三森玲子
◆三森玲子という少女
三森玲子、十五歳。誕生日は三月二十九日。
逢瀬学園高等部一年。
髪をおさげにした、背の低い女の子──ぱっと見は、それだけだ。
けれど、彼女の目だけは、同年代のそれとは少し違っていた。
教科書の行間よりも、世界の「隙間」のほうを、いつもじっと覗き込んでいるような、そんな眼差し。
◆
「三森さんって、頭いいよね」
そう言われるのには、もう慣れていた。
飛び級で大学に進んで、お父さんの研究を手伝うつもり──
そう口にすると、たいていの相手は「すごいね」と笑う。
彼らが「すごい」と言っているのが、
本当に自分のことなのか、それとも「そういう設定のキャラ」のことなのか、玲子には時々分からなくなる。
──だって、わたしの人生は、途中から急に「書き換わった」みたいだから。
生まれてすぐに両親と死に別れ、身寄りがないまま施設で育った。
六年前、三森啓司に養子として引き取られるまでは、書類上の「親族欄」は、ずっと空欄だった。
新しい家、新しい名字、新しい「お父さん」。
あの人は優しいし、学者で、ちゃんとご飯も作ってくれるし、
──だから今の暮らしに不満なんてない。感謝だってしている。
ただ、時々ふとした瞬間に、胸の奥がざわつく。
自分がどこから来て、どこに向かっているのか。
分かっているようで、なにも分かっていないような、あの奇妙な感覚。
◆
インターネットは、そのざわつきを少しだけ紛らわせてくれる場所だった。
匿名性が強い掲示板。
大人たちが本気で口論している考古学スレッド。
神話と、人類の起源と、未知の「古い文明」についての雑談。
ハンドルネームは「カモノハシ」。
部屋の棚に並んだカモノハシのぬいぐるみたちを見て、何となくそう決めた。
はじめて「カモノハシさんの意見、面白いですね」と書かれた時、
玲子は少しだけ、胸の奥があたたかくなるのを感じた。
そこには、「十五歳の女子高生」も、「人類学教授の娘」もいない。
ただの一人の発言者として、他の誰かと対等に話せる世界があった。
──本当は、その世界がどこか「懐かしい」と感じている自分に、うすうす気づいてはいたけれど。
◆
七十万年以上前、「ハイパーボリア」と呼ばれる王国を築いた先史人類の末裔。
彼女の血に流れているのは、正確には「人類」と呼んでよいものかすら怪しい系譜。
だが玲子は、そんなことを知らない。
少なくとも、「今回の事件」が起きるまでは。
知らないままでいるなら、それはただの設定の書き損じで済んだのかもしれない。
けれど世界には、知ってしまったが最後、もう元の「ただの女子高生」には戻れない真実というものが、確かに存在していた。
◆
「三森さんは進路、もう決めてるんですか?」
逢瀬学園の坂道で、安達彩女にそう聞かれて、
玲子はいつものように、くすりと笑ってみせる。
「ええ。二年が終わったら飛び級して、大学へ行きます。
お父さんの研究を手伝うつもりです」
それは、今の玲子が知っている範囲での、いちばん真っ直ぐな答えだ。
/*/ 進路相談という名の作戦会議 /*/
逢瀬学園・本館奥。
重厚なドアに「理事長室」とプレートが掛かっている。
「失礼します」
控えめな声とともに、玲子がドアを開けた。
その後ろには、少しよれたジャケットを着た三森啓司が、くたびれたトートバッグを提げて立っている。
「やあ、三森先生。玲子くんも、よく来てくれたね」
窓際の椅子から立ち上がり、伊集院貴也が穏やかに微笑んだ。
スーツ姿は相変わらず隙がないが、表情にはどこか親しみがある。
「わざわざ時間を取らせて悪いね、貴也君」
「いえ。祖父の友人をお迎えするのに、時間を惜しむはずがないでしょう?」
軽い冗談めかして言うと、貴也はソファを手で示した。
「どうぞ。立ち話も何ですから」
三人が腰を下ろすと、しばし部屋にティーカップの触れ合う音だけが響いた。
先に口を開いたのは、啓司ではなく、玲子だった。
「……あの、理事長先生」
姿勢よく座ってはいるが、膝の上で組んだ手はほんの少し強張っている。
「今日は、わたしの進路のこと、ですよね」
「そうだね」
貴也はうなずき、視線を啓司に向けた。
「そちらの“お父さん”から、事前に少し話は聞いているよ」
「お父さん言うな。実際そうなんだけども」
啓司がぼやきながらも、まんざらでもなさそうに鼻の頭をかいた。
玲子はちらりと父を見ると、意を決したように前を向く。
「わたし……本当は、飛び級して大学に入れたらいいなって思ってました」
「飛び級?」
貴也が問い返す。その声音には驚きより興味の方が強い。
「はい。高校を全部終える前に、大学の方に進んで、お父さんの研究を手伝いたいなって。
データ整理とか、フィールドワークの補助とか……骨の計測も、ちゃんと教わればできますし」
そこまでは、以前から考えていたビジョンだった。
問題は――と、玲子は一度言葉を切る。
「でも、お父さん、大学辞めちゃったじゃないですか」
ちら、と隣を見る。
啓司は「う」と小さく唸り、目を逸らした。
「いや、あれはだね。定年も近いし、講義や委員会やらで研究時間が取られるのがどうにも耐えられなくてだね……」
「そういう事情なのは分かってますけど」
玲子は、ほんの僅かに頬をふくらませる。
「大学にいたままなら、わたしがそっちに飛び込んで、お父さんの研究室で助手みたいにやっていけたのに、今は“個人研究者”になっちゃってるから、
“飛び級しても受け皿がない”っていうか……」
自分でも、うまく整理できない苛立ちと不安がある。
それをどう言葉にすればいいのか分からず、もどかしげにティーカップの縁を指でなぞった。
「せっかく成績も悪くないって言ってもらえるし、理事長先生に相談したら飛び級も夢じゃないかもしれない。
でも飛び級しても、お父さんの研究をちゃんと支えられる形が見えなくて……」
啓司が、おろおろと娘を見る。
「……玲子。無理にそんなことを考えなくても、普通に高校を卒業して、普通に大学に行って、普通に――」
「普通にって何ですか」
玲子は、少しだけ冷えた目で父を見る。
「お父さんの“普通”って、骨と猿と古代人の論文で埋まってるんですよ。わたし、そういうのイヤじゃないですけど」
貴也が、そこで小さく笑った。
「仲が良いね、君たちは」
「これで良い方なんですよ」
玲子がぼそっと言うと、啓司は「ひどいなあ」と頭をかいた。
「……話を戻しましょう」
貴也は、ティーカップを静かに置き、二人を順番に見た。
「玲子くんの希望は、“早く大学レベルの学びに入りたい”ということと、“三森先生の研究を手伝いたい”ということ。
その両方を満たせる道があるなら、選びたい――違うかな?」
「……はい」
玲子は素直に頷いた。
「わたし、標本として拾われたのは分かってますけど」
「こら」
啓司が即座に制止の声を上げる。
玲子は「事実でしょ」とさらりと流す。
「でも、今は、お父さんの研究そのものも好きなんです。古い骨の形から、昔の人の生き方を想像したりとか。
だから、ただ実験台になるんじゃなくて、“一緒に研究できる人”になりたいんです」
一瞬、部屋の空気が静まる。
啓司は、目の奥に柔らかいものを浮かべて、娘を見つめていた。
それを貴也は、少しだけ羨ましそうな視線で眺める。
「……いいね」
ぽつり、と貴也が言った。
「では、こういうのはどうだろう」
玲子が顔を上げる。
啓司も、興味深げに身を乗り出した。
「飛び級そのものについては、学園として“ありえなくはない”。成績と本人の覚悟次第で、検討に値する案件だ。
ただ――玲子くんの言う通り、“三森先生の研究室にそのまま所属する”という形は、今は取れない」
「ですよね……」
玲子の肩が、少しだけ落ちる。
「だからこそ、ひとつ提案がある」
貴也の声色が、少しだけ“理事長”から“伊集院家当主”のものに変わった。
「それなら、私の方で資産管理や研究費の運用なども、玲子くんに教えよう」
「え?」
玲子が瞬きをする。
予想外の単語だった。
「三森先生は、遺産相続でかなりまとまった資産を得ている。
それを、今は“研究に困らない程度に食いつぶさないように使っている”という状態だと聞いているけれど」
「言い方がひどくないかね、君は」
啓司が苦笑するが、否定はしない。
「正直なところ、“お金の面倒を見る人”が必要なんだ。
研究者としては優秀でも、資産家として有能かどうかは、また別の話だからね」
「ぐうの音も出ないね」
啓司が肩をすくめる。
「玲子くん。君が大学に進みながら、伊集院家の資産管理や財務の基礎を学ぶ。
同時に、“個人研究機関”としての三森先生の研究費管理、契約書の確認、データ管理などを、実務として手伝う」
「実務……」
玲子は、口元に小さく呟く。
「それを三、四年続ければ、“研究を理解したうえで、研究者を支える側の仕事”が一通り身につく。
その上で、大学院に進むなら本格的に共同研究者として動けばいいし、
あるいは“個人研究所の事務局長”として、三森研究所を回す役目に専念するという道もある」
「個人研究所って」
啓司が眉を上げる。
「君、それはまたずいぶんと持ち上げ――」
「実質そうでしょう? 今のやり方をもう少し制度化すれば、十分“研究所”の看板は掲げられる」
貴也は、さらりと言い切った。
「玲子くんにとっては、“骨の形を読む力”と“お金と書類を読む力”の両方を身につけることになる。
どちらも、三森先生の傍で生きていくなら、欠かせない武器だ」
玲子は、じっとテーブルの木目を見つめた。
自分の中で、モヤモヤと散らばっていた未来の断片が、すうっと一本の線につながっていく感覚がある。
「……大学には、普通に進学していいんですよね?」
「もちろん。飛び級するなら、高校の課程を圧縮して終える手続きが必要だが、そこは学園としてバックアップしよう。
ただし、これはあくまで“提案”だ。君が望まなければ、無理に勧めるつもりはない」
「……やりたいです」
玲子は顔を上げた。
その目は、さっきよりもずっと澄んでいる。
「ちゃんと大学で勉強して、お父さんの研究も手伝えて、
ついでにお金の管理も覚えられて、研究所の運営までできるようになるなら、
――それって、ものすごく贅沢なルートだと思います」
「“ついでに”って言うところが若いね」
啓司が苦笑しながらも、目の端にうっすらと涙を浮かべていた。
「玲子。本当にいいのかい。君は君で、自分の人生を――」
「だから言ってるんですよ、お父さん」
玲子は、少しだけ呆れたように、しかし優しく言った。
「わたしの人生の中に、お父さんの研究も入れたいんです。
“どっちかを選ぶ”んじゃなくて、“両方まとめて抱え込む”のが、三森玲子のやり方です」
「……強いなぁ、君は」
啓司は、どこか諦めたように笑い、すぐにそれが誇らしげな笑いに変わった。
「分かった。じゃあ、私も覚悟を決めよう。
自分の研究ノートを、人に読まれて恥ずかしくないレベルに整理するところから始めないとな」
「そこからですか」
玲子が思わず突っ込む。
貴也が、喉の奥でくすりと笑った。
「では、改めて。
玲子くんが望むなら、私の方で資産管理・契約・リスクヘッジなどの基礎を教える。
伊集院家の資産運用の一部を教材代わりに使ってもいい。
その代わり――」
そこで、ほんの少しだけ声を落とした。
「三森先生の研究、とくに“普通の大学では取り扱いにくい領域”について、整理された形で私にも共有してほしい」
「なるほど。借りを返せ、と」
啓司は、どこか楽しそうに目を細める。
「いいだろう。こちらも、話せる範囲で、だがね。
ハイパーボリア人の骨の話や、現代人に残った痕跡の話――君たち伊集院家が知っておいて損はない情報も、山ほどある」
「それは心強い」
貴也は、満足げに頷いた。
「じゃあ決まりですね」
玲子は、胸の中に溜まっていた霧が晴れていくのを感じていた。
飛び級も、大学も、研究も、家族も――
ひとつも諦めなくていいルートが、確かに目の前に示された。
「理事長先生。お願いします。
わたし、ちゃんと覚えて、お父さんの研究を守れる人になります」
「うん。その言葉を聞けて、私も嬉しいよ」
貴也は柔らかく笑う。
「三森先生」
「なんだね」
「……娘さん、ものすごく優秀で、ものすごく親孝行ですよ」
「知ってるよ」
啓司は、照れたように視線を逸らした。
「それをちゃんと言葉にする仕事が、君たちみたいな“世の中の表側を回せる人間”の役目なんだろうさ」
「お任せください」
伊集院貴也、逢瀬学園理事長。
彼のその一言に、どこか家と家の、そして“普通ではない世界”同士のゆるやかな同盟の気配が滲んでいた。
玲子は、自分の膝の上でそっと拳を握った。
――骨を読む力と、お金を読む力。
両方を手に入れて、お父さんの傍に立っていられる未来が、少しだけ現実味を帯びて見えた気がした。