――どくん。
突然、鼓動が大きく跳ねた。
息が詰まる。
あの夜のように、心臓が胸の中で暴れだし、普段の五倍は重くなったみたいに感じる。
肺が圧迫されて、横隔膜はちゃんと動いているはずなのに、空気が入ってこない。
「……あ、」
な ん で …… こ ん な ……?
震える手を、意味もなく机についた。
心臓の鼓動だけがやけに大きくて、重くて、身体を支えていないと、その重さに潰されそうだった。
「……五線譜にフラットとシャープを加えて、この九線譜の音を試してみれば……」
誰かの声が聞こえる。
熱心に“楽譜”を解読しているのは、たぶん中原洋平くんだろう。
普段は目立たない、大人しいタイプ。だが吹奏楽部に所属していて、音楽に親しんでいる。
こういうときだけは、彼の出番だ。
ああ、それにしても――
どうして こんなに
きぶんが わるい?
そ――
「……青見!? あんた、どうしたの!」
彩女の声だ。
どうしてそんなに慌ててるんだ。何でもないのに――そう思おうとした瞬間、
「何でもないはずないでしょ、そんな……真っ青な顔して!!」
悲鳴に近い声が教室に響いた。
自分の顔色は分からないけれど、頬に手を当ててみると、真冬の寒空の下で何時間も突っ立っていたみたいに、氷のように冷え切っていた。
どうしてだろう。
小春日和の教室の中なのに、どうしてこんなに寒いんだろう。
「風邪じゃないのかい?」
惣一郎の手が額に触れる。
手のひらから伝わる体温が、じんわりとあたたかい。
「……冷え切ってるな。まさか、午前中ずっと墓前で過ごしたんじゃないだろうな?」
「ダメね、完全にぼーっとしてるわ。……仕方ないわね。こいつのこと、保健室に放り込んでくる」
ほら、来なさい。
彩女がオレの襟首をつかんで引っ張り上げる。
そのまま引きずられるようにして教室を出た。
――教室を離れることに、異論はなかった。
「じゃあ、ちょっと行ってくるわ。戻ってきたら、わたしにも教えてよね」
***(彩女の回想)***
静かだった。
大勢の人が集まっているのに、息づかいが小さな波みたいに聞こえるだけ。
空気は重く、押しつぶされそうで、線香の匂いがうんざりするほど立ち込めている。
押し殺した泣き声が、あちこちから漏れていた。
――突然のことだった。
あまりにも突然で、人の最期を見送る式だというのに、誰一人として気持ちの整理がついていない。
連続猟奇殺人事件。
新聞やテレビで聞いたことはあった。
でも、まさか「隣にいる人たち」がそうなるなんて、思ってもみなかった。
誰もが泣き、悲しみ、
そうでなければ、小声で噂話をしている。
ああ――
噂をしている顔が一番醜い、って聞いたことがあるけれど。
こんな気持ちで見ると、本当に、誰の顔も醜く見えた。
そんな中で、アイツは――
目の前で家族を、おじさんとおばさんを殺されたアイツは、
きゅっと顎を引いて、喪主の席についていた。
「……自分を捨てても守りたいものがあると教えてくれた。
命惜しさに逃げ出す……そんな弱さを越えた想いがあると、教えてくれた。
今はまだ、僕は自分がそんな価値ある人間だとは思えない。
だからこそ、僕は生きようと思う。
母さんが生んでくれた命で。
父さんが守ってくれた命で。
二人が安らかに……眠っ……て……いら……れるよう……に……。
僕は、前を、向いて、歩き、生き、続、け、よう……」
アイツが泣いたのは、そのときだけだった。
あとはずっと、顎を引いたまま、普段の軽口なんて想像もできないくらい雄々しい顔で――
納骨が終わるまで、まっすぐ立っていた。
それから、アイツは一人きりで家にいるようになった。
深夜。
わたしを眠りから引きずり出す叫び声が聞こえる。
窓の向こうから聞こえてくる、血を吐くような、胸を引き裂くような、哀しい声。
泣いている。
アイツは、ずっと泣いている。
眠れないのか、あれほど誘っても見向きもしなかった早朝のランニングを、アイツは始めた。
でも、いつも独り。
独りきりで走るアイツの心には、きっと哀しい雨が降り続いているんだろう。
どれだけ走っても、朝になれば何事もなかったみたいに通学路に姿を現す。
だから、聞けない。
何も聞けない。
いつも通り、アイツが口を開けば喧嘩になって。
いつも通り、いつも通り――。
わたしはアイツに、何もしてやれない。
幼馴染なのに。
何も、してやれない。
***(青見の回想)***
寒い。
どうして、こんなに寒いのか分からない。
ただ、ひたすらに寒い。
普通に生きる父さんを、心のどこかで馬鹿にしていた。
軽蔑していた。
自分は特別な人間だと信じていた。
つまらない大人にはならない、そう信じていた。
でも――
あのとき。
驚き、恐怖に立ちすくむオレの前に立ったのは、父さんだった。
軽蔑し、馬鹿にしていたその人が。
血塗れで倒れている母さんの前に立ちはだかる怪物。その前に、父さんが立った。
「逃げろ!」
声を限りにそう叫んで、オレを突き飛ばしたのは父さんだった。
そして――
オレは逃げた。
怖くて、逃げた。
恐ろしくて、逃げた。
逃げた。
逃げた。
逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。
逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。
逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。
普通って、なんだ?
特別って、なんだ?
そんな言葉さえ浮かばない。
ただ、逃げた。
ひたすら逃げた。
それしかできなかった。
逃げるだけの存在だった。
怖くて、恐ろしくて、
「怖い」という感情からも逃げたくて、オレはオレを手放した。
「……無様な」
「そうかな?」
「これを無様と呼ばず、なんと言う?」
「この子は、自分が特別だと思っていた。
軽蔑し、馬鹿にしていた父親が、彼を庇い、その命と引き換えに守った。
両親を亡くした悲しみ、驚き、現実を認めたくない思い――それだけじゃない。
なにより、ただ逃げるだけだった自分が許せなくて、自分を見ないようにしている」
「愚かだ」
「自分が許せないなら、自分自身に、自分を証明するしかない。
逝ってしまった人を愛しているなら――生きるしかない」
「それが出来なかったときは?」
「受け取った想いを芽吹かせるかどうかは、当人次第だ。
そのことで苦しむなら、それは彼が、それを芽吹かせたいと思っているから。
たとえそれが出来なくて倒れてしまっても、誰が彼を責められる?
彼を責めるのは、彼一人だけだ。
……人間は、すごいな。
どんなに平凡に生きてきた人でも、これだけのことが出来る。
だから、わたしは人を信じ続けたいと思うよ。
聞こえるかい?
自分を許せないなら、君は目覚めるべきだ」
――目が、覚めた。
……そうだ。
彼が教えてくれた。
この寒さは、「怖い」ということ。
怖さから逃げたオレは、その感情を、ただ「寒い」と感じ続けていた。
震えの残る身体。
そっと目を開けると、見慣れない天井が視界に入る。
ここは……保健室?
身体はまだ冷え切っている。
けれど、左手からだけは温もりが伝わっていた。
そのぬくもりは、身体よりも先に、心を暖めてくれる。
独りじゃない――そう教えてくれる温かさだった。
「……起きたの?」
険のある声。
顔を向けると、彩女が思ったより近くにいた。
あまり機嫌は良くなさそうだ。
それでも、左手から離れていこうとする温もりが惜しくて、オレは反射的にその手を握りしめた。
「ちょっ……!」
咄嗟に声を上げて振り払おうとした彩女の気勢を、真正面から見つめ返すことで止める。
そして、心からの言葉――感謝の言葉を、オレは彼女に向けた。
「ありがとう、な。……今、嬉しかった。
目が覚めて、『ああ、オレは独りじゃないんだな』って思えた。
心配かけて、ごめん……それと、本当にありがとう」
彩女は、呆れたように大きなため息をついた。
……そんなに変なこと、言っただろうか。
「……馬鹿ね。そんなの当たり前じゃない。
それより、あんたのせいで、わたしまで五時間目サボる羽目になったのよ。
立てる?」
うなずき、ゆっくり身体を起こす。
なるほど。それなら、確かに機嫌が悪くても仕方ない。
先に立って歩き出した彩女。
そのほっそりとした背中を見つめながら、ふと、思う。
オレには、彩女がいる。
惣一郎がいる。
先輩がいて、貴也さんがいて、竜樹さんがいる。
独りで震えているオレに、手を差しのべてくれる人たちがいる。
――あの子には、いるんだろうか。
オレに助けを求めてきた、名前も顔も知らない“あの子”には。