/*/ 沈み口モール 雨の駐車場 /*/
モールの閉店アナウンスが、天井スピーカーから柔らかく流れてくる。
「本日もフォーシーズン・クロス郡山をご利用いただき、ありがとうございました――」
それに重なるように、ガラスの向こうで雨音が一段強くなった。
「うわ、ガチ降りじゃん」
「傘、学校に置いてきたんだけど……」
「わたしのに入る?」
「4人はさすがに無理でしょ」
エスカレーターを降りながら、惣一郎が苦笑いする。
改札もバス停も関係ない。ここから先は、単に「家まで歩いて帰るだけ」だ。
4人ともこのモールから徒歩圏内に住んでいる。
「まあ、びしゃびしゃになっても、どうせ家すぐだし」
「開き直り早っ」
自動ドアを抜けると、夜の駐車場は、街灯のオレンジ色が雨粒を線で描く、ぼやけた世界に変わっていた。
アスファルトには、ところどころ不自然な水たまりができている。
排水溝の近くでは、排水ポンプの駆動音が唸り続けているのに、なぜか水位は下がる気配どころか、じわじわと増しているように見えた。
「ポンプ、動いてるよな……?」
青見が、車止めの向こうで唸る銀色のボックスに目をやる。
「動いてる音はするね」
愛香が耳を澄ませる。
「止まってる感じじゃないのに、水、減ってないどころか――」
彩女が足元を見下ろした。
薄いスニーカーの底越しに、じわっと冷たいものが伝わってくる。
「これ、さっき通った時より水、増えてない?」
さっきまで乾いていたはずの白線の上にも、いつの間にか薄く水が張っている。
雨が強くなったから、と思えばそう見えなくもない。
――ただ、妙なのは。
駐車場の勾配に逆らうみたいに、水が“溜まっていく場所”があることだった。
「おーい! ブレーキ、ブレーキ!!」
少し離れた列で、怒鳴り声が上がる。
そちらを向いた瞬間、白いコンパクトカーが、ぬるりと横滑りしていくのが見えた。
「わっ?」
速度は出ていない。
それでも、まるで氷の上に乗ったみたいな、不自然な滑り方だった。
タイヤが空転する音はほとんどなく、車体だけが横にずれる。
そのまま、隣の車のバンパーにコツンと当たり、鈍い音を立てて止まった。
「あちゃー……」
「またかよ。今日で何台目だ?」
オレンジのベストを着た駐車場スタッフが、ため息をつきながら駆け寄る。
背中には、既に何度も同じ動きをしている人間特有の疲労がにじんでいた。
「すみません、ちゃんとブレーキ踏んだんですけど、ツルッと……」
「いやまあ、今日は滑りやすいですからね。とりあえず、ギア入れて少し前に出してみましょうか」
そんな会話を横目に、4人は足を止めて見守る。
運転手が困ったようにハンドルを切って少し前に出すと、前輪が水たまりを踏み、ポシャンと派手な水しぶきが上がった。
「あれ?」
青見の目が細くなる。
跳ね上がった水の中に、何か細いものが混じっていた。
「……今、根っこみたいなの、飛ばなかった?」
「根っこ?」
「ほら、あそこ」
当てられた側の車のタイヤハウスに、泥がべったりと貼りついている。
その泥の中に、細い糸の束のようなものが絡んでいた。
白くて、細くて、ひげのように分かれている。
――稲の根の切れ端。
田んぼで水を抜いたあとに残る、あの独特の、もしゃもしゃした繊維質の塊だ。
「え、ここ……田んぼだったっけ?」
彩女が思わず口にする。
「少なくとも、オレらが小学生の頃にはもう、ただの“窪地”だったな」
青見は記憶をたぐる。
「草ぼうぼうで、水たまってて。でも、稲は植わってなかった」
「それ、オカ研の部長が言ってたやつじゃない?」
惣一郎が、妙に楽しそうな顔になる。
「『鎮めのために捧げられた“鎮田(しずめだ)”の跡地』とか何とか。水を張ることで、地下の“渦”をなだめてたんだ、って」
「その設定、いつの間に増えたの……」
彩女は呆れ半分に言いながらも、さっき見た“稲の根”が頭から離れない。
ふと視線をずらすと、別の列で起きた小さな接触事故の車のタイヤの溝にも、同じような白い繊維が泥とともにこびりついていた。
「……ここ、最近、駐車場の事故多くない?」
愛香がぽつりと呟く。
「バイトの子が言ってた。『なんでこんなとこで、こんなにスリップするのか分かんない』って」
「多いよ」
即答したのは彩女だ。
「うちの父さんも言ってた。『このモール、駐車場の接触事故の割にニュースにならねえ』って」
「彩女ちゃんちのお父さん、警察だもんね」
「そう。現場からの通報はそれなりにあるのに、テレビとかニュース記事には、ほとんど出てこないんだって」
そのわりには、事故の瞬間は派手さがない。
スピード違反も、明らかなマナー違反もない。
ただ、“気付いたら”車が滑っている。
「……タイヤ、取られてんだよな」
ぽつりと、青見が言う。
「アスファルトじゃなくて、“何か”に」
「やめて、そういう言い方」
彩女はゾクリとして、傘の柄を握る手に力をこめた。
雨脚は、さっきより確実に強くなっている。
なのに排水ポンプの音は変わらず、むしろ小さく遠く聞こえ始めていた。
4人の足首を撫でるように、冷たい水がじわじわと寄ってくる。
水だけが、じわじわと――沈み口の中心へ向かって、集まっていく。
/*/ 沈みの夜 /*/
それから数日後。
前線が停滞し続けた結果、郡山は連日の長雨に見舞われていた。
「警報までは出てないけど、用のない外出は控えてください、か……」
ニュースアプリの通知を眺めながら、青見は小さく息を吐いた。
窓の向こうでは、見慣れた住宅街が白い雨のカーテンに溶けかけている。
そのとき、グループチャットが震えた。
《【オカ研】沈み口、下から水上がってきてる。
モールの地下ピット浸水中。
バイト先の人から聞いた。
近所組、見に来る?》
「……タイミング悪いな」
そう言いつつ、既に指は動いていた。
《行く。どうせ家から5分》《わたしも》《惣くんも強制参加ね》
結局、4人とも参加する流れになった。
カッパを着込んだり、大判の傘を引っ張り出したりして、それぞれの家から徒歩で沈み口モールへ向かう。
車の心配はいらない。
その代わり、足元はびしょぬれだ。
モールは営業時間を短縮しており、既に一般客向けの入口は閉まっていた。
裏口のひさしの下で雨を凌いでいると、設備担当の男性が、キーを持って顔を出す。
「君たちが、例の“近所組”か」
「お世話になります」
青見が頭を下げる。
「で、君が伊東くんだね?」
「はい。伊東惣一郎です」
男は惣一郎の顔を、まじまじと見つめたあと、ふっと目を細めた。
「……なるほど。伊集院前理事長――いや、会長さんにそっくりだ」
「やっぱ言われます? 母方のじいちゃんです」
惣一郎は、どこか照れくさそうに頭をかく。
伊集院謙吾。逢瀬学園の前理事長にして、伊集院グループ会長。
いまは学園の理事長を務める叔父・伊集院貴也が、惣一郎の正式な後見人だ。
「おじいさんには、地盤の件でいろいろ助言もらったからね」
設備担当は、苦笑混じりに続ける。
「『あそこの地下は掘りすぎるな。杭は浅く、盛土で蓋をしておけ』って、随分はっきり言われたよ。こっちとしては、もっとしっかり杭打ちたかったんだが」
「らしいですね……」
惣一郎は、どこか現実味のない気持ちでその言葉を聞いた。
夜逃げした両親の顔は、もうぼんやりしているのに――
滅多に会わない“じいちゃん”の影響力だけは、こうして生活の端々に現れる。
「今日、友達も一緒でいいですか? 勝手なことはしませんから」
「……まあ、見学ってことで。変なとこ触らないなら構わないよ。
会長さんの“お目付け役”がついてると思えば、こちらも心強いしね」
4人は頭を下げて、バックヤードへと通された。
コンクリート打ちっぱなしの廊下は、冷房とも違う、地下特有のひんやりした空気で満ちていた。
けれど、その冷たさにはどこか“湿りすぎている”違和感がある。
「ここから下が、例の調整ピット」
設備担当が、サービス用エレベーターのボタンを押す。
階数表示は「B1」で止まるはずが、その下に、さらに小さく「PIT」の文字がある。
「今日のトラブルって、ポンプの故障なんですか?」
愛香が、素朴な疑問を口にした。
「それがね。ちょっと、説明しづらいんだ」
男は苦い顔をした。
「さっき、自動運転の排水ポンプが“勝手に止まった”んだよ。ブレーカー見ても電源異常なし。モーターも生きてる。制御盤も正常。再起動しても、動いたり止まったりが妙でね」
「ポンプが止まったら、普通、水位は下がらないどころか、上がる一方ですよね?」
惣一郎が、理科の実験をなぞるみたいな調子で言う。
「そう。で――ポンプを止めてるあいだ、様子見てたんだが」
エレベーターが到着し、扉が開く。
ひんやりした空気がぶわっと押し寄せてきた。
「水位だけが、ゆっくり、しかし確実に上がり続けてる」
4人は言葉を失った。
コンクリートむき出しの通路を進むと、その先に格子扉付きの広い空間が開けている。
天井の配管から水滴が落ちる音が、ポツ、ポツ、と不規則に響いていた。
「ここが沈下対策で作った調整ピット。雨水と地下水の“逃げ場”だ」
設備担当が説明する。
「通常は一定以上溜まると自動でポンプが動いて、外の排水路に送る。
さっきまでは、ずっと動いてた。でも、止まった途端――」
ピットの縁まで近づいた瞬間、4人はそろって息を呑んだ。
水面が、近い。
床スレスレまではまだ少し余裕があるが、コンクリートの壁に刻まれた目盛りを見る限り、想定の半分以上が水で満たされている。
「……音、しない」
彩女が囁く。
「外、あんなに降ってるのに」
確かに、ここに届いているはずの雨音は、やたら遠く、薄く聞こえるだけだ。
その代わりに、ピットの中だけが、異様な静けさを保っている。
――水面が、静かすぎる。
豪雨が続いている夜だというのに、
水面には波紋がほとんど立っていない。
まるで、巨大な“鏡”を底に埋め込んだみたいに、黒々と滑らかだ。
「なんか、映ってない?」
彩女が、縁に身を乗り出しながら囁く。
隣で愛香が、彼女のフードをつまんで引き戻した。
「落ちないでよ、彩女ちゃん」
「分かってるって……」
4人とも同じ方向を覗き込む。
最初に映っているのは、当たり前のものだった。
ピットの天井、配管、非常用の照明。
だが、角度を少し変えて覗き込むと、その“鏡”の奥底に、別の“風景”がうっすらと重なって見える。
夕焼け色の空。
低い地平線。
一面に張られた、水を湛えた田んぼ。
稲の緑が揺れている。
風が吹き抜け、さざ波が走る。
「これ……沈み口の、前の姿だ」
彩女が小さく息を呑む。
「ショッピングセンターになる前。わたしたちが遊んでた頃より、もっと前の」
「鎮田(しずめだ)の窪地、ってやつか」
青見が、オカ研のレジュメで見せられた古い空撮写真を思い出す。
それだけではない。
視線をさらに落とすと、水田の下――“水の底”よりもさらに下に、何か暗いものが渦巻いているのが見えた。
黒い穴のようであり、巨大な根の束のようでもあり、別の何かの“眼”のようでもある。
その周囲を、白く細い繊維質がぐるぐると取り巻いている。
稲の根に似ているが、もっと長く、深く、ねじれている。
――あれが、“中陰の渦”。
オカルト研究会の部長が、郡山盆地の地下に眠ると主張していた、“見えない渦”のイメージが、否応なく頭に浮かぶ。
「無垢な盛土で蓋をして、道路で十字に縫い止めて……」
背後で、惣一郎がぽつりと言う。
「オカ研の言ってた“道路十字結界”、あながちハッタリでもなかったのかもな」
「でも、これ……全然“押さえ込めて”ないじゃん」
彩女の声には、震えが混じっていた。
水面は静かだ。
静かだからこそ、その奥で渦巻く“何か”が、よりはっきりと見える。
「盛土でかぶせただけで、下の“渦”そのものは残ってる。
田んぼで受け止めてた頃は、水と土だけを“食ってた”のが――」
青見は言葉を探し、ようやく口にする。
「今は、ここで動くもの全部が“餌”にされてる」
「車も、人も、さっきみたいなタイヤも?」
愛香が小さく問う。
「駐車場で“稲の根”が絡んでたの、偶然じゃないよね」
地盤そのものにはできるだけ触れないように、と言われていた。
杭を深く打つな、と。
削るな、盛れ、と。
それはつまり――
「“ここで何かを起こしたくない”っていうより、
“何かが起きた時に、こっち側に漏れ出さないようにしたい”ってことじゃない?」
彩女の言葉に、誰も反論できなかった。
無垢な盛土をかぶせた結果。
渦が“飲み込む対象”は変質した。
かつては、季節ごとに張り替えられる水と稲の根っこだけだったものが、
今は、コンクリートとアスファルトの隙間から、タイヤを、車体を、そこを走る人間の“足場”そのものを、少しずつ少しずつ、齧り取っている。
「でもさ」
惣一郎が、無理に明るい声を出そうとしながら、ピットの縁から半歩下がった。
「まだ、全部食われてるわけじゃない。ポンプも一応、生きてる。こうして見えてるってことは、完全に“向こう側”になったわけでもないってことだろ」
「楽観的すぎ」
彩女は鼻で笑う。
「でも、そのぐらいの方が、まだマシかも」
青見も、少しだけ肩の力を抜いた。
その瞬間。
水面の奥で、暗い渦が、ゆっくりと向きを変えた気がした。
誰かが覗き込んでいることに、気付いた、そんな動き。
壁際で点滅していた警告灯が、一瞬だけチカッと強く輝く。
その瞬間、水面に映っていた“田んぼの風景”が、細かく砕けた。
代わりに浮かび上がったのは――現在の沈み口モールの駐車場だった。
雨の夜。
白線。
車列。
その間を、何か細いものがうごめいている。
さっき見た“稲の根”の切れ端と同じ白い線が、タイヤの影を這い回り、時々、地面の下へ潜り込んでは姿を消す。
「……見られてるの、オレたちだけじゃないな」
惣一郎が、乾いた声で笑った。
青見の背筋に、冷たいものが走る。
“渦”の視線が、ここからだけでなく、駐車場からも、道路からも、四十九囲区全体から、じわじわとこちらへ向き始めているような感覚。
無垢な盛土で蓋をしたつもりが、
その実、中にいた“何か”に、新しい口を与えてしまっただけなのだ――
その事実に、ようやく4人は気付いた。
沈み口モールの地下で、水は今日も、ゆっくり、しかし確実に上がり続けている。
ピットの縁から床面までの距離は、さっきより、ほんのわずかだが、確かに狭まっていた。