/*/ 赤い星の夜 /*/
わたしの声が、八人の合唱に重なった瞬間だった。
暗い星空に、レンズのような影が浮かぶ。
まるで凹レンズの視覚トリック。
虚空が円を描いて歪み、夜空よりもなお暗い「穴」がぽっかりと開く。
その中心に、赤い星。
――あかく、あかく、禍々しいほどに神々しい赤い星。
吸い込まれそうな赤光に照らされながら、わたしはV字の頂点へと歩み出る。
虚空の穴の奥から、竜巻のような触手が生え出した。
メロディ様に似た、けれどどこか歪んだ音が響く。
不安と恐怖をかき立てる風鳴りが、毒々しい赤い星から押し寄せてくる。
(……神鳴り?)
ぞわりと肌が粟立つ。
そのとき――
『ああ、はやく彩女を止めなくちゃ』
頭の中に、声が響いた。
振り返る。
だって、それは、青見の声だった。
「止めろ? どうして?」
胸の奥から、別の言葉が浮かんでくる。
自分の声なのに、自分のものじゃないみたいに滑らかに。
「これは、あなたが望んだことでしょう?
あなたのために――わたしは唄うの」
『オレが望んだ? こんなことを?
復讐? そんなもの、オレは望まない。
オレの望みは、ひとつだけだ。
――みんなと、平穏な日常を送りたい』
「わたしも、あなたと生きていきたい。
だから壊すの。
邪魔だから」
『オレも、みんなと生きていきたい。
だから――守るよ。
大切だから』
風が吹いた。
/*/ 風の刃 /*/
血が、溢れた。
まるで見えない刃で切りつけられたみたいに、青見の身体から血が噴き出す。
(風の刃……真空の斬撃、かまいたち)
名前なんて、どっちでもいい。
結果はひとつだ。
最初の一撃が彼の身体を切り裂き、赤が夜に滲む。
けれど――
二発目からの刃は、一度も彼を掠らなかった。
『あぁ、だめだめ。そんなに大きく動いたら、撃ち出す前に避けられるよ』
数える。
1。
2。
3。
三つの風刃が放たれ、それを彼は、ギリギリの間合いで避けていく。
すれ違った刃が背後で旋回し、左肩、背中、右脚のあたりにちりちりと嫌な気配を残す。
そして、四つ目。
真正面から襲いかかるそれを、彼は迎え撃とうとしていた。
(追い詰められた?)
――まだだ。
右手の警棒を地面に突き立てるように振り下ろし、不可視の刃を打ち払う。
その勢いを軸に倒立、前転、そして軽やかに着地。
背後で、的を失った風刃が空間を切り裂いて消えた。
顔を上げると――目の前には、腕を振りかぶったわたしがいた。
いつの間に近づいたのか。
手刀と特殊警棒がぶつかり合う。
赤く、青く、火花が散った。
(――綺麗だな)
青見の視界にも、わたしの姿は美しく映っていた。
血飛沫と火花に照らされるわたし。
覚醒した力に目を曇らせて、笑っている。
(綺麗だから――彩女といられる場所を守りたい。
この世界に、在って欲しい)
「綺麗……」
逆に、わたしには、青見がそう見えた。
一片の火花に照らされた横顔は、曇りのない日本刀みたい。
いつも鞘の中に収まっている刃が、今だけわたしのために抜かれたみたいで。
「だから、殺すわ」
自然に、そんな言葉が口をつく。
「嬉しいから」
打ち合う手刀と警棒。
押し合えば――わたしの方が強い。
覚醒遺伝したわたしの身体は、拳二つ分は大きくなった青見を、何十キロか重いその体重ごと、たやすく吹き飛ばす。
驚きに目を見開きながらも、彼は空中で回転し、綺麗に着地した。
「アンタも体操部に入ったら?」
くすくす笑いながら、わたしは手を掲げる。
寒々しい、鋭い光が屋上に広がった。
切りつけるような閃光に目を焼かれ、青見は頭を振って視界を取り戻そうともがく。
見えなくても、彼には何かが“分かって”いるらしい。
だから――わたしは右へ左へ、踊るようにステップを踏んで近づいていく。
(好きな人と、夜の屋上でダンス。
――素敵、よね?)
鋭い手刀が閃くたびに、彼の身体から真っ赤な血が噴き出す。
打ち合わされる手刀と鋼が、赤く、青く火花を散らす中、わたしたちは命すり減らすダンスを踊り続けた。
『止めろ? どうして?
これはダンス。大好きな人と踊り狂うダンス――』
心配はいらない、と本気で思っていた。
全部を殺して、わたしとあなたがいられる世界へ逝くだけ。
「さぁ、風よ、吹け。
わたしとあなたを、あの赤い星へ」
/*/ 赤い星へと向かう風 /*/
絡み合う鋼と鋼。
咲き狂う火花は、心の欠片。
(オレもアイツも、願うことは同じなのに。
どうして命を削り合わなきゃいけないんだ)
それが人の「心的水準」なのか。
争いで己の証を刻むのが、人なのか。
流れる血。
外気に触れて悲鳴を上げる肉。
痛い。
けれど、痛くない。
届かない想いに打ちのめされる心に比べたら、こんなもの――。
風が吹く。
オレとアイツを赤い星へ運ぶ風。
渦を巻いて竜巻となり、傷口から血を吸い上げてゆく。
真紅の渦。
眩暈がするのは、血が足りないからだ。
それでも、オレは歩く。
アイツに向かって――歩く。
疲れても、痛くても、届けたい想いがある。
(オレが日常に拒絶される?
あぁ、その通りだよ)
でも、突き放し、眺めているだけじゃ見えないものがある。
拒絶じゃなく、孤独の痛みの中で目を凝らせば――確かに見えるものがある。
閉じた闇に、夜明けを告げてくれた人がいた。
誰もが拒絶する中で、声をかけてくれた人がいた。
炎の中に飛び込んで、オレを叱り飛ばしてくれた人がいた。
全部が全部そうじゃない。
割合にしたら、ほんの少し。
それでも。
彼らは、自分だけ楽をしようなんて考えてない。
傷つきながら、苦痛に耐えながら、孤独に震えながら、
もうどうしようもないって半分理解っていてさえ、
身近なところから始めて、自分の力の及ぶ限り、
大切な人を――見知らぬ誰かにさえ、手を差し伸べようとしている。
だから。
拒絶されても、それでもオレは信じる。
あの優しさに応えたいから。
オレもそうありたいと、心が叫ぶから。
何よりも――
(君が、その一人だから)
この言葉が届かないなら、
この足で踏みしめて歩くだけ。
ぐらぐら揺れる視界の中、彩女が腕を引き絞り、腰だめに構えるのが見えた。
一息に、オレを貫く構え。
迎え入れるように両手を開いて、オレは歩く。
(君が世界を信じられないなら――
オレが君に、証明しよう)
世界は、信じるに値するってことを。
歩くオレと、駆けるアイツ。
吹き付ける風の中、真紅の光の中、オレたちの影が重なり合い――ひとつになった。
熱い鮮血が気管に流れ込む。
むせ返る血の匂い。
唇から、一筋の血。
……まだ倒れない。
まだ、終われない。
震える手を伸ばし、彩女の髪に触れる。
「……また……カラオケ行こうって……約束……したよな……
今度は……新曲……を……って……
だから……さ……止めろよ……こんな……こと……」
力が抜けていく。
髪を撫でる腕が、落ちる。
痙攣する気管をもう抑えきれず、こぷ、と鮮血がこみ上げ、吐き出された。
/*/ 崩壊と慟哭 /*/
あかい。紅い。
わたしたちを照らす赤い星よりもなお赤く、視界が染まる。
ぬるりと、握る手が滑った。
抱きしめてくれていた青見の腕から、力が抜ける。
崩れ落ちる身体。
腹部を貫通していた腕が抜けると、どこにそんな血が残っていたのかと驚くほどの鮮血が溢れ出た。
全身に刻まれた深い刀傷。
わたしのかまいたちが刻んだ傷。
それだけじゃない。大小様々な傷、傷、傷。
(……これで、生きているはずがない)
死んでいる?
誰が?
――わたしが?
どうして?
どうして、青見を?
他の誰でもなく、わたしが――殺してしまった?
「あ、あ、あ、あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
魂を裂く悲鳴。
わたしの悲鳴。
わたしは、わたしはアイツといたかっただけなのに。
アイツといたかっただけなのに。
どうして、どうしてこんなことに。
慟哭と共に、風が嵐へ変わる。
嵐を突き抜けて、あのメロディが聞こえてくる。
メロディ様が囁く。
――唄え。
――その先に、わたしと“アイツ”がいられる場所がある。
微かな息づかいが聞こえた。
青見の胸が、ほんの少しだけ上下している。
(生きてる……!?
まだ、生きてるの!?)
抱き起こすと、青見は薄く目を開けた。
もう決して見ることはないと思っていた目。
もう開かれるはずがないと思っていた口。
その奥から、もう聞けないと思っていた声が漏れる。
「……良かっ……た……正気に……戻った……んだ……」
「……う……ん……うん……ごめん……ごめんね……」
「……良……いんだ……オ……レ……好きで……やっ……た……事……
それより……はや……く……逃げ……て……ここは……あ……ぶない……」
「……嫌」
「……わ……がまま……言わな……いで……」
「わたしは……あなたといたい。
あなたのいない世界で、生きていきたくない。
あなたのいない百年と、あなたと一緒の一分なら――わたしは迷わない。
バカでもいい。
わたしは絶対、後悔しない。
誰にでも胸を張って、『わたしは幸せだった』って言うよ。
……ごめんね……せっかく……助けてくれたのに……ね」
/*/ 夜明けの歌 /*/
(同じ、なのか)
彩女がいてくれたから、オレはここで生きていられた。
彩女も、そうだったのか。
我が身を犠牲にしてでも、それでも足りないと思うほど誰かを想っている。
大切な人に、生きていてほしいなら――
オレも、生きなきゃいけない。
助けたかったのに。
助けたかったのに、このままじゃ彩女は「満足して死」を受け入れてしまう。
嫌だ。
それは嫌だ。
彩女が死ぬのは、絶対に嫌だ。
(父さん)
あなたは、自分を犠牲にしてでも助けたい人がいることを、教えてくれた。
置いていかれた者が、怒りと失意で生きる意志を失うことも、教えてくれた。
(父さん、母さん。
オレに力を貸してください)
死ぬのは怖い。
でも、オレの生き死になんて、どうでもいい。
(こいつを、泣かせたくない)
――こいつを、泣かせたくない。
僅かな動きだったけど、彩女を驚かせるには十分だった。
震える手が、警棒を掴む。
震える首に、まだ力が宿る。
裂けた腹筋をきしませながら、青見はじりじりと上体を起こしていく。
「!? 動……ける……の!?」
こんな血の量。
こんな穴。
本能が叫んでいる。
余命なんて、もうほとんど残ってない。
それなのに、彼は立ち上がる。
「……だめ! 動かないで!!」
制止に応えたのは、優しくて――なお諦めていない「漢」の顔。
わたしの知らない、青見の顔だった。
「……ま……だ……死……ね……ない……」
「……だって……」
「……あき……ら……め……ない……」
震える膝で、アイツは立ち上がる。
腹の穴から零れ落ちそうな内臓を手で押さえながら。
その視線を、八人のV字の向こう――
指揮を取る柳原先生と、「は」の本へと向けた。
歌が、聴こえた。
静かで、けれど優しく、力強い歌。
どうしようもないほど血が沸き立ち、活力が漲るような声でありながら、
遠慮がちに袖をつまんでくるような、矛盾した響き。
それは――青見の歌。
右手に握られた警棒が震え、その震えが澄んだ音を奏でだす。
リィン。
警棒から黒い炎が燃え上がる。
黒いくせに、確かに燃え盛る赤い炎。
それが一メートルほどの刀身となり、刀のように姿を変えた。
リィン。
どこかの誰かの囁く声が重なる。
誰かが、一緒に歌っている。
――いつか、朝が来るよ、と。
わたしも、そっと口ずさんでみた。
それは苦しみと哀しみに満たされたメロディ。
あの「確かな喜び」を約束するメロディ様とは似ても似つかない。
純粋な優しさと哀しみ。
すでに大きな痛みを背負いながら、なお他人のそれを引き受ける優しさ。
傷つくことで自分を確かめる、そんな寂しさ。
――それでも、曇らない瞳。
苦しみも哀しみも飲み干した、その奥に燃える熱い想い。
リィン。
刀が黒く、黒く、黒曜石のように澄んだ闇色に染まっていく。
リィン。
朝が来るかなんて、誰にも分からない。
それでも「いつか朝が来るよ」と歌う声がある。
刀身が青く、青く、夜空のような深い青に染まる。
リィィン。
心が震え、涙が零れた。
刀に、星のような金色の光が瞬く。
多くの声が聞こえる。
世界を越えた声。
時代すら越えた声。
――それらが、歌っている。
我等は信じる為に生まれてきた。
我等は愛する為に生まれてきた。
我等は決して一人では無い。
最も近く遠い友よ。
唯一にして絶対の友情は、どこでもない「ここ」にある。
希望をくれた友に、我等は力を贈り、沈黙をもって務めを果たそう。
我等の力を受け取られよ。
それは貴方の力でもある。
――あの歌を虚構になどしたくないと叫ぶ心は、
時代も、距離も、世界すらも越えて、「ここ」にある。
この唇から零れる歌を、どうして知っているのか分からない。
ただ、自分の内側にある「自分以上の自分」が、この歌を歌い始めたのだけは分かった。
孤独と哀しみの海から、それは生まれ出る。
地に希望を、天に夢を取り戻すため、生まれ出る。
闇を払う銀の剣を持つ少年。
――それは、子どもの頃に聞いた物語。
誰もが笑う、おとぎ話。
夜明けのような青金の光に照らされながら、青見は一歩を踏み出した。
ありえない奇跡。
さもあるように語られる、ありえないお伽話。
でも、わたしは信じられる。
あなたの横顔を見ているから。
でも私は笑わない。
私は信じられる――貴方の横顔を見ているから。
/*/ 本を焼く歌 /*/
柳原先生の手にある「は」の本が、赤く輝き出した。
先生は誰かと口論しているように自分自身と言い争い、それから、なにかに弾き飛ばされた人形みたいに倒れ込んだ。
本だけが、見えない誰かに支えられているみたいに、空中に浮かぶ。
ページが勝手に捲られ、開かれた紙面から鋭いワイヤーのような触手が無数に伸び、青見に襲いかかる。
――その前に、わたしは駆け出していた。
腕を振るい、触手を絡め取る。
なおも襲い掛かる無数の触手を、風で吹き飛ばす。
屋上に響く歌が、一人、また一人と増えていく。
さっきまでメロディ様の詠唱に加わっていた生徒たちが、こちらの歌を口ずさみ始めていた。
はるかなる未来への階段を駆け上がる――
貴方の瞳を信じている。
青見は一歩、一歩、本へ向かって進む。
貴方の作る未来が見える。
私はこの手を差し出そう。
わたしも腕を振り、風を従え、彼の背中を守る。
貴方の差し出す手を取って
私も一緒に駆け上がろう。
幾千万の私と貴方で、あの運命に打ち克とう。
赤い光に跳ね飛ばされ、力無く横たわる柳原先生が、最後の力を振り絞って手を伸ばした。
その手には、愛用のオイルライター。
「皆を……彼女を助けたいなら……これで……あの本を……焼いて……」
途切れ途切れの言葉に、青見は静かに頷き、その手からライターを受け取る。
誰かの合唱に、また一人、また一人と生徒が加わっていく。
そう――未来はいつだって、このマーチと共にある。
「なんだ、その歌は!? なぜ、この者たちは詠唱を続けん!
魂までも虜になっていたはずだ!
その歌はなんだ!? 貴様は何者だ!?」
本から、知らない男の声が吼えた。
狼狽し、取り乱した声が、滑稽なほど震えている。
誰だって、本当は「人」を信じていたい。
信じさせてくれる歌があるなら――どうして、人ならざるものを選ぶだろう。
誰もが今、一人じゃない。
いつ、どこにあろうとも、共に歌う仲間がいる。
意志ある鞭のように、無数の触手が青見に襲いかかる。
包み込むように、磨り潰すように迫るそれに、彼は臆さず手を伸ばした。
一本をしっかりと掴み、残った手でライターに火を点ける。
死すらも越えるマーチを歌おう。
時をも越えるマーチを歌おう。
触手の先に灯った小さな炎。
それは舐めるように、駆けるように、触手を燃え伝わり――
「やめ、やめ――GAAAAAAAAAAAAAA!!」
悲鳴に構わず、本体を一気に炎で包み込んだ。
世界も越えるマーチを歌おう。
その場にいる全員の唱和が、晩秋の星空に響く。
本は灰となり、メロディ様を唱える者はもう誰もいない。
人外のメロディではなく、人の心が生み出した歌の、最後の一音節が空へ溶けていく。
星空のレンズが、現れたときと同じように歪み、消えた。
――終わった。
これで、日常に戻れる。
そう思った瞬間、
目覚めた力を使いすぎたのか、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
視界が暗くなっていく。
わたしの意識は、急速に眠りへと落ちていった。