上の中央。
さっきまで彼がいた場所には、空っぽの空間しかない。
代わりに、わたしの上――夜空のどこかから、ひとつの旋律が降ってきた。
メロディ様。
あの音だ。
頭の中に、直接流れ込んでくる。
合わせ鏡の中で見た未来でも、血の雨の中でも、何度も聞かされた短い音階。
上がって、下がって、捻じれて、落ちる。
V字の頂点。
空いたその場所。
(そうだ)
ひどく自然に、その考えが浮かぶ。
(あそこに立って、メロディ様を――“正しく”唱えれば)
“それ”を、ここに呼べる。
外なる風かもしれない。
扉の向こうの、何か得体の知れないものかもしれない。
でも。
(“それ”を召喚すれば――青見は、返ってくる)
中原が言っていた。
『この音だったんだ。これで、こんな学校から離れられる……』
離れる先を、逆方向にすればいい。
向こうから連れてくる側にすればいい。
(だったら――)
わたしは、その頂点に立とう。
自分の心が壊れていることくらい、分かっていた。
深月返歌の忠告も、どこかで覚えている。
風の異能が、今まさに外なる何かと繋がりかけていることも――本当は分かっている。
それでも。
それでも。
「青見を返してよ」
誰に向かって言っているのか分からない言葉を、夜空に投げつける。
風が、ざわりと鳴いた。
見えない橋が、まだ崩れていないことを告げるように。
屋上の縁まで、あと数歩。
V字の頂点は、静かに彩女を待っていた。