/*/ 地上へ /*/
エレベーターの扉が閉まると、地下の冷たい空気が切り離されていく。
「……はー……生きて帰ってきた感あるな」
惣一郎が、胸の前で軽く手を合わせてみせる。
軽口だけれど、誰も「おおげさ」とは言わなかった。
カン、と小さな音がして、階数表示がB1で止まる。
扉が開くと、そこにはいつもの――と言うには少し薄暗い、従業員用バックヤードの蛍光灯の光があった。
「今日はここまでだ。上のフロアに戻ったら、そのまま帰っていいよ」
設備担当の男が言う。
「この件はこっちで会社に上げておく。君たちは……できるだけ、普通に生活しなさい」
「“できれば”でいいなら」
惣一郎が肩をすくめる。
「まあ、ちょっとは慎重に暮らすわ」
「慎重に、って言葉の似合わなさでは校内一だよね、惣くん」
愛香がぼそっと言って、すぐに小さく付け足す。
「……ほんとに、気を付けてね」
バックヤードからスタッフ用通路を抜けていくと、閉店後のモールの静けさが、ガラス越しに広がっていた。
さっきまでいたフロアも、照明が半分落とされて、どこか別の場所みたいに見える。
自動ドアまで案内され、外に出る直前、設備担当がひとことだけ付け足した。
「さっきも言ったけど――」
「“ここに慣れない方がいい”ですよね」
青見が代わりに言う。
「ああ。それと、もしまた変なことを見たら、すぐに誰か大人に言いなさい。
学校の先生でもいいし、警察でも。……もちろん、惣一郎くんのおじいさんでもね」
「了解です」
軽く会釈して、4人は外へ出た。
/*/ 雨の帰り道 /*/
ひさしを抜けた瞬間、雨音が一気に濃くなる。
「うわ、悪化してるじゃん」
「これは“家すぐだから”で済むレベルじゃないわね」
「文句言っても止まらないしなあ、空の上の誰かに」
アスファルトの上には、昼間よりさらに広い水たまりがいくつもできていた。
駐車場の端から端まで、細い流れが幾筋も走り、排水溝へ向かっている――はずなのに。
「やっぱ、おかしいよね、これ」
愛香が、少し眉を寄せる。
水の動きが、どこか“逆流”している気がした。
低いところへ向かうはずの雨水が、ときどき斜面を逆らって、沈み口モールの中心に寄っていく。
それは、さっき地下で見た“渦”と同じ方向だった。
「とりあえず、出よう」
青見が言う。
「ここに長居すると、感覚まで引きずられそうだ」
駐車場を抜け、歩道へ出る。
国道へ続く大通りは、ヘッドライトの帯が濡れた路面を滑っていく音でいっぱいだ。
四十九囲区。
十字に走る4号・49号・E4・E49。
その真ん中から、4人は雨の中を歩いて出ていく。
「なあ」
信号待ちの横断歩道で、惣一郎がぽんと手を叩く。
「やっぱ俺、ここでバイトするわ」
「さっきの話、まだ本気だったの?」
彩女がうんざりしたように言う。
「普通、今の見せられたら“二度と来たくない”ってなるでしょ」
「逆だ逆。あれを見ちゃった以上、“見てなきゃまずい”側に回るでしょ」
「その発想が既にオカ研だよ」
「入部届出してないだけで、もうオカ研だよね、惣くん」
愛香が小さく笑うが、その声はどこか引きつっている。
「バイトするなら、上のフロアだぞ」
青見が釘を刺した。
「地下は社員しか入れないって、さっき言われたろ」
「だから上から攻めるんだよ」
「攻めるな」
「沈み口ウォッチャーとして、日々の湿度と床のきしみを監視し――」
「そんなバイト、募集してないからね?」
彩女が即座に切り捨てる。
信号が青に変わる。
4人は同時に歩き出した。
足元の横断歩道には、白いラインの間に水たまりができている。
そのひとつに、ふと視線を落とした瞬間――
「……あれ?」
青見の足が、半歩だけ止まった。
水たまりに映っているのは、4人分の影と、信号機と、車のライト。
そこまでは普通だ。
けれど、その奥。
水面のもっと深いところに、別のものが貼り付いている。
見慣れた街並みのはずなのに、看板が一枚、見たことのない店のものに変わっている。
「レンタルビデオ」と書かれた古い看板。
もうずっと前に閉店したはずの店が、そこではまだ生きていた。
(……時間、ずれてる?)
瞬きをしたら、元に戻っていた。
ただの反射。
ただの見間違い。
そう言い聞かせるには、胸の奥がざわつきすぎていた。
「どうした、青見?」
「いや、なんでもない」
本当に“なんでもない”わけがない。
だが、ここで立ち止まると、何かを連れて帰ってしまう気がして、彼は歩を緩めなかった。
交差点を渡り切ると、道は自然に二手に分かれる。
「じゃ、うちはこっちだから」
惣一郎が、愛香と同じ方向を指さす。
「バイトの書類、明日もらってくるかなー」
「本気で言ってるんだ……」
彩女が呆れたように眉を下げる。
「止めても無駄だぞ、彩女ちゃん」
愛香が小さく肩をすくめる。
「止めるけど。何回でも」
「頼んだ」
青見が、真顔で言う。
「惣一郎を“変な方”にだけは持っていかないでくれ」
「“だけは”って何? 他はいいの?」
「ある程度の変さは諦めるしかないからな」
「ひでぇ」
そんなやり取りを最後に、惣一郎と愛香は、雨の夜道を並んで歩き去っていく。
残された青見と彩女は、反対側の道を選んだ。
ふたりの家は、隣同士だ。
「……さっきのさ」
住宅街に入って、車の音が遠のいたあたりで、彩女がぽつりと言った。
「沈み口の水に映ってた田んぼとか、よく分かんない根っことか。
怖かった?」
「怖くないって言ったら、嘘になるな」
青見は正直に答える。
「でも、“知れてよかった”って気持ちもある」
「知っちゃったから、余計に怖いってのもあるけどね」
彩女は、傘の柄をくるくると回した。
雫が円を描いて飛び散る。
「……ねえ。ほんとに、無理そうなら、うち来てもいいから」
「は?」
唐突な提案に、青見は思わず足を止めた。
「いや、その。怖いとか、そういうのじゃなくて」
彩女は自分で言い出しておきながら、少し頬を赤くする。
「一人で家にいると、いろいろ考えちゃうでしょ。あの夏のこととかさ。
だから、そういう時は、うちのリビングのテレビでどうでもいいバラエティ見て、頭空っぽにしてさ。……そういう時間もアリかなって」
あの夏――という言葉が出た瞬間、空気が一瞬だけ重くなる。
連続猟奇殺人事件。
突然、隣の家から“家族”という単語が消えた夜。
線香の匂いと、押し殺した泣き声。
あのときの記憶は、雨の日になると、勝手に色を濃くして蘇る。
「……ありがとな」
短く、それだけ言って、青見は前を向いた。
「今日は、平気。
あの時みたいに、ただ“奪われる”だけじゃないって、ちょっと分かったから」
「奪われる、だけじゃない?」
「うん。
飲み込まれるだけの場所なら、とっくにここ、街ごと沈んでる」
四十九囲区。
死と死苦の数字で縫い止められた、道路十字結界。
鎮田の窪地。
中陰の渦。
どれもこれも、誰かが“抗おうとして作ったもの”でもある。
「だからまあ。
もし次、本格的に“こっち側”に手を伸ばしてきたら、その時は――」
胸の奥で、見えない剣が、静かに鳴った気がした。
災厄を狩る幻想の刃。
あの夏の終わりに、生き残った少年の中にだけ残された“始まりの力”。
「その時は、その時だ」
「……ほんっと、そういうとこだけ主人公っぽいんだよね、あんた」
彩女は、わざとらしくため息をついてみせる。
「主人公なら、もうちょっと人を頼る練習しなさい。
剣だか何だか知らないけど、ひとりで振り回す気なら――」
そこまで言って、ふっと笑う。
「わたしが横から奪って使うから」
「物騒な宣言やめろ」
「冗談半分、本気半分」
そうやって笑い合っているうちに、ふたりの家の並ぶ角に着いた。
「じゃ、また明日」
「おう」
それぞれの玄関へ向かう足音が、雨音に紛れて遠ざかっていく。
/*/ 沈み口モール・応募フォーム /*/
その頃。
「……よし、入力完了!」
惣一郎は、自室のパソコンの前でガッツポーズをしていた。
画面には「フォーシーズン・クロス郡山 スタッフ募集」の応募フォーム。
「希望部署……フードコートでもいいけど、やっぱインフォメーションとかカッコよくない?」
「その顔で案内所は無理だと思うよ」
ベッドに寝転がっていた愛香が、即座にツッコミを入れる。
「お客様困るから、裏方の方がいいんじゃないかな」
「ひどくない!? でもまあ、裏方の方が沈み口ウォッチャー的には動きやすいか……」
ぐだぐだ言いながら、希望職種欄を「館内軽作業・バックヤード」にチェックする。
――そのときだった。
「あれ?」
愛香が、画面を覗き込んで、小さく首を傾げた。
「今、一瞬、“夜間巡回監視員(沈み口エリア)”って出なかった?」
「は? どこどこ」
惣一郎が慌てて戻るキーを連打する。
だが、フォームの選択肢は、最初から最後まで「売り場スタッフ」「フードコート」「清掃」「バックヤード軽作業」しかない。
「気のせいじゃない?」
「……かなぁ」
愛香の目には、さっき確かに、“そこにあるはずのない選択肢”が一瞬だけ挟まった。
夜間巡回監視員(沈み口エリア)
シフト:23:00~翌4:00
資格:高校生不可/要特別許可
読み切る前に、選択肢ごと画面から溶けるように消えた。
(……やっぱり、ここ、良くない)
愛香は、惣一郎の背中をじっと見た。
画面の光に照らされたその輪郭を、好きだと思う気持ちと同じくらい、守りたいと思う。
(惣くんを“あそこ”に取らせない)
そのためなら、自分がどれだけ“怪物側”に傾いても構わない――
そんな決意が、静かに胸の底で固まっていく。
「よし、送信っと」
惣一郎が、確認ボタンをクリックする。
画面には「送信が完了しました。担当者からの連絡をお待ちください」と表示された。
その下、スクロールしなければ見えない位置に、小さな注意書きが一行だけある。
『※沈み口エリアの立ち入りには、別途申請と許可が必要です』
彼はそれに気付かないまま、ブラウザを閉じた。
外では、まだ雨が降り続いている。
四十九囲区のどこかで、水面に映る風景が、ほんのわずかに「向こう側」に寄った。
沈み口は、ゆっくりと、しかし確実に――次の“客”を待っていた。