いいよね。
/*/ 風の目覚め /*/
最初に気づいたのは、カーテンの音だった。
さわ、さわ、と。
窓はしっかり閉まっているのに、白いカーテンが小さく揺れている。
(……エアコン?)
ぼんやりした頭でそう思って、天井を見上げる。
エアコンは止まっていた。送風のランプも消えている。
それでも、カーテンは揺れていた。
わたしの頬を、かすかな風が撫でていく。
あの夜の屋上の風と、同じ感触だった。
「……夢、じゃ……ない……のね」
声に出した瞬間、胸の奥から何かがせり上がってきた。
嫌な記憶が、ざざっと逆流する。
赤い星。竜巻のような触手。
舞い上がる血と、踊るように吹き荒れる風。
わたしの手刀が閃くたびに、血が飛んだ。
わたしの風が唸るたびに、青見の身体が切り裂かれた。
――わたしが、やった。
はっきり分かる。夢じゃない。
全部、現実だった。
胸がきゅっと縮んだ。
「やめて」と思ったとたん、カーテンがびくりと大きく揺れる。
「……やめてって言ってるのは……風じゃない。わたし、か」
指先をゆっくり持ち上げてみる。
何も触れていない空気が、指先にまとわりついてくるような、変な感触。
やめろ、って思えば、風はしゅんとしぼむ。
怖い、って思えば、ビリビリするくらい鋭く揺れる。
(ああ……やっぱり)
理解してしまった。
わたしの中に、あの夜の風が、まだいる。
覚醒遺伝――なんて言葉が、頭の端っこをかすめる。
伊集院理事長が何か説明してくれた気もするけれど、半分も頭に入ってこなかった。
(わたし、怪異側になっちゃったんだ)
そう思った瞬間、全部が嫌になった。
風よけに窓を閉め切った、四人部屋の病室。
まだ昼間だというのに、やけに暗く感じる。
(あんな力、いらない。
風なんかいらない。
あんなのが自分の中にいるなんて……)
笑えるはずがない。
これからどうやって、普通の顔をして学校に行けばいいのか想像もつかない。
なにより――
(青見の前に、どうやって顔を出せばいいのよ)
腹に開いた穴。溢れた血。崩れ落ちた身体。
あの光景が頭から離れない。
わたしが、殺しかけた。
誰でもない、わたしが。
爪が掌に食い込むほど、ぎゅっとシーツを握りしめた。
そのたび、部屋の空気も一緒にきゅっと固くなる。
「……はぁ」
ため息ひとつ。
それだけで、カーテンが小さくうなずくみたいに揺れた。
「もう……やだ……」
自分の声が、情けなさすぎて笑えてくる。
笑えてきて――笑えなくて、目元が熱くなったそのとき。
コン、コン。
控えめなノックの音がした。
「……はい」
反射的に返事をすると、ドアの向こうから聞き慣れた声がした。
「入っていい?」
心臓が、どくん、と跳ねた。
「……どうぞ」
ドアが開く。
そこに立っていたのは、松葉杖をついた青見だった。
右脚をかばうようにして、一歩ずつ。
病院のパジャマの上に、無理やりカーディガンを羽織って。
顔色はまだ悪いし、包帯もそこかしこに見える。
それでも――ちゃんと、生きていた。
「よ。……なんか、久しぶり」
いつもの調子で笑おうとして、ちょっと失敗したみたいな顔。
「……バカ」
それしか出てこなかった。
「うん。自分でもそう思う」
あっさり肯定して、彼はよいしょ、とベッドのそばまで来る。
松葉杖の音が、カツ、カツ、と床に響くたび、心臓も一緒に跳ねる。
ちゃんと謝らなきゃ。
本当は、わたしが謝らなきゃいけないのに――
「彩女」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
青見が、少しだけ真面目な顔をしていた。
「今まで、ありがとう」
「……っ」
心臓が、変な風に鳴った。
今まで。
今まで、ありがとう。
それって――それって、もしかして。
(――さよなら、ってこと?)
喉がきゅっと詰まる。
わたしが怪物になったから?
わたしが、あんなことをしたから?
それとも、これから先に巻き込みたくないから?
どれにしても、「今までありがとう」は、終わりの挨拶みたいで。
胸の奥が、じわじわと冷たくなっていく。
「ちょ、ちょっと待って。……なに、それ」
自分でも驚くぐらい、声が震えた。
「今までって、なによ。終わりみたいに言わないでよ」
「あー」
青見は、ぽりぽりと頬をかいた。
「……やっぱ、そう聞こえるよなぁ」
「そう聞こえるわよ!」
怒鳴ったら、カーテンがばさっと大きく揺れた。
ビビって小さくなったわたしを見て、青見が一瞬きょとんとする。
でも、何も聞かなかったふりをしてくれた。
「ごめんごめん。言い方、悪かった。
“今まで”ってさ――」
少しだけ息を整えてから、言い直す。
「今までみたいに、命助けてもらったりさ。
一緒に変なもんに巻き込まれたりさ。
そういうの、まとめて“ありがとう”って言っとこうと思っただけ」
「まとめてって何よ……」
「ほら、オレさ」
青見は、ちょっとだけ視線を落とした。
「刺されたときさ、“あ、やべ。これマジで死ぬかも”って思って」
さらっと言うから余計に心臓に悪い。
「やめてよ、そういうの」
「でも、本当にそう思ったんだよ。
で、その時にさ――」
言い淀んで、ふっと笑う。
「“あー、結局ちゃんと言えてねぇな”って思ってさ」
「……なにを」
「いろいろ」
ごまかすように言って、すぐ続けた。
「まあ、それは後でいいや。とりあえず」
わたしの顔を、まっすぐ見てくる。
「刺されたのは事実だけど」
「ごめんって言ってるでしょ……」
「まだ何も言ってねぇよ」
苦笑しながら、青見は首を振った。
「刺されたのは事実だけどさ。
“刺したまんまのやつ”だったら、今ここに来ねぇだろ」
「……え?」
「あの時、お前、途中で泣きそうな顔してただろ」
胸が、ちくりとした。
「あの“風”の中でも、なんか必死にブレーキ踏んでたの、分かったからさ」
「そんな、余裕なかったし……」
「本人が覚えてなくても、こっちは覚えてるんだよ」
ぽん、と、自分の腹の包帯を軽く叩く。
「ここ、まだ痛いけどさ。
“わざとやりたくてやった一撃”か、“そうなっちまった一撃”かくらいは、さすがに分かる」
わたしは、言葉を失った。
喉の奥がじわっと熱くなる。
「……オレさ」
青見は、窓の方に一瞬だけ目を向けてから、続けた。
「怪物になったとか、鬼だとか、そういうのはよく分かんねぇけど」
風が、彼の言葉に合わせるみたいに、そっと弱まる。
「変わったのは“力”の方でさ。
“中身”は、そんな簡単に変わらねぇだろって思ってる」
「……わたしは、ぜんぜんそう思えない」
「だろうな」
即答されて、思わずむっとする。
「じゃなきゃ、こんな暗い顔で一人で風とケンカしてねぇよ」
「ケンカなんかしてない」
「してた。カーテンが証人」
「カーテンは証人じゃない」
いつもの調子で言い合って、ふっと息が漏れた。
それだけで、胸の締め付けが少しだけゆるむ。
「……怖いならさ」
青見は、言葉を選ぶようにゆっくり続けた。
「一人で持たなくていいだろ」
「でも――」
「オレだって、怖かったし」
さらっと言われて、言葉が止まる。
「死ぬのも怖かったけどさ。
それ以上に、“お前が自分を怪物だって決めつけて、遠くに行く”のが怖かった」
「……」
「だから、まあ」
ひとつ息を吐いて、笑う。
「今、言っとかねぇと、またタイミング逃す気がしてさ」
「タイミング?」
「うん。
“落ち着いたら言おう”とか、“元気になってから言おう”とか言ってると、
どうせオレ、ずっと言えねぇから」
妙に納得してしまった。
目の前のこの男なら、本当にそうだろうと思う。
「だからさ」
青見は、ちょっとだけ照れくさそうに目をそらしながらも、
ちゃんとこちらに身体を向けた。
「今まで、ありがとなっていうのと」
そこで、一拍置く。
「これからも、よろしくっていうのを、セットで」
「……セット」
「そう。
“今までありがとう、はい解散”じゃなくて」
少しだけ視線を上げて、わたしを見る。
「これからも、隣にいてほしいって意味での“ありがとう”」
胸が、また変な鳴り方をした。
「……それ、ずるい言い方だわ」
「自覚はある」
あっさり言い切ってから、青見は、少しだけ真剣な顔になった。
「で――だ」
喉が、ごくりと鳴る音が、自分でも分かった。
「“これからもよろしく”って言うならさ。
さすがに、ちゃんと筋通さないといけねぇだろ」
「筋?」
「……こういうの、なんて言うのか、ぐるぐる考えたけど」
そこで、ようやく視線がまっすぐ重なる。
「結局、言葉はひとつしかなくてさ」
青見の声が、少しだけ低くなる。
「彩女」
名前を呼ばれただけで、目元がまた熱くなる。
「オレ――」
ほんの一瞬の間。
その隙間に、風が静かに息をひそめた気がした。
「オレ、お前のことが好きだよ」
ぐさり、と真正面から来た。
頭が、真っ白になった。
何か言おうと口を開いたのに、音が出てこない。
代わりに、視界が一気に滲んだ。
(ああ、もう)
だめだ。
堪えてたものが、一瞬で崩れた。
「ばっ、な、なにそれ、今じゃなくていいでしょそういうのはっ……!」
言ってることがめちゃくちゃなのは分かってる。
でも、もう止まらなかった。
気づいたときには、身体が勝手に動いていた。
「バカ……バカ……っ!!」
松葉杖なんか気にしない勢いで、青見の胸に飛び込む。
「うおっ、ちょ、ちょっと、傷――いってぇ!?」
「知らない!!」
わんわん泣きながら、しがみつく。
腕の中の青見の身体は、まだ細くて、あちこち包帯だらけで、頼りないくらい軽くて。
それでも、確かに温かかった。
背中にまわした手のひらに、どくどくと心臓の鼓動が伝わってくる。
生きてる。ちゃんと、生きてる。
「ごめん、ごめん……っ……ほんとに、ごめん……っ」
「なんで謝ってんだよ、彩女」
「わたし、あんた刺したんだから当たり前でしょ……っ!」
「まあ、さすがにあれは痛かった」
なんでそんな落ち着いて言えるのか分からない。
「でも、ほら」
腕の中から、苦笑混じりの声が聞こえる。
「結局、助かっただろ?」
「それ、わたしの手柄じゃないし……っ」
「いいんだよ。
オレからしたら、“最後の最後で戻ってきてくれた彩女”込みの話だから」
「知らない……っ……っひっ……!」
わけのわからない返事をしながら、顔をぐいぐいとパジャマの胸に押しつける。
涙でぐしゃぐしゃになった自覚はある。
でも、もうどうでもよかった。
そのとき、不意に頬を撫でる風が柔らかくなった。
さっきまでビリビリしていた空気が、嘘みたいに穏やかになる。
カーテンが、まるで子守歌みたいなリズムで揺れた。
(……あ)
わたしの泣き声に合わせて、風も一緒に泣いてくれているみたいだった。
「……なあ、彩女」
「なに……っ」
「その……できればさ」
青見が、わたしの背中にそっと片腕を回す。
「その風、ちょっとオレにも優しくしてくれると助かる。
今、だいぶ体中痛いから」
あまりにもいつも通りの文句に、不覚にも笑ってしまった。
嗚咽まじりの、ぐちゃぐちゃな笑い。
「……努力は、してみる……」
「おう。じゃあ、それで手打ち」
涙で濡れた視界の向こうで、青見がいつもの、ちょっと気の抜けた笑みを浮かべていた。
怪異の血も。
覚醒した力も。
風も、嵐も。
全部怖くて、全部嫌で、全部投げ出したかったけれど。
――それでも。
この人が「これからもよろしく」と言ってくれるなら。
この人が「好きだ」と、真正面から言ってくれるなら。
風ごと、わたしはわたしを引き受けて、生きていこうと思った。