◆ 帰り道のバス ◆
スパリゾートを出た頃には、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。
バスの窓ガラス越しに差し込む夕陽が、車内のシートを柔らかく照らしている。
行きはわいわい騒がしかった車内も、帰りは一転して、どこか眠たげな空気に満ちていた。
塩素とシャンプーが混ざったような、プール帰り特有の匂いが、ほんのりと漂っている。
前方のペアシートでは、惣一郎と愛香が並んで座っていた。
「ふあぁ……遊びすぎた……」
惣一郎が遠慮なしのあくびをひとつ。
その肩にもたれるように、愛香が小さく笑った。
「だから言ったじゃん。スライダー四回目はやめとこうって」
「でも、楽しかったろ?」
「……楽しかったけど」
最後の一言だけ、少しだけ声が小さい。
惣一郎が前を向いたまま「な?」と笑うと、愛香は「はいはい」と呆れたように返し――そのまま、こてん、と彼の肩にもたれかかった。
「ちょ、おま……」
「動かないで。せっかくちょうどいい枕見つけたのに……」
眠たげな声でそう言われてしまうと、惣一郎はもう何も言えない。
代わりに、軽く姿勢を直して、彼女の頭が落ちないように背もたれに体を預けた。
「……おやすみ」
彼の小さなつぶやきに、返事はない。
代わりに、彼の肩口にあたたかい寝息だけが、規則正しく触れていた。
少し後ろのペアシートには、青見と彩女。
「……ふぅ」
窓の外の景色を眺めていた彩女が、ようやく息を吐く。
「さすがに疲れたでしょ」
「そりゃね。あんたに何回もスライダー付き合わされたし」
「お前が“もう一回もう一回”って言ったんだろ」
「細かいこと気にしないの」
口ではそう言いながらも、彩女のまぶたは、さっきから何度もゆっくりと落ちては戻ってを繰り返していた。
バスが小さく揺れる。
その揺れに合わせて、彩女の身体がぐらりと傾き――
ぽす、と青見の肩に頭が落ちた。
「……おっと」
反射的に体を支えようとして、青見はそのまま固まる。
彩女の髪から、シャンプーとほんの少しのプールの匂いがした。
昼間、高い位置で結んでいたポニーテールはほどかれていて、肩のあたりにさらりと流れ落ちている。
「……悪い。重かったら言いなさいよ」
目を閉じたまま、小さく呟く声。
「別に。これくらい平気だって」
「ふーん……」
それきり、彩女の返事は途絶えた。
代わりに、かすかな寝息が、青見の袖をくすぐる。
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈みかけていた。
オレンジ色の光が、ガラスに反射してきらきらと揺れる。
それは、まるで四人の姿を、黙って見守っているみたいだった。
前方のシートでは、惣一郎の肩にもたれて眠る愛香。
少し後ろのシートでは、青見の肩に頭を預ける彩女。
それぞれの肩に、信頼と安堵の重みがかかっている。
バスのエンジン音と、たまに響くアナウンス。
その合間に聞こえる、規則正しい寝息。
夕陽はゆっくりと角度を変えながら、その光景を静かに照らし続けていた。
今日一日、はしゃいで、笑って、少しだけ照れて。
そんな四人の“遊びの時間”の余韻を、柔らかい光で包み込むように。
◆ 帰り道・バス停からの道 ◆
バスが停留所に滑り込む頃には、空のオレンジはだいぶ薄くなっていた。
「それじゃ、また明日なー!」
惣一郎が、バスから降りる勢いのまま大きく手を振る。
その隣で、愛香もぺこりと頭を下げた。
「今日はありがとう。またどこかへ行こうね」
「うん、またな」
青見が手を上げて返し、彩女も小さく手を振る。
「愛香、惣、気をつけて帰りなさいよ」
「はーい、彩女ちゃんもー」
手を振り合って、二人と別れる。
惣一郎と愛香が駅の方へ歩いていく背中が、小さくなっていく。
残ったのは、バス停の前に並んだ、青見と彩女。
「……ふぅ」
ひとつ息を吐いてから、彩女はいつもの調子で言った。
「じゃ、帰るか」
「だな。どうせ途中まで一緒だし」
「途中どころか、お隣さんでしょ、うちとあんた」
「そうだった」
そんな他愛もない言葉を交わしながら、二人は並んで歩き出す。
住宅街へ向かう道は、さっきまでの喧噪が嘘みたいに静かだった。
さっきまで耳の奥に残っていた、スライダーの水音や館内アナウンスの声も、だんだん遠くなる。
「……楽しかったね」
先に口を開いたのは彩女だった。
「スライダーも、波のプールも」
「お前、あれだけ『もう無理』って言ってたくせに」
「だって楽しいし。足ガクガクだけど」
笑いながら、けれど少しだけ名残惜しそうな声。
少し間が空いてから、彩女がふと呟く。
「ねぇ」
「ん?」
「次はどこ行こうかしら」
問いというより、独り言に近い調子だった。
「次?」
「今日みたいに、みんなでさ。スパリゾートでもいいし、違うとこでもいいし」
「そうだな……」
青見は、少しだけ夜の空を見上げた。
「季節的に、次は夏かな」
「夏か……」
彩女の視線が、前から足元へと落ちていく。
「夏なら、プールでも海でも、また遊べるし」
「……新しい水着、買わなきゃ」
ぽつ、とこぼした言葉は、さっきまでの調子より少しだけ小さい。
青見は、思わず横顔を見る。
「今のでいいんじゃないの?」
「いや、あれはあれで良いんだけどさ」
彩女は、少しだけ口の端を上げる。
「せっかくなら、ちょっとくらい“彼氏の趣味”も取り入れてやってもいいかなー、とか思ったり思わなかったり」
「……」
真正面からそんな単語を投げられて、青見は一瞬足を止めそうになった。
しかし、ここで固まると余計にからかわれる。
それくらいのことは、もう分かっている。
「どんなのが良い?」
彩女は、わざと何でもない風を装った声で続けた。
「こう、さらっと聞いて、さらっと流すから。変なこと言ったら一生ネタにするけど」
「脅しじゃないか、それ」
青見は、視線を前に戻しながら、わずかに考え込む。
(どんなのが……)
頭の中に浮かぶのは、さっきまで見ていた、タオルに包まれた彩女の姿。
その下にあるものを想像した瞬間、慌てて考えを軌道修正する。
前に見た雑誌のページ。
スパリゾートの売店のポスター。
記憶の中の断片をつなぎ合わせて、口を開く。
「……ど、どんなの、って聞かれると難しいけどさ」
「うん」
「赤い三角ビキニ、かな……」
言ってしまってから、自分でもちょっと引く。
彩女の足が、ぴたりと止まった。
「あんたねぇ」
呆れた声。
でも、その頬は、夕暮れのせいだけではない赤さを帯びていた。
「いきなり攻めすぎでしょ。もうちょい段階ってものをだね」
「いや、その……」
青見は、うまく言葉を探せずに、後頭部をかいた。
「似合いそうだし……っていうか」
「っていうか?」
「その、彩女が着てたら、きっと綺麗だなって思っただけ」
それは、誤魔化しのない本音だった。
言った瞬間、自分で耳まで熱くなるのが分かる。
彩女は、しばらく黙ったまま、彼をじっと見つめた。
夜の手前の薄闇が、二人の表情を少しだけ隠してくれる。
「……言うようになったわね、ほんと」
最終的に出てきたのは、そんな一言だった。
「褒めてんの、それ」
「さぁ? どうかしら」
そう言いつつ、彩女は前を向き直る。
歩き出しながら、袖口をつまむ手に、ほんの少しだけ力が入った。
(赤い三角、ね……)
頭の中に、店先に並んでいる水着のイメージが浮かぶ。
「ま、考えとくわ」
「マジで?」
「その時の気分次第だけどね。期待しすぎないこと」
「期待はするけど」
「あんたね……」
呆れたように言いながらも、声の端はどこか楽しそうだった。
やがて、見慣れた住宅街の角を曲がる。
「じゃ、ここで解散」
「おう。また明日な」
「……また明日」
隣り合った二つの家の前で、ほんの少しだけ間が空く。
彩女は振り返らずに、片手だけをひらひらと振って玄関へ向かった。
青見は、その背中を見送りながら、心の中で未来の光景を想像する。
(赤い三角ビキニ、か……)
本当にそんな日が来るのかどうかは分からない。
けれど、そうやって想像してしまえるくらいには、
二人の距離は、あの日の「闇を呼ぶメロディ」の夜から、確かに進んでいる。
玄関の鍵を回しながら、青見は小さく息を吐いた。
「……夏までに、ちゃんと鍛えとくか」
誰に聞かせるでもない独り言が、静かな夕暮れの家の中へと吸い込まれていった。