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神社の境内は、お正月らしい人の波でいっぱいだった。
境内の石畳には、白い息がふわりふわりと浮かんでは消え、屋台からは甘い匂いや醤油の焦げる匂いが漂ってくる。
賽銭箱の前には長い列。鈴の音と柏手の音が、絶え間なく続いていた。
「振袖だと、並んでるだけで写真映えするわねぇ~」
後ろから、お母さんのひそひそ声。
彩女は「うるさいなぁ」と言いつつ、内心ちょっとだけ誇らしい気持ちで、青見の横に並んでいた。
ようやく順番が回ってきて、四人で並んで二礼二拍手一礼。
彩女は目を閉じながら、こっそりと願い事を重ねる。
(今年も、みんな無事でいられますように。それから……)
隣の気配を、そっと意識する。
(……青見が、少しでも笑っていられますように)
隣の青見は、いつもより長く、真剣な顔で手を合わせていた。
おみくじを引いて、甘酒を飲んで、露店をひやかして。
新年らしい空気をひととおり味わったところで、安達家のお父さんが、少しだけ真面目な声を出した。
「……じゃあ、そろそろ行くか」
「うん」
青見が、静かにうなずく。
「霊園、車出すから。一緒に行こう」
彩女は振袖の裾を両手で持ち上げながら、こくりと頷いた。
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霊園までは、車で少しだけ走る。
窓の外には、「賀正」だの「新春セール」だの、明るい文字が踊っている。
けれど車内は、それとは対照的に、静かな空気が流れていた。
運転席にお父さん、助手席にお母さん。
後部座席には、振袖の彩女と、その隣に青見。
帯がつぶれないように、彩女は背もたれに浅く腰掛けて、膝の上で両手を重ねていた。
隣の青見も、どこかぎこちなく背筋を伸ばしている。
「……なんか、その」
信号待ちのタイミングで、東がぽつりと言った。
「こんなとこまで付き合わせてごめん」
「なにそれ。変な言い方」
彩女は、思わず小さく笑って首を振る。
「付き合うのは当然でしょ。……というか、わたしが行きたいし」
その言葉に、前の席のふたりも、さりげなく頷いた。
「そうそう。うちとしても“ご挨拶”しておきたいのよ?」
「……はい」
青見は、少しだけ目を伏せて、短く答えた。
***
霊園に着くと、空気の冷たさが一段階違って感じた。
冬枯れの木々の間から、薄い冬の陽射しがのぞいている。
墓石の並ぶ細い道を、四人でゆっくりと歩いた。
「彩女、裾気をつけてな。段差あるぞ」
「わかってるってば」
お父さんが先頭で、花と線香と小さなバケツを持っている。
その後ろに東、少し間を空けて彩女とお母さん。
やがて、「東家之墓」と彫られた黒い墓石の前にたどり着いた。
昨年の夏、葬儀のあとにも来た場所。
季節は変わっても、石の冷たさは変わらない。
「……ただいま」
青見が、小さく呟いた。
お父さんが手際よく古い花を片付け、水を入れ替える。
青見は上着を脱ぎ、ワイシャツ姿になって、墓石を布で拭き始めた。
彩女は、一歩下がった位置でそれを見守りながら、そっと帯のあたりを押さえる。
(……やっぱり、あの時の葬式のこと思い出す)
線香の匂い、泣き声、押し殺した噂話。
まだ一年も経っていないのに――あのときの空気は、妙に遠くて、でも鮮明だった。
「彩女」
お母さんが小さく呼びかける。
「お線香、こっちに持ってきてくれる?」
「うん」
火をつけた線香を、四人分。
香煙がゆらりと立ちのぼる。
花を供え、線香を立て終えると、自然と四人が並ぶ形になった。
「……じゃあ」
青見が、一歩前に出る。
冷たい空気の中で、その声だけが、はっきりと届いた。
「父さん、母さん。あけましておめでとう」
指先を合わせる手は、わずかに震えていた。
「去年の夏から、半年ちょっとしか経ってないけど……こうして、初めての正月の挨拶に来れました」
言葉をひとつずつ選ぶように、ゆっくり続ける。
「ひとりじゃなくて。……隣の安達さんたちと、一緒に」
その横には、安達家のお父さんとお母さん。
後ろには、振袖の彩女。
「学校も、ちゃんと行ってます。……部活も、走るのも続けてます。成績は……まあ、なんとか」
冗談めかした言い方に、横でお父さんが「そこはもっと頑張れ」と小声でつぶやき、彩女が肘でつつく。
でも誰も、声を挟まなかった。
「ちゃんと、生きてます」
一拍置いて、青見はもう一度はっきりと言った。
「今年も、ちゃんと生きてみせます」
手を合わせたまま、深く頭を下げる。
──ありがとう。
口には出さなかったけれど、その言葉は確かにそこにあった。
彩女も、そっと膝を折り、振袖の裾が汚れないよう気をつけながら、墓前に向き直った。
「……あの」
自分でも少し驚くくらい、声がかすかに震える。
「安達彩女です。……あの時は、隣にいました」
墓石に刻まれた、名前と年齢。
石に彫られた数字の若さに、胸の奥がちくりと痛む。
「今も、隣にいます。……勝手に、ですけど」
小さく息を吸って、目を閉じる。
「青見のこと、これからも、ちゃんと見てますから。……心配しないでください、って言ったら、失礼かな」
くす、と小さく笑ってしまう。
「でも……今年も一緒に笑えるように、がんばります。どうか、見ていてください」
ぺこりと頭を下げると、帯の締め付けが少しだけきつくなったように感じた。
安達家のお父さんも、一歩前に出る。
「ええと、改めまして。安達と申します」
不器用に頭を下げる。
「こいつには、うちの家族がお世話になってます……と言うべきか。こっちが世話してるつもりで、逆に助けられてるところも多いですけど」
そう言って、ちらりと青見を見る。
「勝手ながら、これからも、うちの子のひとりみたいに扱わせてもらいます。……怒ってませんよね?」
墓石に向かって、冗談めかした語りかけ。
でも、その声色には、確かな敬意と感謝が混じっていた。
お母さんも、ふんわりとした笑みのまま、手を合わせる。
「いつも、うちでご飯食べてくれてありがとうございます。食べっぷりがいいから、作りがいがあるのよ」
そこでふっと真面目な顔になる。
「まだ、いなくなってからそんなに経ってないから……心配ごとがないわけじゃないでしょうけど、この子、ちゃんと前を向いて生きてますよ。だから、どうか、あんまり心配しすぎないであげてくださいね」
四人分の言葉と、四人分の沈黙が、冬の空の下に溶けていく。
線香の香りと白い息が、ふわりと混ざり合った。
***
帰り道。
水桶を返し、霊園の出口に向かう石段を、ゆっくり降りていく。
振袖で段差を下りるのはなかなかの難題で、彩女は片手で裾を押さえ、もう片方で石段の手すりをつかんでいた。
「大丈夫か?」
隣で、青見がさりげなく腕を差し出す。
「だいじょ……ん?」
言いかけたところで、足元の砂利に草履がすべって、体がぐらりと傾いた。
「わっ――」
「おっと」
とっさに支えられ、なんとか転ばずに済む。
ぐいっと引き寄せられた拍子に、振袖の袖と東のコートが触れ合った。
「……ありがと」
「だから言ったろ、段差気をつけろって」
「うるさいな」
口ではそう言いつつも、腕を離さずに、そのまま最後の段まで一緒に降りる。
少し前を歩いていたお父さんとお母さんは、振り返りもせずに、妙に楽しそうな雰囲気だけ背中に漂わせていた。
駐車場に向かう途中、青見がふいに口を開く。
「……今日は、ありがとな」
「え?」
「神社も、墓も。振袖で来てもらうなんて、なんか、悪かったかなって思ってたんだけど」
「別に。着たいから着ただけだし」
彩女は、わざとそっけなく言い捨ててから、少しだけ声を落とした。
「それに……わたしも、ちゃんと挨拶したかったし。青見の“大事な人”に」
その言葉に、東は一瞬、息を飲んだようだった。
冬の薄い陽射しの中で、彼は小さく笑う。
「……うん。ちゃんと、伝わってると思う」
「なにそれ。勝手に通訳しないでよ」
「俺の親だからな」
その言い方が、妙に自然で。
彩女の胸の中にも、じんわりと灯がともる。
車に戻ると、お母さんがさっそく振り返った。
「さ、次はうちでお雑煮よ。ふたりとも、まだまだ写真撮るから覚悟しときなさい」
「え、まだ撮るの?」
「当たり前でしょ。今日のこれは、“家族行事”なんだから」
“家族”という言葉に、青見の表情が一瞬だけ揺れる。
けれどすぐに、照れ隠しのように窓の外へ視線を向けた。
遠ざかっていく霊園の入り口がバックミラーに映り、その先には、さっきまで手を合わせていた墓の方角が――冬空の向こうに続いている。
(見ててね。今年も、ちゃんとやってくから)
青見が心の中でそっと呟く。
新しい年の空は、どこまでも澄み切っていた。