怪異日常
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最初に戻ってきたのは、消毒液の匂いだった。
(……病院、か)
それを認識した途端、身体中の痛みが一斉に自己主張を始める。
腹。胸。喉。あちこちが鈍く、重く、焼けるように痛い。
「――おや。目が覚めたね」
軽い声がした。
まぶたを持ち上げると、見慣れた顔がベッド脇の椅子に腰掛けていた。
「……理事長」
「やあ、東くん」
いつもの紺のスーツ。きちんと撫でつけた黒髪。
ただ、学校にいるときよりもネクタイは少しだけ緩んでいて、どこか“仕事終わり”の顔をしていた。
「……ここ、月城総合ですよね」
「うん。君、ここの常連になりつつあるね」
にこにこと笑いながら、伊集院貴也は足を組み替えた。
「いやぁ、東くん。実にバカだなぁとは前から思っていたけど」
「……開口一番それですか」
「誉め言葉だよ? あそこまでボロボロになっても立ち上がる高校一年生、そんなにいないからね」
軽口の調子はいつも通りなのに、その目の奥の疲労だけは誤魔化せていなかった。
徹夜明けの医者のそれに少し似ている。
「で、だ」
彼は、咳払いひとつ。
「あまりにも君が死にかけるものだから、少しばかり“特殊な血清”を打たせてもらったよ」
「……血清?」
嫌な予感しかしない単語だった。
「うん。ざっくり言うと――
怪異に対する“耐久度”を、人よりちょっとだけ底上げするお薬」
さも簡単なことのように言う。
「常人よりは、だいぶ死ににくくなった。
とはいえ、首が千切れたりしたら、さすがに死ぬのは変わりないからね。
無茶は、あまりしないように」
「“あまり”ってつけてる時点で、する前提ですよね、それ」
青見は、乾いた笑いを漏らす。
「特殊な、ね……」
ぼそりと呟き、半眼になって理事長を見た。
「オレの“怪異アレルギー”が発症しそうな血清ですね」
伊集院は、そこでぴたりと笑みを止めた。
一瞬だけ、面倒くさそうに眉をしかめる。
「……まあ、そういう言い方も出来るかな」
視線をそらし、窓の外の曇った空を見上げる。
「もともと私は、怪異そのものとは相性が悪くてね。
触れれば触れるほど、アレルギーみたいに拒絶反応が出る体質なんだ」
「そんな人が、よく理事長なんてやってますね、この学校で」
「だから“直接”はあまり関わらないようにしてるだろう? ほら、君たちの前に出るときは、だいたい“普通の大人”の顔してるじゃないか」
「普通、ねぇ……」
どこまでが本気で、どこからが冗談なのか分からない。
いつものことだ。
「今回の血清も、本来なら君みたいな人間に打つべきじゃない、ギリギリアウトな代物なんだけどね」
「アウトなんですか」
「まあ、“怪異アレルギー持ち”が作った対怪異用カクテルだからね。
設計思想の段階からだいぶ偏ってる」
さらっと物騒なことを言う。
「ただ――」
貴也は、ふっと真面目な顔になった。
「君が、あそこで死ぬのだけは、私が許容できなかった。
……それだけの話さ」
言い終えてから、「おっと」と自分で照れを誤魔化すように肩をすくめる。
「もちろん、副作用もゼロってわけじゃない」
「副作用?」
「怪異に巻き込まれやすくなる。
“そういう場所”に、妙に縁ができやすくなる。
まあ、今さらだろうけどね。もう君、充分そういう星の下に生まれてるし」
「笑えない冗談ですね、それ」
「冗談半分、本気半分」
伊集院は立ち上がり、ベッド脇に置いてあったカルテにさらさらと何かを書き込んだ。
「ともあれ、君は死ななかった。
それで、私は十分満足だ」
そう言って、いつもの軽い笑みに戻る。
「安達さんの方も、こっちでケアするから心配しないでいい。
彼女は君と違って、“土着の怪異”の血を引いているからね。
今回の騒ぎで、見事に覚醒遺伝しちゃった」
「……楽しそうに言いますね、理事長」
「そう見える?」
「見えます」
「そうかい」
肩を竦めながらも、伊集院の目はどこか本当に楽しそうだった。
「君たちみたいな、バカで、青臭くて、それでも世界を信じようとする子どもたちってね――
見ていて飽きないんだよ」
「こっちは命がいくつあっても足りないんですけど」
「だから、さっき言っただろう。
――首が千切れたりしない範囲で、無茶は控えめに、って」
「ハードル高すぎません?」
取り留めのないやりとり。
そのテンポが、妙に懐かしく感じられた。
世界はまだ、完全には元どおりじゃない。
怪異の影も、メロディ様の残滓も、きっとどこかに残っている。
それでも。
今この瞬間だけは、病室の白い天井と、理事長の軽口と――
どこか遠くで、きっと同じ空を見上げている誰かの存在が、
東青見にとっての「日常」そのものだった。