回る。
回る。転る。
流転、流転の風々や。
第1体育館の二階手すりにもたれて、オレはぼんやりと階下を眺めていた。
フロアでは機械体操部と新体操部が練習中で、隅の方では卓球部がラケットを鳴らしている。
その奥、体育教師用の部屋の脇には格技場があって、そこを剣道・柔道・空手の各部が使う。
本来なら、紺の剣道着姿のオレも竹刀を振っている時間だ。
けれど、ふらりと非常口から二階の通路に出てきてしまった。
回る。
転る。
流転、流転の風々や。
そんな言葉が、頭の中に浮かんでは消える。
階下では、彩女があん馬の上でくるくると回っていた。
ほっそりとした華奢な背中から、きゅっと締まった尻、しなやかな脚が一本の線になって、スプリング鋼みたいな硬さと弾性を感じさせながら、止まることなく旋回している。
一見すれば華奢な体つき。
それでも、腕だけで体重を支えて回り続ける腕力。
クラスの男子のうち何人が腕相撲で勝てるだろう――たぶん三分の二は負ける。
額にうっすら汗を浮かべながら、それでも楽しそうに回り続ける彩女を見ていると、
――花が咲いた。
そう、感じた。
脚を閉じて回っていた彩女が、すっと脚を開いて開脚旋回に移る。
その動きに思わず見惚れた、そのとき――
彩女は急に身体を倒立させた。
手首の上に肘、肘の上に肩、肩の上に胸、その上に腰、そして長い下肢。
一本の線のようにまっすぐ伸びた、教科書の挿絵みたいにきれいな倒立から、そのままふわりと飛び降りる。
空中で身体をひねりながら回転し、オレのいる二階と向かい合うような位置に着地。
ふわっとポニーテールが揺れ、彩女の視線がまっすぐ、二階の手すり――オレの方を射抜いた。
「……あんた、さっきから何じろじろ見てるのよ! さっさと自分の練習に戻りなさい!」
きっと睨みつける彩女。
前までのオレなら、すぐさま怒鳴り返して、まともにその表情を見ることもなかっただろう。
でも今なら分かる。
たぶん、オレはこの表情が見たかったんだ。
確認したかったんだ。
一つ一つ、石を積み上げるみたいに、努力と研鑽を重ねたものが――
あれほど人を惹きつける力を持っていることを、あの“彼”に教えられたから。
自分の都合で怒るのではなく、本気で相手を思って叱ることがあるのだと、教えられたから。
一つ一つを積み上げてきた彩女は、今やダマスカス鋼のように輝きを放っている。
その彩女が、オレのことを心配して叱ってくれるのがうれしくて――
もしかしたらオレは、わざと怒らせていたのかもしれない、とすら思うようになった。
「……見てないよ」
「嘘ね」
間髪入れず、あっさり切り捨てられる。
……まあ、実際、見惚れてたんだけど。
「見てないって」
「嘘」
「……誰が見るかい、平たい胸……」
ぼそっと小声で言ったつもりだったが、彩女にはしっかり聞こえたらしい。
はっと胸元に手を当て、耳まで真っ赤に染めた彩女は、そのまま走り出した。
どこへ行くのかと思えば――隣の新体操部の方へ。
練習中の部員からクラブをひったくると、大きく振りかぶる。
周囲の生徒たちは、やれやれと言いたげな顔で、けれどどこか楽しそうに、彩女とオレを見ていた。
「青見の――――馬鹿ぁッ!!」
衆人環視のなか、彩女は新体操用のクラブを思いきりオレ目がけてぶん投げた。
ぎゅんぎゅんと唸りをあげて飛んでくるクラブ。
いつもながら、洒落にならない速度だ。
これを避ければ、二階奥の窓ガラスが確実に割れる。
――などと呑気に考えているうちに、顔面に直撃した。
……いや、手すりから見えているのは肩から上だけだから、狙いは最初からそこだ。
(本気で顔面狙いはないだろ……)
わざとらしく後ろに倒れ込みながら、そんな身勝手な文句が頭に浮かぶ。
怒らせたのはオレなんだから、何も言えないのに。
ひんやりしたコンクリートの感触を背中に感じながら、
それでもオレは、少しだけうれしくなってしまった。
クラブをぶつけられた頬はズキズキと痛み、自然と涙が滲んでくる。
それでも、こんな他愛もない日常のやりとりが、たまらなく愛おしい。
何でもない言葉の応酬。
昨日もあって、今日もあって、きっと明日も続いていくであろうやりとり。
同じように見えて、同じ日は一日もない。
少しだけオレが言い過ぎれば、
少しだけ彩女の虫の居所が悪ければ――
それだけで、こうしたやりとりは簡単に途切れてしまう。
あの事件なんか、なくたっていい。
それぞれが、ほんの少しだけ違う選択をしただけで、
日常なんて儚く壊れてしまう。
誰もが「当たり前」だと思っている日々。
強固で、簡単には揺らがないと思い込んでいる現実。
そこに、どこにも出口なんてないと信じている――それはきっと、とんでもない思い違いだ。
現実は、本当はどうしようもなく脆い。
奇跡みたいな偶然の積み重ねの上に、かろうじて立っている。
それを知ってしまってからは、世界がときどき恐ろしくなる。
だからこそ、せめて自分の手の届く範囲だけでも守りたい。
何でもない、退屈な日常が愛しくて、たまらない。
もし、あの事件を知らなくても――
きっとオレは、この瞬間を失いたくないと願っただろう。
みんなだって、心のどこかで同じように思っているはずだ。
そう思うと、人間もそんなに悪くないな、と感じられる。
人間であることが、平凡な日常が、堪らなく愛おしい。
誰の目にも届かない死角に転がったまま、流れてくる涙を拭いもしないで、
オレは心の底から、今という日常に感謝を送った。
天井の向こうに広がる青い空が――
瞳に、
沁みた。