/*/ 松坂家の夜 /*/
伊集院本社ビルを出て、惣一郎が「サイン取れた」とチャットに送っていた頃。
四十九囲区の外れにある古いアパートの一室でも、ひとつの画面が白い光を放っていた。
「……あら、もうこんな時間」
ノートPCの前で、松坂理恵子はそっと眼鏡を外した。
肩で切りそろえた黒髪を指先でかき上げ、軽く首を回す。
画面には、伊集院グループのグループウェア。
「伊集院貴也スケジュール管理」のタブには、来週以降の予定が細かく埋められている。
その一角に、さきほど追加した予定があった。
――「沈み口モール地下設備・非公開ブリーフィング」
「理恵子さん、明日の午前は例の会合を押さえてください。
沈み口モールの件で、行政側とも一度きちんと話をしておきたいので」
数時間前のオンライン会議で、貴也はそう告げた。
あの、涼しい笑みのままで。
「かしこまりました、伊集院理事長」
自分がそう返事をした時の声を思い出して、理恵子は小さく笑う。
昔の自分から見れば滑稽なほど、“従順な秘書”の口ぶりだ。
「……ただいまー」
玄関のドアが開く音。
スニーカーを脱いで上がってくる足音は、聞き慣れたリズムだ。
「おかえり、愛香。遅かったわね」
「ちょっと寄り道。惣くん、伊集院ビル行ってたから」
「そう」
理恵子はPCの画面を閉じて、振り返る。
制服の裾をちょいちょいと直しながら、松坂愛香が部屋に入ってきた。
母親より少し明るい髪色。まだあどけなさの残る顔立ち。
ぱっと見は、ごく普通の高校生の娘と、その母親だ。
――中身の方は、あまりにも普通ではないけれど。
「惣一郎くん、どうしてた?」
「バイトの許可もらいに、理事長さんと、会長さんと話してきたって。
昼間だけならOK、夜間の変なのは“保留”だって」
「あら。思ったより慎重」
理恵子は、ふぅと息を吐いた。
「会長さん――謙吾様の方が、もっと強引に駒を進めるかと思っていたのだけれど」
「“駒”って言い切るのやめよ?」
愛香は鞄をソファに放り出しながら、苦笑する。
けれど、母の言葉を完全に否定しきれない自分もいる。
伊集院謙吾。
四十九囲区の道路十字を別の意味で引いた張本人。
そして、母娘を今、この街に繋ぎ止めている“手綱”の片方でもある。
「貴也さんの方は?」
「“まずは様子見を”って。
甥御さんに、いきなり夜勤の首輪を掛ける気はないみたいよ」
“首輪”という言葉に、母娘は同時に、ほんの少しだけ肩をすくめた。
/*/ 喜多島の記憶 /*/
――アスファルトじゃなく、湿った火山灰の匂い。
――街灯じゃなく、波間で砕ける白い泡の光。
愛香がキッチンでマグカップを取り出している気配を背に、
理恵子の意識は、ふっと遠い海へ引き戻される。
九州沖の小さな島、喜多島。
地図の端に小さく名前が載るかどうかの、忘れられた土地。
島の“本当の住人”の歴史を、幼い頃から彼女は聞かされてきた。
――昔々、大きな揺れがあってね。
――井戸が、地の底の“胎”と繋がってしまったんだよ。
それはおよそ百五十年前の地震だったという。
家々は潰れず、土砂崩れも起きなかった。
ただひとつ、島の井戸の底が、
アブホースの棲む地下世界へと穿ち抜かれた。
どろりと溢れ出した“胎の肉”は、
そのまま村を飲み込み、島民も、家畜も、森も、田畑も、ぜんぶ吸い尽くした。
その夜のうちに、喜多島は元の姿を失くした。
――それでも、地理的には本土に近い島だったからね。
――しばらくして、また人がやってきたんだ。
海からの風を防ぐために防風林が植えられ、
田畑が開かれ、小さな集落が戻った。
ただし、その“新しい島民”たちは――
人間の姿を真似たアブホースの落し子だった。
井戸から溢れた“神の残りかす”。
自分ではろくに動けない、脆い肉の塊。
それらが、入植してきた人々の精神力を吸い、
形を真似、言葉を真似し、やがて人間と見分けのつかない姿に育っていく。
けれど、アブホースの落し子には寿命がある。
百年ほど生きると、老衰して死ぬ。
だから彼らは、自分たちだけのコロニーを維持するため、
新しい仲間を増やす手段を探した。
それが、「まれびと」の儀式だ。
九年に一度、本土からひとり。
行方不明になっても大騒ぎされないような人間を選び、
島に招き入れ、丁重にもてなし、
それからゆっくり、じわじわと、
霊的な力と意志の強さ――生命力を吸い尽くす。
そうして空っぽになった“器”は死に、
代わりに、涸れ井戸から湧いた落し子が、ひとり分だけ“人間の形”に成長する。
――十八年前。
その“九年に一度”のまれびとが、東京の大学生・白江剛だった。
強い意志と、しぶとい精神を持った青年。
けれど、欲張りな落し子のひとつが彼と融合してしまい、
白江剛は人とも怪物ともつかぬ姿で森に飼い殺しにされた。
その九年後。
今度のまれびとが、横井治。
家族の反対を押し切り、十八歳の理恵子に魅せられて島に来た青年だ。
――足を一本奪われ、
――心を削がれ、
――最後には、アブホースの落し子の糧になった。
その横井治の生命力を糧に育った落し子が、
松坂愛香である。
だから、戸籍上の“父親”はいない。
彼女にとっての“父”は、名前も顔も、過去の儀式の記録の中にしか残っていない。
理恵子自身も、父のいない子だった。
島に生まれた時から、“普通ではない子”として扱われてきた。
皮膚の下に、余計な肉がある。
傷が塞がる時、他の子よりもずっと早く、そしてどろりと再生する。
裸足で海辺を歩けば、
足の裏からひげ根のようなものが伸び、びしょ濡れの岩を掴む。
それを気味悪がる代わりに、
年寄りたちは頭を下げた。
「鎮めておくれや。
お前さんの中の“それ”で、島を喰い尽くされんようにな」
――だから理恵子は、“鎮め役”となった。
涸れ井戸から湧く落し子たちを管理し、
まれびとを迎え入れ、
島の外との接触を最低限に抑える役目を負った。
……そこに、伊集院貴也が来た。
東京から来た“地質調査の人間”。
実際には、九州で起きた不可解な行方不明事件――白江剛の足跡を辿って、
喜多島にたどり着いた男。
理恵子は、彼を次の“まれびと”にするつもりだった。
アブホースの落し子の糧として、井戸の底へ沈めるつもりだった。
断崖下の洞窟。
胎蔵のぬめる匂い。
そこに踏み込んだ貴也は、恐れも見せずに笑った。
『君たちは、肉を持っている。
私は、理を持っている。
世界を動かすのは、どちらだと思う?』
その瞬間、“底”が揺らいだ。
アブホースの残りかすたちが、
初めて“人間の言葉”に耳を傾けた。
――喰うつもりが、逆に“契約”を結ばれた。
喜多島のコロニー全体が、
伊集院貴也という“黄昏の天使”に紐づけられてしまったのだ。
アブホースの落し子たちは、
単なる怪物ではなく、管理される資源になった。
理恵子と、生まれたばかりの愛香は、
その中でも地上で活動できる「端末」として選ばれ、
本土へ連れ出された。
――あの洞窟から、いきなり高層ビル群へ。
――海鳴りから、エレベーターのモーター音へ。
世界がひっくり返った感覚を、理恵子は今でも忘れない。
/*/ 母娘の会話 /*/
「……また、喜多島のこと?」
お茶を淹れながら、愛香がふっと尋ねる。
「少しだけね」
理恵子は、苦笑した。
「いい思い出ばかりじゃないでしょう、あそこ」
「いい思い出もあるわよ。海はきれいだったし、魚も美味しかった」
「人間関係がぜんぶバグってただけで?」
「ええ。それと、地の底もね」
軽く冗談めかすが、その瞳の奥には海の底の色がちらりと揺れた。
「惣くんのこと、貴也さんには?」
「もちろん」
理恵子は、湯気の立つマグカップをテーブルに置き、娘の向かいに座る。
「“甥御さんが沈み口モールでバイトしたいと言っています”って報告したら、
あの人――」
少し口元が歪む。
「『いいですね。
落し子の守りは、落し子に任せるのが一番だ』って」
「……やっぱり、全部分かってんだ」
愛香は眉をひそめる。
「わたしたちが何者かも、“何を喰えるか”も」
「当然じゃない。
あの人が、何も知らないまま私たちをそばに置くと思う?」
喜多島の洞窟で交わした“契約”は、
理恵子の肉にまで染み込んでいる。
「でも――」
愛香は、ぎゅっとマグカップを握った。
「惣くんのことを、“結界の駒”としてしか見てないなら。
わたしは、そこに噛みつくから」
「噛みつくって……あなた、誰に?」
「伊集院家全員に」
さらっと言い切る娘に、理恵子は思わず吹き出す。
「大胆ねぇ」
「だって、惣くんはわたしのだもん」
その言い方は、恋する少女の独占欲のように聞こえる。
けれどそこには、アブホースの落し子としての本能も混ざっていた。
――自分の“糧”に、印をつける行為。
――他の淀みに奪わせないための、小さな牙。
「大丈夫よ」
理恵子は、娘のマグカップにそっと手を触れた。
「少なくとも、貴也さんは惣一郎くんを粗末には扱わない。
あの人にとっても、“血のつながった駒”は貴重だから」
「慰めになってるような、なってないような……」
「だからこそ、“あなた”の出番なのよ」
母の目が、少しだけ細くなる。
その奥には、海の底で蠢く闇とは別の、人間としての計算高さが光った。
「沈み口エリアがどう動こうと、四九号結界がどれだけ軋もうと。
惣一郎くんのすぐそばに、“アブホースの落し子”がいる。
その事実は、何より強い保険になる」
「保険、ねぇ」
「もし“渦”が本気で彼を取りにきたら――」
理恵子は、あえて軽く告げる。
「一緒に食べてしまいなさい」
「……うん」
愛香は、静かに頷いた。
“食べる”という言葉には、いくつもの意味が折り畳まれている。
惣一郎の生命力を、今まで以上に自分の中へ引き受けること。
彼を狙う“向こう側”の気配を、先に喰ってしまうこと。
そして――
(惣くんが向こう側に持っていかれそうになったら。
こっち側に、ぎゅっと繋ぎ止めておく)
それはきっと、“守る”という言葉と、そんなに違わない。
/*/ 沈み口の遠鳴り /*/
その夜。
沈み口モールの地下ピットでは、水面の下で、わずかな変化が起きていた。
中陰の渦。
黒い穴のようであり、絡まり合う根の束のようでもある“何か”が、
遠く離れた二つの気配をなぞる。
ひとつは、高層ビルの中で交わされた会話。
伊集院の名を持つ人間たちが、監視役と結界のことを話し合う声。
もうひとつは、四十九囲区の外れのアパートで交わされた囁き。
アブホースの落し子の母娘が、
ひとりの少年をめぐって爪を立てる気配。
――渦は、それを舌で味見するように、静かに身じろぎした。
水面には何も映らない。
ただ、見えない場所で、地の底の淀みが少しだけ色を変える。
四十九囲区。
死と死苦の数字で縫い止められた道路十字の中心で、
人間と怪異と、そのどちらでもある者たちの利害が、
ゆっくりと、しかし確実に――
沈み口へと集まり始めていた。