闇を呼ぶメロディ
/*/ 屋上・メロディ様の合唱 /*/
気がつけば、足元の風の橋は、もう屋上の縁にまで届いていた。
最後の一歩を踏み出すと、固かった空気がほどけて、普通のコンクリートの感触が足裏に戻ってくる。
夜風が、金網のフェンスを鳴らしていた。
そこは、見慣れたはずの屋上だった。
……のに。
世界の形が、歪んでいた。
中庭側を向いて、八人の生徒がVの字に並んでいる。
フェンスを背にして、外側に開いたその陣形は、まるで何か巨大なものを迎える祭壇のように見えた。
全員が、行方不明になった生徒たちだった。
中原洋平。
名前しか知らない上級生たち。
制服のまま、肩を微かに揺らして――口を動かしていた。
歌っている。
メロディ様を。
その声は、風にのって彩女の耳に届いた。
最初に聞いたあの短い旋律よりも、ずっと澄んでいて、正確で、ねっとりと絡みつく。
上がって、下がって、捻じれて、落ちる。
八つの声が、ぴたりと揃っていた。
(やめ――)
頭のどこかで、ブレーキがきしむ。
けれど、その制動力はあまりにも弱々しかった。
屋上の中央――Vの字が描く三角形の中心に、柳原郁代が立っていた。
白い、ゆったりとしたワンピース。
いつも巻き上げている長い髪は下ろされて、夜風に揺れている。
眼鏡もしていない。
学校で見る「音楽教師」の仮面が、きれいさっぱり剥がれた、本来の姿。
その手には、一冊の本があった。
表紙には、ひらがなの「は」の一文字。
あの本だ、とすぐに分かった。
(いつの間に……誰が返したのよ)
中原と消えたあの本が、いつの間にか柳原の手に戻っている。
本が持ち主を選ぶなら、きっと今の持ち主は彼女なのだろう。
柳原の表情は、陶酔したように安らかだった。
まぶたを半分だけ閉じて、楽しげに口元をほころばせている。
片手には本。もう片方の手で、まるで指揮者のように空気をなぞっていた。
八人の声を、メトロノームの代わりに、彼女の手が導いている。
――その中で。
「……中原」
ふと、彩女と目が合った。
V字の一画に立つ中原洋平が、ほんの僅かに肩を震わせた。
他の七人は、完全にトランス状態だった。
目は焦点を失い、ただ前を見て、機械のように声を重ねている。
外の世界なんて、欠片も映っていない。
けれど、中原だけは違った。
声は他の七人と同じリズムで、同じ音階をなぞりながら――その目だけが、彩女を見つめていた。
助けを求めているようでもあり。
止めてほしいと訴えているようでもあり。
自分自身を責めているようでもある、複雑な目。
「……っ」
胸がちくりと刺された。
そのとき、柳原が本から視線をあげた。
彩女を見つける。
そして、嬉しそうに笑った。
「これで――九人、揃ったわ」
屋上に響く声は、よく通ったアルトだった。
授業中の柔らかい喋り口調とは違う、骨の芯に響く強さを帯びている。
「巨大なモノリスに、九つの歌声が揃えば」
柳原は、さらりと言った。
モノリス――その言葉に、彩女は顔を上げる。
屋上の片隅。
いつの間にか、そこには“何か”が立っていた。
コンクリートの床から、垂直に突き出した、黒い直方体。
エアコン室外機ほどの高さしかないのに、存在感だけは校舎よりも重く、巨大なもの。
光を吸い込み、夜の闇よりも黒い。
見ていると、目の焦点が合わなくなる。
(あれが――)
「アレが、私たちを“永遠の園”へ連れていってくれる」
柳原は、モノリスを一瞥してから、再び彩女を見た。
「さあ――安達さん」
彼女は、大きく両手を広げた。
まるで舞台に立つヒロインを迎え入れるみたいに。
「こっちへ来て。
あなたも、歌って。あのメロディーを」
八人の声が、足元から脳へと染み込んでくる。
耳を塞いでも無駄だと、本能で分かった。
メロディ様の虜になった心には、もう、他の音が入り込む隙間はない。
――来て。
屋上の風が、囁いた気がした。
――歌って。
モノリスの内側から、微かに震える声がした。
――そうすれば。
壊れた精神の隙間に、「願い」が刺さり込んでいく。
(青見が、返ってくる)
わたしが、ここで歌えば。
正しい音階で、最後まで歌い切れば。
扉が開く。
向こう側と、こっち側が繋がる。
中原が言っていた“こんな学校から離れられる”扉を――逆に、誰かを連れ戻すために使えばいい。
(それでいい。
それで、全部チャラにしてやる)
自分でも何を言っているのか分からない。
ただ、そんな風に思い込まないと、立っていられなかった。
Vの字の頂点だけが、ぽっかりと空いている。
そこに、自分が立つべきだと、身体の方が理解している。
一歩。
二歩。
風が、背中を押した。
中原が、ほんの僅かに首を振った気がした。
“行くな”と、目だけで訴えている。
けれど、その視線は、音の波にあっさりと飲み込まれる。
彩女は、Vの字の頂点に立った。
八つの声が耳を刺す。
すべてが、ぴたりと揃って止んだ。
柳原が、白いワンピースの裾をひるがえしながら、本を胸元に抱きしめる。
その目は、星空を見上げていた。
「――さあ」
低く、深く、世界に命令するような声。
「歌って。あのメロディーを」
八人が、一斉に息を吸う気配がした。
彩女自身も、肺の奥まで冷たい空気を取り込んでいる。
喉が震える。
メロディ様が――出てこようとしていた。
上がって。
下がって。
捻じれて。
落ちる。
最初の一音が、唇の裏側に乗りかけた、そのとき。
空が、歪んだ。
星々が、まるで大きな窪みに吸い込まれていくように、中央に向かって滑り出す。
視界全体が、凹レンズで覗いたみたいに、ぐにゃりと曲がる。
夜空よりも暗い穴が、ぽっかりと開いた。
その中心に。
赤い星が、一つ。
……アルデバラン。
教科書で見た星座表の中にあった、その名前が、なぜか頭に浮かぶ。
赤く、不吉で、脈打つように瞬いている。
足元のコンクリートが震えた。
モノリスが、低く鳴る。
八人の喉が、無意識に音を紡ぎ始める。
彩女の口も、動いた。
メロディ様が、九つ目の声で、夜空に解き放たれようとしていた。