/*/ 運命来訪・青見 /*/
スマホが震えたのは、ちょうどベッドにひっくり返って天井を眺めていた時だった。
画面に浮かんだ名前を見て、青見は一瞬、息を止める。
――伊集院貴也。
逢瀬学園の理事長。
そして、両親を亡くした自分の後見人として、書類にも日常にも名前が載り続けてきた大人。
(……マジかよ、この時間に理事長からって)
時刻は二十三時四十……分針が、もうすぐ真上にかかりそうなところ。
着信を切るか一瞬迷うが、二度目のバイブがひときわ強く震えた。
嫌な予感だけが、先に胸の奥で形になっていく。
青見は、ため息をひとつ飲み込んでから、通話ボタンをスワイプした。
「もしもし……東です」
『ああ、よかった。起きていたね』
受話口から聞こえてきたのは、あの落ち着いた、どこか眠そうな男の声だった。
書類の中の“保護者”ではなく、何度か夕食の席を一緒に囲んだことのある、少し不器用な“大人”の声。
『遅い時間にすまない。驚かせてしまっただろう?』
「まあ……そうですね。こんな時間に理事長から電話って、テストの点数でもバレたのかと思いましたよ」
半分冗談のつもりで言ったが、声は自分で思っていたよりこわばっていた。
伊集院は、小さく苦笑する。
『そういう用件なら、もう少し人道的な時間に電話するさ』
そこで、ほんの少しだけ、間を置いた。
『行かなくていいのかい、青見くん』
「……行くって、どこへですか」
ベッドから上体を起こす。
胸の奥で、嫌な鼓動がゆっくりと早くなっていく。
『学校だよ。逢瀬学園』
伊集院は、あくまで穏やかな口調のまま続ける。
『彩女くんは――もう出て行ってしまったようだ』
ガタッ。
椅子を蹴るみたいな音を立てて、青見は立ち上がっていた。
「……どういう意味ですか」
部屋の窓へ駆け寄り、カーテンを乱暴にかき分ける。
隣家――安達家の二階の窓。
暗い。
ついさっきまで、勉強机のスタンドの光が見えていたはずの窓が、今は真っ黒だった。
カーテンもきっちり閉まっている。
(……寝てるだけ、ってこともあるだろ)
そう思い込もうとするのに、「出て行ってしまった」という言葉が頭の中で反響して消えない。
「理事長……どういう“見方”したら、そんなこと分かるんですか」
できるだけ冷静な声を装ったつもりだったが、無理だった。
伊集院は、少しだけ息を吐いてから答える。
『君の後見人でもある大人としては、“たまたま”であってほしいと願いたいところなんだけどね』
そこで、声色がわずかに変わった。
『だが、残念ながら――あの子は、招待状を受け取ってしまった』
招待状。
数日前から、何度も耳にした言葉。
メロディ様。
消えた中原。
音楽室。
「……オレには、来てませんけど」
分かっていながら、つい口に出してしまう。
『届いているさ。君にも』
伊集院は、あくまで静かに言う。
『ただ、気づかないふりをしてくれていただけだろう? ――それはそれで、とても人間らしい反応だけどね』
図星を刺されたみたいに、言葉が詰まる。
音楽室で聞いた異様な旋律。
耳の奥に残ったざわつきを、聞かなかったことにして、ゲーセンやスパの予定で上書きしようとした自分。
スマホを握る指に、知らないうちに力が入っていた。
「……彩女は、今どこにいるんですか」
『さあ。もう校舎の中かもしれないし、まだ昇降口の前かもしれない』
伊集院は、慎重に言葉を選ぶ。
『ただ一つ、理事長として、そして君の保護者として言えるのは――零時を過ぎると、あそこは“学校”というより、別のものになる、ということだ』
「別の、もの」
『ああ。大人が作った校則や、僕が保険会社と結んだ契約より、もっと古くて縛りの強いルールが優先される場所にね』
「ふざけてる場合じゃないですよ」
思わず声が荒くなる。
家に今は自分しかいないのに、つい声量を落とす癖が出た。
「理事長なら、止められるでしょ。鍵、全部管理してるんじゃないんですか」
『鍵は、ね』
伊集院は、かすかに自嘲するように笑った。
『でも、あいにく僕が持っているのは、“大人のための鍵”だけなんだ。
――あそこを本当に開け閉めしている鍵は、今、子供たちの手の中にある』
その言い方が、普段の職員会議での彼の声と違いすぎて、余計に背筋が冷える。
『僕みたいな大人には、もう招待状は届かない。入ろうとしても、ガラス一枚越しの傍観者にしかなれないんだよ』
「だったら……」
自分で分かっていて、その先を口にする。
「“同じ側”に立ってるオレだけが、彩女を追いかけられるってことですか」
『話が早いのは、君の長所だね』
伊集院の声に、かすかな苦味と誇らしさが混じる。
『理事長としては、こんな時間に生徒に“学校へ行け”とは言えない。
保護者としても、君の安全を第一に考えるべきなんだろう』
一拍置いて。
『――それでも、ひとりの大人として、君に事実を伝えないで黙っているのは、もっと卑怯だと思った』
その言葉が、妙に重たく胸に落ちる。
「場所は……“そこ”で合ってるんですね」
『逢瀬学園。昇降口からしか入れない。扉が“本気を出す”のは零時ちょうどだ』
伊集院は、事務的な説明をするような声で続けた。
『零時ちょうどに、内側から鍵が閉まる。
それ以降に着いた人間は、どれだけドアを叩いても、声も音も、もう中には届かない』
「……最初から、大人は入れないってわけですか」
『そういうことだ。
だから――』
「もう、十分です」
青見は、その先の言葉を遮った。
これ以上、怖くなる材料は要らなかった。
「間に合えばいいんですよね」
短く、噛みしめるように言う。
伊集院は、少しだけ沈黙してから、穏やかに答えた。
『君が“間に合わせたい”と思うなら、ね』
その声には、理事長としての距離感と、保護者としての祈りの両方が、無理やり押し込められていた。
『東。これは、君自身の選択だ。
布団をかぶって朝を待つことを、僕は責めない。
でも――君が彼女の名前を呼ぶ顔を、僕は何度も見てきた』
胸が、ズキッと痛む。
「理事長」
『ああ』
「……悪いですけど」
それ以上は、言葉にならなかった。
伊集院は、すべて察したように、小さく笑う。
『分かっている。もう一度だけ言うよ――無茶はするな』
「はい」
返事をした瞬間、通話がプツリと切れた。
静まり返った部屋の中で、スマホの画面だけが白く光っている。
時刻表示は、二十三時四十七分。
(……間に合え、かよ)
自分で言ったくせに、その言葉がやけに遠く感じた。
それでも、次の瞬間には、身体が勝手に動いている。
クローゼットからジャージの上着を引っ張り出し、裸足のまま階段を駆け下りる。
伊集院から預けられた“緊急連絡用”のカードキーが、机の上に置きっぱなしなのを思い出し、一瞬だけ手が伸びかけたが――やめた。
(これは“学校”のドアじゃない。理事長の鍵じゃ、たぶん意味がない)
玄関のラックからスニーカーをつかみ取り、そのままドアを開けて外に出る。
冷たい夜気が、一気に肺へ流れ込む。
街灯のオレンジ色が濡れたアスファルトを照らし、遠くの国道の低い唸りだけが響いている。
靴ひもを結ぶのももどかしく、足を突っ込むだけで走り出す。
逢瀬学園までは、自転車なら十分、走って十五分。
今から全力で飛ばして、間に合うかどうか。
それでも――
(間に合え)
それだけを、歯を食いしばって繰り返す。
夜の住宅街を切り裂くように、青見は駆け出した。
暗い交差点も、人気のない公園も、すべて視界の端に押しやって。
逢瀬学園の校舎が見える、その瞬間まで。