平日の朝。
昨日たっぷり食べたせいか、惣一郎はいつも通り――いや、いつも以上に元気だった。
「よっす、愛香!」
角を曲がったところで、手を振りながら駆け寄ってくる。
制服のネクタイは微妙に曲がっていて、鞄のチャックも半分開いている。
「おはよう、惣くん。ネクタイ、また曲がってるよ」
「マジか。直してくれ」
「はいはい」
愛香は笑いながら、彼のネクタイを直してやる。
指先が喉元のあたりをかすめても、惣一郎はくすぐったそうに肩をすくめるだけだ。
二人は並んで歩き出す。
いつもの通学路。
コンビニを過ぎて、小さな公園を抜け、古びた歩道橋の下を通る。
そこは、昔から妙な噂のある場所だった。
夜になると人影がぶら下がっているだの、
誰もいないのに足音がついてくるだの。
生徒の間では「出るらしい」スポットとして、半分は笑い話のネタになっている。
「そういやさ、この辺さ」
惣一郎が、まさにその話題を口にした。
「この前、クラスのやつが言ってたんだけどさ。昔ここで、自分で……した人がいるんだってよ。マジかね」
「さあ……そういう話、多いよね」
愛香は、さらりと受け流す。
だが、その目だけが、前方の空気を鋭く見据えた。
歩道橋の影に差し掛かった瞬間、
ひやり、と。
空気の温度が一段落ちた。
惣一郎の息が、一瞬だけ白く見えた気がした。
季節外れの、吐息の白さ。
「うっ……なんか、ぞわっとした」
惣一郎が首筋をさする。
その肩――左側に、何かが「しがみついて」いた。
それは、形になりかけて崩れ続ける人影。
男女の区別もわからないほど薄く、
それでいて、首のあたりだけが、やけに暗く滲んでいる。
目は、焦点の合わないガラス玉みたいだった。
その目が、惣一郎をまっすぐではなく、
どこか“内側”を覗き込むように見つめている。
生きている人間の温度と、
途中で途切れた生命への、嫉妬と渇き。
惣一郎は、何も見えていない。
ただ寒気を感じているだけだ。
「なあ、愛香。今の風、なんか変じゃ――」
「惣くん」
その言葉を遮るように、愛香が笑って言う。
「ちょっと、肩、貸して」
そう言って、自然な動作で、惣一郎の左肩に手を置いた。
――その瞬間。
空気が、ぐにゃりと歪んだ。
惣一郎の肩にしがみついていた“それ”が、
弾かれたように、愛香の掌のほうへ滑った。
『……あ……』
喉の奥で擦れた声がした。
生きていた頃、何かを言いかけて、言葉にできなかった人間の最後の音。
指の隙間から、灰色のもやのようなものが漏れ、
それが、逆流するように愛香の腕の中へ吸い込まれていく。
愛香の視界に、一瞬だけ、首に細い跡を残した誰かの姿が浮かぶ。
暗い部屋。
狭い天井。
解けなかった悩み。
誰にも届かなかった助けを求める声。
――そして、「ここにいてもいい?」という、弱々しい願い。
(ごめんね)
心の中でだけ、愛香は短く謝る。
(でも、駄目だよ)
掌の中で、霊魂が細い糸のようにほどけていく。
悲しみも、未練も、すべて味と成分の違いとして識別され、
アブホースの落し子としての本能が、それを分解し、栄養として取り込んでいく。
(惣くんは――)
唇が、ほとんど声にならないほどの小ささで動く。
「駄目だよ。惣くんは、わたしのなんだから」
優しく肩に添えた手。
通りすがりの人間から見れば、ただの仲の良い幼馴染の仕草。
だが、その裏で。
惣一郎にまとわりつこうとした“よそ者”は、
跡形もなく喰われていた。
風が通り抜ける。
さっきまでのひやりとした冷気は、嘘みたいに消えている。
「……あれ? なんか、さっきよりあったかくなった?」
惣一郎が首を傾げる。
「そう? 歩いてるからじゃない?」
「かなぁ?」
何も知らずに、彼は笑っている。
自分の肩がさっきまで“奪われそう”になっていたことも。
その奪い合いに勝ったのが、隣を歩く幼馴染であることも。
「ほら、急がないと遅刻しちゃうよ」
「うおっ、やべ。今日小テストだっけ!」
「そうだよー。昨日、あんなにマンガ読んでたのに、よく言う」
「いや、でもオレ、なんとかなるタイプだから!」
「ふふ、はいはい、“なんとかなる”惣くんね」
二人は、歩道橋の影を抜けていく。
歩道に落ちる影は、もうふたつだけ。
さっきまであった、薄く揺らいだ第三の影は、どこにも見当たらない。
愛香の身体の奥で、ほんの少しだけ「冷たい味」が混じった。
それを舌の上で転がすみたいに、内側で味わいながら――
彼女はいつもの笑顔を崩さなかった。