沈黙を破ったのは、いちばん空気を読まない男だった。
「……すげぇ!」
惣一郎が、ぽんと手すりを叩く。
「オカルトだ! ガチでオカルトだ! 面白ぇから、俺は沈み口モールでバイトするぞ、JoJo!」
「誰がジョジョだ」
即座にツッコむ青見。
この流れ、何度目か分からない。
「ねえ惣一郎、本気?」
彩女がじっと顔を覗き込む。
「そういう“面白そう”だけで言ってない?」
「半分は面白そうだからだけど、半分はマジだぞ?」
惣一郎は、親指でピットを指しながら胸を張った。
「こんなん、最前列で観察できる現場バイト、他にあるか? 謎の浸水、勝手に増える水位、“中陰の渦”疑惑。ネタの宝庫じゃん」
「惣くん、止めた方が……」
愛香の声には、はっきりとした“恐れ”が滲んでいた。
――ここは悪い。
水の匂い、土の匂い、その奥に混ざる“何か”の匂い。
人間には曖昧な湿気の違いとしか感じられないソレを、愛香の内側に棲む“別のもの”は、もっと具体的に嗅ぎ分けていた。
(……腐ってる。
ただの地下水じゃない。
食べ物じゃない“何か”を、無理やり溶かして押し込めた匂い)
惣一郎は、知らない。
自分の生命力が、普段から少しずつ“食べられて”いることも。
その取り分を、ほとんど全部、目の前の少女が横取りしていることも。
(惣くんを食べていいのは、わたしだけなのに)
心の中で、誰にも聞こえないわがままを呟く。
――だからこそ、こんな場所に長居させたくなかった。
「な、なんで止めんだよ、愛香」
「だって……だって、惣くん、こういうのに“巻き込まれ体質”じゃん」
「それは否定できない」
青見が淡々と頷く。
「お前がいるところ、だいたい何か起きるしな」
「え、そこは否定してくれないの?」
「事実だからなあ」
「そういうとこだぞ、青見」
軽口が交わされる。
けれど、その軽さは、さっきまでピットを満たしていた重苦しい沈黙を、ほんの少しだけ薄くしてくれた。
「……バイトの話なら、上のフロアで募集してるぞ」
それまで黙っていた設備担当の男が、苦笑しながら口を挟んだ。
「フードコートとか、売り場とか。人手はいつでも足りてない。
でも、地下ピットの巡回は社員じゃなきゃ駄目だ。高校生バイトには回せないよ」
「え、マジですか。
“禁断の地下ピット見回りバイト”とかじゃないんですか」
「そんな名前で募集したら労基に怒られるわ」
男は肩をすくめてから、4人を順番に見渡した。
「それに……あんまり、ここに慣れない方がいい。
今日君たちを連れてきたのは、どっちかというと“危機感を持ってほしいから”であってね」
「危機感……」
「この水がもし、ピットから溢れたらどうなるか。
外の排水路でさばき切れなかった時、どこに流れ込むか。
君たちの家の方角、ちゃんと頭に入れておきなさい」
さらっとした口調なのに、その言葉は重かった。
四十九囲区。
国道と高速道路の十字。
鎮田と、その下の“渦”。
全部、どこかで繋がっているのだとしたら――
「……でもさ」
惣一郎は、ヘラッと笑った。
「誰かが見てないと、もっとヤバいことになりそうじゃね?
“よく分かんないけど怖いから蓋して放置しました”の結果が、今これなわけで」
その言い方は乱暴だけれど、本質を突いている部分もある。
無垢な盛土で塞いだだけ。
道路を十字に走らせて、「結界」と称して満足しただけ。
そして今、地下では“何か”がゆっくりと目を覚ましつつある。
「だからさ。
俺、上のフロアでバイトしつつ、時々おじさんに様子聞きに来るわ。
“沈み口ウォッチャー”として」
「変な肩書き増やさないで」
彩女が額を押さえる。
「でも……そうね。誰も気にしなくなった時が、いちばん危ないのかも」
「わたしは反対だからね」
愛香ははっきりと言った。
「惣くんがバイトするなら、わたしも一緒にする。
ひとりでここに近づくのは、絶対駄目」
「え、なんでお前まで……」
「惣くん見てないと、なに食べさせられるか分かんないから」
言葉の意味を、表面だけ受け取れば、ただの“過保護な彼女宣言”だ。
だが、その裏にはもっと別のニュアンスが隠れていることを、この場で正確に理解できる人間はいない。
「……心配されてんぞ、惣一郎」
「うるせぇ。
でもまあ、一緒にバイトするのは別にいいけどさ」
惣一郎は、ピットの水面をもう一度だけ見下ろした。
さっきより、ほんのすこしだけ、目盛りが上を指している気がする。
「なあ、“渦さん”よ」
誰にともなく呟く。
「こっちはこっちで、好きにさせてもらうからな。
好き勝手“食われてる”の、黙って見てる気はねえよ」
もちろん、返事はない。
水面は相変わらず、静かな鏡のままだ。
けれど、ほんの刹那。
鏡の奥で、白い根の束の一部が、わずかに“逆立つ”ように見えた。
挑発に反応したのか。
単なる見間違いか。
それを確かめる前に、設備担当が手を叩く。
「そろそろ上がろう。君たちをいつまでもここに置いとくわけにいかないからね」
「はい」
4人はそれぞれ、名残惜しさとほっとした気持ちを抱えながら、ピットから離れた。
エレベーターに乗り込む直前、青見だけが、もう一度だけ振り返る。
黒い鏡のような水面。
その奥にうごめく、形を持たない“何か”。
――夏の怪異で、世界の“向こう側”を覗いてしまった目だけが、薄々と理解していた。
(これは、あの時の続きじゃない。
別の“筋”に見えるけど、きっと、どこかで繋がってる)
あの夏、失われたものの代わりに、胸の内側に残された“剣”。
それを、いつかここで抜く日が来るのかもしれない――そんな予感が、雨音よりも静かに、青見の背骨を撫でていった。