なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

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スパリゾート・3

 

 

 ◆ 帰り道のバス ◆

 

 

 スパリゾートを出た頃には、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。

 バスの窓ガラス越しに差し込む夕陽が、車内のシートを柔らかく照らしている。

 

 行きはわいわい騒がしかった車内も、帰りは一転して、どこか眠たげな空気に満ちていた。

 塩素とシャンプーが混ざったような、プール帰り特有の匂いが、ほんのりと漂っている。

 

 前方のペアシートでは、惣一郎と愛香が並んで座っていた。

 

「ふあぁ……遊びすぎた……」

 

 惣一郎が遠慮なしのあくびをひとつ。

 その肩にもたれるように、愛香が小さく笑った。

 

「だから言ったじゃん。スライダー四回目はやめとこうって」

 

「でも、楽しかったろ?」

 

「……楽しかったけど」

 

 最後の一言だけ、少しだけ声が小さい。

 惣一郎が前を向いたまま「な?」と笑うと、愛香は「はいはい」と呆れたように返し――そのまま、こてん、と彼の肩にもたれかかった。

 

「ちょ、おま……」

 

「動かないで。せっかくちょうどいい枕見つけたのに……」

 

 眠たげな声でそう言われてしまうと、惣一郎はもう何も言えない。

 代わりに、軽く姿勢を直して、彼女の頭が落ちないように背もたれに体を預けた。

 

「……おやすみ」

 

 彼の小さなつぶやきに、返事はない。

 代わりに、彼の肩口にあたたかい寝息だけが、規則正しく触れていた。

 

 少し後ろのペアシートには、青見と彩女。

 

「……ふぅ」

 

 窓の外の景色を眺めていた彩女が、ようやく息を吐く。

 

「さすがに疲れたでしょ」

 

「そりゃね。あんたに何回もスライダー付き合わされたし」

 

「お前が“もう一回もう一回”って言ったんだろ」

 

「細かいこと気にしないの」

 

 口ではそう言いながらも、彩女のまぶたは、さっきから何度もゆっくりと落ちては戻ってを繰り返していた。

 

 バスが小さく揺れる。

 その揺れに合わせて、彩女の身体がぐらりと傾き――

 

 ぽす、と青見の肩に頭が落ちた。

 

「……おっと」

 

 反射的に体を支えようとして、青見はそのまま固まる。

 

 彩女の髪から、シャンプーとほんの少しのプールの匂いがした。

 昼間、高い位置で結んでいたポニーテールはほどかれていて、肩のあたりにさらりと流れ落ちている。

 

「……悪い。重かったら言いなさいよ」

 

 目を閉じたまま、小さく呟く声。

 

「別に。これくらい平気だって」

 

「ふーん……」

 

 それきり、彩女の返事は途絶えた。

 代わりに、かすかな寝息が、青見の袖をくすぐる。

 

 窓の外では、夕陽がゆっくりと沈みかけていた。

 オレンジ色の光が、ガラスに反射してきらきらと揺れる。

 それは、まるで四人の姿を、黙って見守っているみたいだった。

 

 前方のシートでは、惣一郎の肩にもたれて眠る愛香。

 少し後ろのシートでは、青見の肩に頭を預ける彩女。

 

 それぞれの肩に、信頼と安堵の重みがかかっている。

 

 バスのエンジン音と、たまに響くアナウンス。

 その合間に聞こえる、規則正しい寝息。

 

 夕陽はゆっくりと角度を変えながら、その光景を静かに照らし続けていた。

 

 今日一日、はしゃいで、笑って、少しだけ照れて。

 そんな四人の“遊びの時間”の余韻を、柔らかい光で包み込むように。

 

 

 ◆ 帰り道・バス停からの道 ◆

 

 

 バスが停留所に滑り込む頃には、空のオレンジはだいぶ薄くなっていた。

 

「それじゃ、また明日なー!」

 

 惣一郎が、バスから降りる勢いのまま大きく手を振る。

 その隣で、愛香もぺこりと頭を下げた。

 

「今日はありがとう。またどこかへ行こうね」

 

「うん、またな」

 

 青見が手を上げて返し、彩女も小さく手を振る。

 

「愛香、惣、気をつけて帰りなさいよ」

 

「はーい、彩女ちゃんもー」

 

 手を振り合って、二人と別れる。

 惣一郎と愛香が駅の方へ歩いていく背中が、小さくなっていく。

 

 残ったのは、バス停の前に並んだ、青見と彩女。

 

「……ふぅ」

 

 ひとつ息を吐いてから、彩女はいつもの調子で言った。

 

「じゃ、帰るか」

 

「だな。どうせ途中まで一緒だし」

 

「途中どころか、お隣さんでしょ、うちとあんた」

 

「そうだった」

 

 そんな他愛もない言葉を交わしながら、二人は並んで歩き出す。

 

 住宅街へ向かう道は、さっきまでの喧噪が嘘みたいに静かだった。

 さっきまで耳の奥に残っていた、スライダーの水音や館内アナウンスの声も、だんだん遠くなる。

 

「……楽しかったね」

 

 先に口を開いたのは彩女だった。

 

「スライダーも、波のプールも」

 

「お前、あれだけ『もう無理』って言ってたくせに」

 

「だって楽しいし。足ガクガクだけど」

 

 笑いながら、けれど少しだけ名残惜しそうな声。

 

 少し間が空いてから、彩女がふと呟く。

 

「ねぇ」

 

「ん?」

 

「次はどこ行こうかしら」

 

 問いというより、独り言に近い調子だった。

 

「次?」

 

「今日みたいに、みんなでさ。スパリゾートでもいいし、違うとこでもいいし」

 

「そうだな……」

 

 青見は、少しだけ夜の空を見上げた。

 

「季節的に、次は夏かな」

 

「夏か……」

 

 彩女の視線が、前から足元へと落ちていく。

 

「夏なら、プールでも海でも、また遊べるし」

 

「……新しい水着、買わなきゃ」

 

 ぽつ、とこぼした言葉は、さっきまでの調子より少しだけ小さい。

 

 青見は、思わず横顔を見る。

 

「今のでいいんじゃないの?」

 

「いや、あれはあれで良いんだけどさ」

 

 彩女は、少しだけ口の端を上げる。

 

「せっかくなら、ちょっとくらい“彼氏の趣味”も取り入れてやってもいいかなー、とか思ったり思わなかったり」

 

「……」

 

 真正面からそんな単語を投げられて、青見は一瞬足を止めそうになった。

 

 しかし、ここで固まると余計にからかわれる。

 それくらいのことは、もう分かっている。

 

「どんなのが良い?」

 

 彩女は、わざと何でもない風を装った声で続けた。

 

「こう、さらっと聞いて、さらっと流すから。変なこと言ったら一生ネタにするけど」

 

「脅しじゃないか、それ」

 

 青見は、視線を前に戻しながら、わずかに考え込む。

 

(どんなのが……)

 

 頭の中に浮かぶのは、さっきまで見ていた、タオルに包まれた彩女の姿。

 その下にあるものを想像した瞬間、慌てて考えを軌道修正する。

 

 前に見た雑誌のページ。

 スパリゾートの売店のポスター。

 記憶の中の断片をつなぎ合わせて、口を開く。

 

「……ど、どんなの、って聞かれると難しいけどさ」

 

「うん」

 

「赤い三角ビキニ、かな……」

 

 言ってしまってから、自分でもちょっと引く。

 

 彩女の足が、ぴたりと止まった。

 

「あんたねぇ」

 

 呆れた声。

 でも、その頬は、夕暮れのせいだけではない赤さを帯びていた。

 

「いきなり攻めすぎでしょ。もうちょい段階ってものをだね」

 

「いや、その……」

 

 青見は、うまく言葉を探せずに、後頭部をかいた。

 

「似合いそうだし……っていうか」

 

「っていうか?」

 

「その、彩女が着てたら、きっと綺麗だなって思っただけ」

 

 それは、誤魔化しのない本音だった。

 

 言った瞬間、自分で耳まで熱くなるのが分かる。

 

 彩女は、しばらく黙ったまま、彼をじっと見つめた。

 

 夜の手前の薄闇が、二人の表情を少しだけ隠してくれる。

 

「……言うようになったわね、ほんと」

 

 最終的に出てきたのは、そんな一言だった。

 

「褒めてんの、それ」

 

「さぁ? どうかしら」

 

 そう言いつつ、彩女は前を向き直る。

 

 歩き出しながら、袖口をつまむ手に、ほんの少しだけ力が入った。

 

(赤い三角、ね……)

 

 頭の中に、店先に並んでいる水着のイメージが浮かぶ。

 

「ま、考えとくわ」

 

「マジで?」

 

「その時の気分次第だけどね。期待しすぎないこと」

 

「期待はするけど」

 

「あんたね……」

 

 呆れたように言いながらも、声の端はどこか楽しそうだった。

 

 やがて、見慣れた住宅街の角を曲がる。

 

「じゃ、ここで解散」

 

「おう。また明日な」

 

「……また明日」

 

 隣り合った二つの家の前で、ほんの少しだけ間が空く。

 

 彩女は振り返らずに、片手だけをひらひらと振って玄関へ向かった。

 

 青見は、その背中を見送りながら、心の中で未来の光景を想像する。

 

(赤い三角ビキニ、か……)

 

 本当にそんな日が来るのかどうかは分からない。

 

 けれど、そうやって想像してしまえるくらいには、

 二人の距離は、あの日の「闇を呼ぶメロディ」の夜から、確かに進んでいる。

 

 玄関の鍵を回しながら、青見は小さく息を吐いた。

 

「……夏までに、ちゃんと鍛えとくか」

 

 誰に聞かせるでもない独り言が、静かな夕暮れの家の中へと吸い込まれていった。

 

 

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