/*/ 冬の星空と、ありがとう /*/
最後の塩タンを名残惜しそうに口に運んで、二人の“営業”は終わった。
「じゃあ、片づけるか」
「うん。網、まだ熱いから気をつけてね」
紙皿や箸はゴミ袋にまとめ、油の落ちた網を炭の端で焼き切るようにしてから、水場に持っていく。
メスティンも軽く湯をはって、米粒を落とさないようにすすいだ。
炭は焚火台の端に寄せ、火力を落として、小さな炎だけが残るようにする。
さっきまで元気よく立ち上っていた火は、今はほのかなオレンジと、時々はぜる火の粉だけだった。
「……よし。このくらいなら、もう焚き火っていうか“豆火”だな」
「言い方」
片付けが一段落すると、今度は小さなアルコールストーブの番だ。
青見がケトルを乗せ、水を入れて火にかける。
「コーヒー、今日こそはちゃんと淹れないと」
「今日“こそは”って何よ。“こそは”って」
「この前、屋上でやったとき、ちょっと薄かっただろ」
「あれはあれで美味しかったけど?」
お湯が静かに温まっていくあいだ、二人は焚火台のそばに折りたたみチェアを並べて腰を下ろした。
さっきまで焼肉の煙でにぎやかだった空気が、急に静かになっていく。
耳に入ってくるのは、遠くのテントから漏れる笑い声と、木々を撫でる冬の風の音。
それから、焚き火の中で炭がときどき「パチ」とはぜる細い音だけ。
「そういえばさ」
ふと、彩女がキャンプ場の上空を見上げる。
「星、ちゃんと見るの、久しぶりかも」
街よりずっと濃い夜空。
白い息の向こうに、びっしりと星が浮かんでいる。
「体育館から出るとき、たまに見てるけどな」
「あれは、ほら。ついでじゃない。こういうのは、ちゃんと見るのが大事」
「はいはい」
ケトルがシュン、と小さく鳴いて湯気を立て始めた。
青見は火から下ろし、マグカップと、プレゼントでもらったハンドドリップセットを準備する。
「じゃ、粉入れて……」
「お、バリスタ青見」
「やめろ。プレッシャーかけるな」
円を描くように、少しずつお湯を落としていく。
粉がふわっと膨らみ、立ち昇る香りが、さっきまでの焼肉とは違う、落ち着いた匂いに空気を塗り替えていく。
「……いい匂い」
「このために来てる感、ちょっとある」
二つのマグカップが、大きめの手の中に収まる。
熱いコーヒーを一口すすると、冷え始めていた体の中に、ゆっくりと温かさが広がった。
「うん。今日のはちゃんとおいしい」
「前のもおいしかったって」
「今日のは“ちゃんと”おいしい」
「わざわざ強調するな」
そんな小さなやり取りのあと、ふと、会話が途切れた。
代わりに広がるのは、静けさ。
嫌な沈黙じゃない。
コーヒーをすする音と、火のぱちぱちだけが混じり合う、悪くない時間。
しばらく、二人とも黙って星を見上げていた。
やがて――青見が、ぽつりと口を開いた。
「……ありがとう、彩女」
「ん?」
カップから顔を上げる。
「こうして、キャンプも続けられるとは思ってなかった」
その一言に、空気が少し変わった。
夏。
突然いなくなった「当たり前」。
あの日からしばらく、青見は、どこか地に足がついていない感じだった。
笑うには笑うし、部活にも来るけれど、
ふわふわと、どこか遠くを見ているような目をしていた。
キャンプの話を自分からしなくなって、
「道具、処分するか悩んでる」なんて、ぽろっと漏らした日もあった。
あのとき、彩女はあえて強く言ったのだ。
――今度連れてきなさいよ。
――そういうの、ひとりでやめちゃダメなんだから。
その言葉を、ちゃんと受け取ってくれていたこと。
そして、こうして形になっていること。
全部まとめて、「ありがとう」に乗っかっているのが分かって、
彩女は一瞬、うまく言葉が見つからなかった。
「……」
コーヒーの湯気で誤魔化すように、マグカップに視線を落とす。
いつもなら、真っ先に冗談で逃がすところだ。
けれど、この夜だけは、それをしたくなかった。
「……どういたしまして」
少し間を置いてから、ようやく言葉が出た。
「あんたを支えられてるなら、良かったわ」
自分で言って、ちょっと背中がむずがゆくなる。
でも、取り消すつもりはない。
「うん。ありがとう」
青見は、カップを両手で包んだまま、素直にそう言った。
それきり、また会話が途切れる。
けれど、さっきとは違って、何かがひとつ、きちんと置かれたあとの静けさだった。
彩女は、もう一度、夜空を見上げる。
冷たい空気が、肺の奥まで澄み渡っていく。
(……ほんと、星、きれい)
さっきよりも、ちょっとだけ、世界がくっきり見える気がした。
そんなふうに思って、ふと、隣を見る。
焚き火のオレンジの光が、青見の横顔を照らしている。
マグを口元に運ぶとき、わずかに震えた指先。
視線は夜空のどこか、遠くの一点に向けられている。
(……あれ)
頬を伝う、小さな光の筋が見えた気がした。
焚き火の光のせいかもしれないし、
星の反射かもしれないし、
あるいは、本当に――涙だったのかもしれない。
彩女は、目を細めて、もう一度確認しかけて――やめた。
「……寒くなってきたね」
代わりに、全然関係ないことを口にする。
「ああ。そろそろ、火も落として、テント入るか」
青見も、それ以上何も言わない。
ただ、最後にもうひと口だけコーヒーを飲み干して、空になったマグを見つめた。
焚火台の小さな火が、少しずつ少しずつ、炭の奥に沈んでいく。
その上には、星がたくさん、冷たくて綺麗な光を放っていた。
あの頬を伝った一筋の光が、本当に涙だったのかどうか。
それは、きっと彩女だけの、ちいさなひみつのままだ。