◆安達彩女という女の子
安達彩女、十六歳。身長一七三センチ。
逢瀬学園高等部二年。体操部エース。
数字だけ並べれば、それなりに立派だ。
──でも、鏡を見ている本人としては、ちょっと言いたいことがある。
「……もうちょっと、こう……さ。上方向に分散してくれても良かったと思うんだよねぇ」
風呂上がりにタオルを肩に掛けたまま、ぽつりと呟く。
引き締まった腹筋、無駄のない太もも、よく動く肩。
全国ベスト8まで行った“器械体操用のボディ”は、評価しようと思えばいくらでも褒め言葉が出てくる。
──問題は、胸だ。
中学の頃は「これから伸びる」と信じていた。
今は「伸びるのは身長だけ」という現実を、だいたい受け入れている。だいたい、である。
/*/
「ポニテは邪魔なので切れ」
昔、そう言われたことがある。
鉄棒で大車輪を回していた時、監督の声だったか、誰の声だったかは、もうよく覚えていない。
でも、彩女のポニーテールが今も腰のあたりまである理由は、ひとつだけだ。
『似合ってるよ、その髪』
小学三年の夏、汗まみれで一緒に鬼ごっこをしていた、隣の家の男の子。
東青見が、ふいにそう言った。
当の本人は、きっと覚えていない。
けれど、言われた側は、割と一生覚えているものなのだ。
だから、今日もポニーテール。
ゴムでぎゅっと束ねて、後頭部で一度結んで、くるりと振ると、白い首筋に自分で少しだけ満足する。
「邪魔なら、わたしが慣れればいいだけだし」
誰にともなく言い訳をして、ジャージの上に学ラン型のブレザーを羽織る。
私服はほぼジーンズ。アクセサリーも化粧も、ほとんどしない。
──そういうものに構っている時間があったら、鉄棒を回していたい。
それが本音だ。
/*/
駅前の喫茶店《木馬》の焼きチーズケーキが、この町で一番うまい。
彩女はそう信じている。
「彩女ちゃん、いつもの?」
カウンターの奥からマスターが聞き、彩女は当然のように頷く。
「焼きチーズケーキと、ホット。砂糖二つ」
隣では、青見がメニューも見ずに、ブレンドと日替わりケーキを頼んでいる。
体操部と剣道部の合同地獄メニュー──という名の休日強化練習を終えた帰り道。
たくさん動いた分、甘いものはゼロカロリー。
そういう理屈を、彩女は本気で信じている。
「よく食べるよなぁ、彩女は」
「動いてるからいいの。あんたも、もっと肉食べなさいよ。線が細いの、見てて不安になるから」
「剣道部的には、これでも増量したんだけどな」
どうでもいいやり取りをしながら、窓の外に視線をやる。
夕方の風が、商店街のビニール幕をぱたぱたと揺らしていた。
その瞬間、ふと背中のあたりが、ぞわりとした。
視界の端で、ビニールの影が、何か別のもの──
たとえば、白銀の髪の束のように見えた気がして。
「どうした?」
「……なんでもない」
笑って誤魔化す。
胸の奥のざらつきと、それに引っかかるような感覚を、ぎゅっと押し込めるように。
安達が原の鬼。
風を従え、人を喰らう“喰人鬼”。
子供の頃、祖母が酔った勢いで零した「うちの血筋」の昔話を、本気で信じているわけじゃない。
覚醒だの、髪が白銀になるだの、瞳が金色になるだの──
そんなものは、怪談と同じカテゴリに押し込んである。
怪談は好きだ。
怖い話のまとめサイトも、深夜の心霊番組も、絶叫マシーンも、全部好き。
けれど、「自分がそうなる」なんて話は、さすがに笑えない。
今はただ、体操があって、学校があって、青見がいて。
駅前に焼きチーズケーキがあって、《王来》のチャーハンとギョーザがあって。
それで十分、と言い聞かせている。
/*/
「なぁ、彩女」
コーヒーを一口飲んでから、青見がぽつりと言った。
「もしさ、“これ”全部ほっぽって、どっか遠く行きたいってなったらさ。
そのときも、体操、続ける?」
「……何よ、唐突に」
言葉の意味を測りかねて、カップの縁を指でなぞる。
世界の“守り手”になりたい、とか言い出す男の子だ。
青見の口から出てくる「どっか遠く」は、きっと国内の有名大学とか、そういう話じゃ終わらない気がしている。
「別に夢ってほどじゃないけどさ。
……オレがどこ行っても、剣は続けるんだろうなって思って」
「ふーん。真面目ね、ワーカホリック」
からかうように笑ってみせる。
けれど、その笑いは自分でも分かるぐらい、少しだけ震えていた。
「じゃ、わたしの“願い”も言っとく」
「願い?」
「夢ってほど立派じゃないから。願い」
彩女は、ほんの少しだけ視線を落とし、言葉を選ぶ。
「わたしね。青見の隣にいるのが、当たり前でいたいの」
体操で結果を出すのも悪くない。
でも、それだけじゃ足りない。
「どこ行ってもさ。
わたしが横にいて、文句言って、蹴り入れて、ケーキ半分奪って。
そういうの、ずっとやってたいの」
世界を守る“誰か”の、隣に立つこと。
それが、安達彩女の「願い」だ。
「……それ、結構、重くない?」
「重かったら鍛えなさいよ、東くん」
名字で呼ぶときは、少しだけ照れている時だ。
自分でもそれを自覚しているから、余計に視線が合わせられない。
それでも、口だけは、相変わらずよく動く。
「わたしはさ。
いつか本当に“鬼”になっちゃったとしても──」
唇が、そこまで言って、ぴたりと止まる。
冗談でも口にしていい言葉なのか、最後の瞬間で迷った。
けれど、ここで引き下がったら、一生後悔する気がした。
「その時、いちばんそばにいるのは、あんたがいい」
ぽん、とテーブルの上で、自分の拳を軽く叩く。
「それが、わたしの“願い”」
青見は、すぐには何も言わなかった。
代わりに、窓の外から吹き込んだ風が、喫茶店のエアコンの風とぶつかり、
彩女のポニーテールを、ふわりと揺らした。
白銀でも金色でもない、ただの黒髪。
けれど、その向こうにうっすらと、「何か」が口を開けている気配を、
彩女は、ほんの一瞬だけ感じていた。