/*/ 三森邸・春の祝宴 /*/
春。
逢瀬学園の校門前の桜は、すでに七分咲きだった。
青見が二年になったばかりの春――そのすぐ後に、玲子も逢瀬学園の制服に袖を通した。
「じゃ、今日の夕方、ちゃんと時間どおり来るんだよ」
昼休み、校舎の渡り廊下で三森啓司にそう言われたのを思い出しながら、青見は隣を歩く二人をちらりと見る。
「頼まれなくても行くわよ。研究発表のお祝いでしょ?」
彩女が、春物のコートの裾をひらひらさせながら言う。
「ハンメルフェスト、だっけ。ノルウェーの北の方の」
「はい。お父さん、やっと評価されたって浮かれてました」
玲子はどこか嬉しそうに笑った。
「“今さら気づいたかノルウェー人め”って言ってましたけど」
「言いそう」
彩女と青見の声が綺麗に重なり、三人して笑う。
夕暮れ前、三人は連れ立って三森邸へ向かった。
◇
三森邸は、住宅街の中では頭ひとつ抜けて大きな、古い洋風の屋敷だった。
かつては資産家の象徴だったであろうそれも、今ではところどころ壁の塗装が剥がれ、庭も几帳面とは言い難い。
「それでは、お邪魔します」
「どうぞどうぞ。今日は働いてもらうからね」
玄関まで出迎えた啓司は、いつものよれたジャケットに蝶ネクタイという、気合いが入っているのかいないのかよく分からない格好だった。
「理事長先生たちは?」
「もう応接間に。謙吾さんもお見えだ。君たちはまずキッチンに行きたまえ。今日の料理長は青見くんと玲子だからね」
「何であたしは?」
「安達さんは、配膳係」
玲子がにっこりと告げる。
「お母さんのところで、盛り付けのセンス鍛えられてるでしょ?」
「……まあ、否定はしないけどさ」
彩女は口を尖らせながらも、エプロンを受け取った。
◇
キッチンは、応接間とは対照的に生活感のある空間だった。
大きなシンクとガスコンロ、使い込まれた木の作業台。
天井近くの棚には、銅鍋や鋳物のフライパンが並んでいる。
「じゃ、メインはローストポークでいいんですよね」
「うむ。下味は朝のうちに仕込んでおいた。オーブンの温度管理と付け合わせを頼みたい」
啓司はそう言うと、冷蔵庫からラップに包まれた塊肉を取り出した。
ハーブとにんにくの香りがふわりと立ちのぼる。
「わ、いい匂い」
「じゃあ、オレは野菜担当します。ジャガイモと人参と玉ねぎ……あと、彩女、サラダ頼めるか?」
「サラダくらいならね」
「“くらいなら”って言い方が不安なんだけど」
軽口を叩きながらも、青見の手つきは慣れていた。
包丁が、野菜の上を一定のリズムで走る。
「玲子は?」
「わたし、ソースやります。グレイビーと、付け合わせのマリネ。計量は得意ですから」
玲子は、計量カップとスプーンを並べ、手早く調味料を用意していく。その動きには、どこか実験室の空気があった。
「レモン汁、大さじ2……じゃなくて2.5で。こっちの豚なら、その方が合うはず」
「なんで分かるのよ」
「ハンメルフェストで食べた豚肉料理が、そんな感じだったので」
「現地フィードバックかよ」
三人で動き回るキッチンは、やがて肉の焼ける香りとハーブの匂いで満たされていった。
◇
一方その頃、応接間では――
三森邸の応接間は、来客用のためだけに手間がかけられた、古い洋風の部屋だった。
凝った細工の施された楕円形のテーブル。
壁には、見る人が見れば価値の分かる油絵が何枚もかかっている。
ソファはかつては豪奢だったであろうが、今は布地がやや色あせ、スプリングも少しへたっている。
その一角、壁際のサイドボードには、東西の高級洋酒のボトルがずらりと並んでいた。
贈答品として贈られたもので、どれも封が切られていない。
そして、その横には――気味の悪いことに、古い頭蓋骨が二つ並べて飾られている。
「相変わらず、客を選ぶ部屋だね」
グラスを手にしながら、伊集院謙吾が感心したように言った。
白髪混じりの髪をきちんと撫でつけているが、目の奥には少年のような好奇心が光っている。
「客の方がこの部屋を選ぶんですよ。ええ、本当に“話が通じる”人はね」
啓司が肩をすくめる。
「その頭蓋骨、まさか本物ではないでしょうね」
伊集院貴也が、ウィスキーのグラス越しに視線を向けた。
「まさか。ペキン原人とジャワ原人の精巧なレプリカですよ。助教授時代に授業用に特注してね」
「……普通の人が見たら、人間のものだと思いますよ、これは」
「そこがいいんです。見分けられる人と、見分けられない人の差がね」
啓司の目が、愉快そうに細められる。
「で、例のハンメルフェストでの発表だが」
謙吾が話題を切り替えた。
「随分と高い評価だったと聞く。向こうの大学から共同研究の話も来ているとか」
「まあ、“ようやく”と言ったところですが。
北欧の七十五万年前の地層から出た原人の手の骨に注目したのは、三十年前からなんですけどね」
「親指と人差し指の第二関節の形、だね」
貴也がさらりと言葉を挟んだ。
論文に目を通しているらしい。
「あれは、素人目にはほとんど分からない違いだが――」
「骨のラインを見慣れてくると、もう気味が悪いぐらい現代人と“繋がって”見えてくるんですよ。
完全に別物じゃなくて、“枝分かれしたどこかの親戚”みたいにね」
啓司は、指で空中に系統樹を描くような仕草をした。
「現場の人間からすると、“あんなもの”に注目するのは物好きの領分だが……」
謙吾はグラスを揺らしながら、少しだけ意味ありげな笑みを浮かべる。
「君がそれを追いかけてくれたおかげで、我々としても“線”が一本見えた気がするよ」
「伊集院家の事情は、私は深く聞きませんがね」
啓司は視線を窓の外に滑らせた。
「人類の系統樹に、“書いてはいけない枝”が一本や二本あったとしても、不思議じゃないでしょう」
その言葉の意味を、応接間の中で完全に理解しているのは、たぶん三人だけだった。
◇
やがて、キッチンからいい匂いとともに、子どもたちの声が近づいてきた。
「失礼します。お持ちします」
最初に入ってきたのは、エプロン姿の玲子だった。
その後ろから、オーブン皿を慎重に持った青見。
彩女は、サラダボウルとパンの籠を腰に乗せるようにして続く。
「おお、これは見事だ」
テーブルの中央にローストポークが置かれた瞬間、謙吾が感嘆の声を上げた。
こんがりと焼き上がった表面に、ローズマリーとガーリックの香りが立つ。
「彩女さんのサラダも綺麗だね」
「えっへん」
レタスとトマトとナッツ、薄くスライスしたリンゴが彩りよく盛り付けられたボウルは、確かに映えていた。
「では、グラスは……子どもたちはジュースでいいかな」
「はい」
全員のグラスに飲み物が行き渡ると、啓司が立ち上がる。
「本日は、私のささやかな論文を拾い上げてくれた北の国と、こうして集まってくれた皆さんに感謝して――」
「“ささやか”は嘘ですね」
玲子が小声でつぶやき、彩女が吹き出しそうになるのを必死で堪える。
「乾杯」
「乾杯」
グラスが触れ合う澄んだ音が、古びた応接間に響いた。
◇
食事が始まると、話題は自然と玲子の入学のことに移っていく。
「学校にはもう慣れたかい、玲子くん」
貴也が尋ねる。
「はい。まだ分からないことは多いですけど……逢瀬学園は、すごく過ごしやすいです」
「青見くんと同じクラスになれなかったのは、残念でしたね」
「はい」
「ちょっと!」
彩女が即座に突っ込みを入れる。
「それで飛び級を狙っているとか」
「理事長、追い打ちやめてください」
「ふふ」
玲子が、小さく笑った。
「でも、あの……」
言い淀んだ彼女の視線が、一瞬だけ啓司と貴也の間を行き来する。
「大学のこととか、お父さんの研究のこととかは……少しずつ、考えていきます」
「急がなくていい」
啓司が、娘の言葉を途中で受け取る。
「君はまだ十五だ。北欧の原人は七十五万年前だ。どちらも、そんなに慌てる話じゃない」
「……例えがよく分かるような、分からないような」
玲子が苦笑し、テーブルに笑いが広がった。
◇
食事が一段落すると、謙吾がふと思い出したように言った。
「三森先生。久しぶりに、あの“博物館”を見せてもらってもいいかね」
「ゲーム室の方ですか?」
「そう、ゲーム室と標本室。若い子たちにも、君の変態的な収集癖を見せておくべきだと思ってね」
「言い方!」
玲子が抗議する横で、啓司は楽しそうに立ち上がった。
「じゃあ、デザートはあっちでにしようか。安達さん、フルーツとケーキを運ぶのを手伝ってもらえるかな」
「はーい」
◇
三森邸のゲーム室は、かつての“優雅な遊び”の名残を色濃く残していた。
部屋の中央には、分厚い木枠のビリヤード台。
壁際にはカードテーブルと、凝った装飾のダーツボード。
どれも薄くホコリをかぶっており、最近使われた形跡はない。
「すご……」
思わず声を漏らしたのは彩女だった。
「映画でしか見たことないような部屋だ」
青見も、ぐるりと視線を巡らせる。
だが、この部屋の空気を決定づけているのは、遊び道具ではなかった。
隅の壁際に、学校の理科室にありそうなスチール製の陳列ケースが、何台も並んでいる。
それは、クラシカルなゲーム室にはあまりにも場違いで、だからこそ目を引いた。
「こっちが、本職の方だね」
啓司が、ケースのガラス扉を軽く叩く。
「わあ……」
中には、様々な頭骨や下顎骨、手足の骨のレプリカが整然と並んでいた。
ラベルには、年代と発掘地が記されている。
「これがジャワ原人、こっちがペキン原人。これはホモ・エレクトス、アフリカで見つかった方のね」
玲子が、ごく自然な調子で解説する。
「さすが助手だな」
「娘です」
「どっちもでしょ」
彩女が小声で突っ込む。
「……なんか、見られてるみたいだな」
青見は、ふと一体の頭骨の前で足を止めた。
眼窩の空洞が、照明の光を吸い込み、ただ暗く空いている。
「その感覚は、間違ってないかもしれないね」
謙吾が、意味ありげに呟く。
「ここら辺が、例の北欧のコレクションですか?」
貴也が、別のケースを覗き込んだ。
そこには、他よりも明らかに数の多い、同じ種類の骨が集められていた。
「ええ。ハンメルフェスト周辺の地層から出た原人たち。
手の骨が特に充実しているでしょう?」
啓司は、誇らしげに頷く。
「ここの親指と人差し指の第二関節を見てください。現代人と似ているようで、微妙に違う」
玲子も横から説明を添えた。
「こっちが現代人のレプリカ。関節の角度が違うの、分かります?」
彼女は、自分の右手を骨の前にかざしてみせる。
長く、しなやかな指。
骨格標本のラインと、不思議なほどよく合っていた。
「……へえ」
青見は、言葉にならない感覚を、曖昧な相槌で誤魔化した。
なにか、見てはいけない線を見てしまったような、そんな心地がしたからだ。
謙吾と貴也は、その様子を黙って見守っていた。
二人の目に、うっすらと複雑な色がよぎる。
「まあ、難しい話はさておき」
啓司が、わざとらしく手を叩いた。
「これは君たちの未来の教科書になるかもしれないし、ならないかもしれない。
ただ、覚えておいてほしいのは――」
言葉を区切り、子どもたち三人の顔を順番に見る。
「“どんなに古かろうと、どんなに変わっていようと、人間は意外と人間の形のまま”ってことです」
「……なんか、安心するような、安心しないような」
彩女がぽつりと言い、青見と玲子の肩が同時に揺れた。
その背中を、無数の眼窩が、ただ静かに見つめていた。
春の夕暮れ。
外ではまだ桜が揺れているというのに、三森邸のゲーム室には、七十五万年前の風が、ごく薄く、確かに流れていた。