腸を風雨にさらしながら、それでも立ち上がった東青見を見た瞬間――柳原郁代の中で、がらがらと音を立てて何かが崩れ落ちた。
あり得ない光景だった。
立てるはずがない。動けるはずがない。
それでも少年は立ち上がり、腹を押さえ、なお前へ進もうとしている。
己の無力を嘆き、悔やみ。
世界を憎み、自分を憎み、何もかも投げ出してしまいたくなるほどの絶望の中で――
それでもなお傷つくことを厭わず、なおも「守ろう」と足掻いている少年の姿。
それは、あの年代の若者だけが持ち得る、あまりにもまっすぐな純粋さだったのかもしれない。
――自分は、何をしていたのだろう。
柳原は思う。
自分の思い通りにならないからと、理想が現実に裏切られたからと、世界に背を向けた。
聞き分けのない子供のように、目を閉じ、耳を塞いできた。
それに比べて、この少年はどうだろう。
現実に打ちのめされても、なお理想を信じている。
人は信じるに価すると信じ、それが叶わない夢ならば、自らそうなることで他人の理想を叶えようとしている。
――不可能だと知ることと、諦めないことは、矛盾ではないのだ。
胸の奥で、何かがじわりと熱を帯びる。
私も、信じたい。
野卑で野蛮な生徒?
かつて自分がそう呼び、見下していた子どもたち。
だが、今目の前にいるのはどうだ。
互いを思いやり、その身を投げ出し、自分たちの運命に抗って戦う少年少女。
その姿と比べれば、卑小で野蛮だったのは、自分の方ではないのか。
恥ずかしくてたまらなかった。
彼らの在り様に比べて、自分はなんと矮小な存在なのだろう。
――この手が彼らに届かなくても。
それでも、私には私に出来ることがある。
私も信じたい。
世界は信じるに価する、と。
希望は、どれほど絶望の中にあっても朽ちることはない、と。
私も、それを証明してやりたい。
意識の奥底で囁き続けていた「は」の本から、自分の心を力づくで引きはがす。
べりべりと音を立てて剥がれていく寄生精神は、言語に絶する痛みと喪失感をもたらした。
だが、それはもう問題ではなかった。
――自分にも出来ることがある。
自分には、やらなければならないことがある。
「……あの子たちを殺せ、ですって?」
頭の内側で響く囁きに、柳原ははっきりと嘲笑を返した。
「私は教師です。生徒たちを傷つけることなんて、しません」
『何を言っている。
あやつらは、おまえたちの望みを邪魔する連中だぞ。
それに、おまえは粗野で愚かな生徒たちを嫌っていたのではないか?』
「ええ、嫌っていましたとも」
素直に認めたうえで、柳原は言葉を続ける。
「それでも……あの子たちが命題を覆してくれた。
人は変われる。
世界は信じるに値する――と」
『愚かだな。揺るぎなき信仰さえあれば、そんな些細なことは忘れられる。
見よ、神は今まさに降臨しようとしているのだぞ』
「……いいえ、それでは何もならないわ」
柳原は、初めて自分自身に向けるような静かな声で言った。
「私は、昔を忘れたくなかった。だから自分を守ってきた。
だから、美しいものだけを必死に求めてきた。
でも――何よりも醜かったのは、この私自身」
世界が汚物に塗れていたとしても。
それでも、あの子たちのような、かけがえのない宝石が確かに光っている。
「見なさいよ。
あれほど愚かで、青臭くて、けれど理想を体現している彼らの――どこが粗野だと言うの?」
叫びにも似た声だった。
その叫びは、本に巣食う何者かに向けられると同時に、過去の自分自身に向けられていた。
「もう、あなたの甘言には惑わされない!」
『……どうやら、貴様はもう不要になったようだな』
「は」の本が、ぎらりと赤く輝いた。
次の瞬間、柳原郁代の身体は何かに突き飛ばされたように宙を舞い、屋上のコンクリートに叩きつけられた。
肺の中の空気が一気に押し出される。
視界が滲む。
それでも、彼女の目は――屋上に立つ少年少女の姿を、しっかりと捉え続けていた。
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屋上での光と歌が嘘みたいに消え去った頃。
校舎の影、誰もいない中庭の隅で、二人の男が静かに空を見上げていた。
一人は、この学校でただ一人の常駐警備員――桜竜樹。
もう一人は、若き理事長・伊集院貴也。
「いやぁ、東くんは実にバカだなぁ」
ぽつりと零れた貴也の言葉は、悪し様な響きのわりに、どこか楽しげだった。
「腹に穴開けた状態で立ち上がるとか、普通しないからね。
あれはもう、バカと言うより――」
「英雄、だろう」
竜樹が肩をすくめて言う。
制服のポケットに突っ込んだままの手には、さっきまで構えていた護身用の警棒の感触が残っていた。
「いつでも介入できるよう準備はしていたが……」
彼は一度だけ屋上の方を見て、ふっと目を細める。
「無事に済んで、何よりだ」
「君を信じるように、少年少女を信じた結果だよ」
貴也は軽く肩を回しながら、あくびともため息ともつかない息を吐いた。
「さて、と。東くんを治療しに行かないとね。
このまま放っておくと、本当に死んじゃう」
「安達は?」
竜樹の問いに、貴也は少しだけ表情を和らげた。
「ああ、彼女は私と違う」
月明かりの下、理事長は空を指でなぞるようにして言葉を続けた。
「土着の怪異の血を引いていたんだよ。
今回の騒ぎで、見事に“覚醒遺伝”してしまった」
「……楽しそうだな」
竜樹が半眼で横目を向ける。
「そうかい?」
貴也はおどけて首を傾げる。
「大変なんだよ? これから、彼女たちをどう“こっち側”に引き戻すか考えなきゃいけないんだから」
口ではそう言いながら、その声色にはどうしようもなく楽しげな色が混じっていた。
「まあ――」
彼はそっと眼鏡を押し上げる。
「バカで、どうしようもなく青臭くて、でも世界を信じようとする子どもたちってのは、見ていて飽きないからね」
竜樹は、小さく鼻で笑った。
「じゃあ、俺は上の片づけに行こう。
お前は、あの“バカ”を死なせるなよ」
「任された」
短く返事をして、理事長は踵を返す。
医務室経由で、真っ先に向かう先は決まっている。
月城総合病院・特別室。
東青見が、まだギリギリ生きているはずの場所へ。