/*/ 沈み口で、また雨 /*/
フォーシーズン・クロス郡山の閉店アナウンスが流れ終わる頃、
外は再び、細かい雨に包まれていた。
屋上駐車場から落ちてくる排水が、駐車場の片隅で細い滝になっている。
その落ち口――わずかに凹んだ一帯を、人は何となく避けて通る。
沈み口。
その名が、オカ研経由で高校生たちの間にも広まりつつあることを、
この場所だけが、濡れたアスファルトの下で静かに知っていた。
従業員口わきのひさしの下で、愛香はスマホを握りしめている。
「……遅い」
時間は、すでに二十二時近く。
バイトの初日は「閉店一時間前まで」のはずだったのに、
惣一郎からの「今上がった」メッセージは、まだ来ない。
代わりに、さっきから胸のあたりが、ずっとざわざわしている。
(呼んでる――)
沈み口が。
モールの地下、あの中陰の渦が。
それと、もうひとつ。
(惣くんの、匂い)
血で嗅ぐ匂い。
骨の奥から発される、あの甘い熱。
惣一郎の生命力は、普通の人より少しばかり強い。
だからこそ、夜逃げした両親にも、
児相にも、伊集院家にも、最後まで“拾われ続けた”。
そして今は、自分の中にも、その熱が少しずつ蓄えられている。
――惣くんを守るために、惣くんを喰っている。
矛盾したその事実が、雨の日には少しだけ重くなる。
ピロン、と着信音。
ようやくメッセージが入った。
《悪い、ちょっと片付け長引いた。
今から従業員通路の方から出る》
「……ったくもう」
口では文句を言いながら、ひさしから一歩、雨の中に踏み出す。
その瞬間――足元の水たまりが、ぴくり、と震えた。
駐車場の中央付近。
低くなった一帯に、排水ポンプのはずの方向とは逆向きに、水が溜まっていく。
ポンプは唸っているのに、水位が上がる。
さらさら流れていくはずの水面が、どこか“吸い寄せられている”。
(……始まった)
愛香は、息を詰めた。
/*/ 地下への誘い /*/
その頃。
バックヤードの片隅で、モップを立てかけていた惣一郎は、
耳の奥がツーンとするような、妙な圧を感じていた。
「ん?」
PAの電源は落ちている。閉店後のBGMもない。
なのに、どこか“低い音”だけが鳴り続けている感覚。
心音に似ている。
遠くで鳴る、巨大な鼓動のような。
廊下の非常灯が、ぱち、と一瞬だけ明滅した。
「うわ、ホラーゲーム始まった?」
思わず口から出る。
さっきまで一緒にいた先輩バイトたちは、すでに更衣室に向かっている。
この廊下にいるのは、今は彼ひとりだ。
(……いやいや。
初日からビビってどうする、俺)
自分にツッコミを入れつつ、惣一郎は従業員通用口へ向けて歩き出した。
が、途中で、不意に足が止まる。
廊下の突き当たり。
「B1・機械室」と書かれたドアのランプが、
非常灯とは逆に、今、ぼんやりと点いた気がしたのだ。
「……んん?」
さっき、設備の人と一緒に地下ピットまで行った時は、
あのランプは完全に消えていたはずだ。
『この扉は、基本的に施錠。
俺ら設備がいる時以外は、君たちバイトは近づかないようにね』
そう、念を押されたばかりだ。
「気のせい……だよな?」
そう言いながら、一歩近づいてみる。
ランプは消えている。何もおかしくない。
ほっとして踵を返そうとした瞬間――
背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。
(呼んでる)
そう思った。
誰が、とは分からない。
何が、でもいい。
ただ、“下”から伸びてくる何かが、
足首を、脳の奥を、やけにしつこく撫でてくる。
「……ちょっとだけ」
止められるなら、誰かに止めてほしかった。
けれど、この廊下には、自分しかいない。
惣一郎は、ドアノブに手をかけた。
カチャリ。
鍵は、開いていた。
「うわ、ほんとにホラーゲームの導線なんだが」
文句を言いながらも、扉を開けてしまうあたりが、
伊東惣一郎という男の、一番面倒なところだ。
湿った空気が、ふわりと流れ出てきた。
/*/ 駐車場での「落ち口」 /*/
雨脚はたいして強くないのに、
沈み口のあたりだけ、妙に水音が大きい。
愛香は、ひさしを離れて駐車場の方へ歩き出した。
アスファルトの上に広がる水たまりが、
まるで呼吸する生き物のように、ふくれたり、しぼんだりしている。
「……いやな感じ」
低いところに溜まった水は、
本来なら排水溝へ向かって細い流れを作る。
だが今は、その流れが途中で“逆流”していた。
水の筋が、ゆっくりと、沈み口の中心に向かって這い寄っていく。
まるで何本もの透明な触手が、そこへ集まっているみたいに。
ぽちゃん、と水面がはねた。
車なんて走っていないのに。
誰も踏み入っていないのに。
愛香の皮膚の下で、“なにか”が反応する。
(渦が、起きてる)
沈み口モールの地下ピットで見たあの水面。
稲の根と、鎮田と、そのもっと下。
中陰の渦。
それが今、上まで“響き”を届けている。
――惣くん、地下に降りてる。
確信に近い感覚が、胸のあたりを締め付けた。
愛香は、駐車場を横切って従業員通用口へと走り出す。
雨粒が頬を叩くたび、体の奥でひげ根のような“何か”がうずく。
「勝手に、呼ばないでよ……」
誰にともなく、そう呟いた。
/*/ 胎動する水面 /*/
薄暗い階段を降りきると、そこはB1の機械室前廊下だった。
昼間は人や音でごちゃごちゃしていたはずの空間が、
今は、やけに広くて冷たい。
非常灯の緑が、冷蔵庫みたいな色で光っている。
惣一郎は、自分の足音がやたらと大きく響くのを気にしながら、
地下ピットへ続く金属扉の前に立った。
ドアの向こうから、水音がする。
ちょろちょろというより、どぷ、どぷ、と濃い音だ。
「……設備の人、閉め忘れた?」
ドアの隙間に指をかける。
押した瞬間、手のひらにぬるりとした冷気がまとわりついた。
扉が開く。
そこは、昨日と同じ、いや、少しだけ様子の違う地下ピットだった。
コンクリートの床が、足元近くまで水に浸かっている。
排水ポンプの金属音が、かすかに聞こえるのに、
水位は下がる気配がない。
「マジかよ……」
水面には、何かが映っていた。
最初は、天井の配管や、自分の顔。
その次に――
水田。
沈み口の埋め立て前の、鎮田の窪地。
そして、そのもっと前。
惣一郎の目には、それが具体的に何かまでは分からない。
けれど、“今ここにはないもの”が映っていることだけは、はっきりと分かった。
ざわ……と、耳鳴りがする。
(やばいやばいやばい)
脳のどこかが、警報を鳴らす。
足を引き返さなきゃと頭では思うのに、
体は一歩、また一歩と、水際へと近づいていく。
足首に、ひやりとしたものが絡みついた。
「っ!?」
見下ろすと、水面のすぐ上を、
泥と稲の根の切れ端のようなものが、蛇のように這っていた。
それが、アスファルトの上に伸びていた水の筋と同じ“流れ”だと気づいた瞬間――
ぐい、と強い力が足を引いた。
「――――!」
バランスを崩して、前のめりに倒れそうになる。
視界いっぱいに広がる、水面。
そこに映るのは、沈み口でも鎮田でもない。
暗い洞窟。
涸れた井戸。
蠢く肉。
見たこともないはずなのに、“懐かしさ”が喉を締めつけた。
「惣くん!」
腕をつかまれる感覚が、一瞬遅れてやってきた。
強い力で肩を引き寄せられ、そのまま後ろに倒れ込む。
床に背中を打ちつける痛みと同時に、
足首を締め付けていた冷たさが、別の方向へと引き剥がされていく。
息を整えながら目を向けると、
愛香が水際に片膝をつき、足首を掴まれたままの惣一郎を、自分の方へ引き寄せていた。
「惣……くんの、バカ……!」
声は震えているのに、握力はやたらと強い。
「ちょ、愛香!? なんで――」
「迎えに来たの。……勝手に、地下なんか来ないで」
怒っている。
けれど、その怒りの奥にあるのは、明らかに別の感情だ。
水面が、二人の姿を映す。
そこに、別の“影”が重なる。
涸れ井戸。
断崖の洞窟。
まれびとを迎える喜多島の夜。
それは、愛香だけが知っている風景だ。
だが今は、水面越しに、それが惣一郎の瞳にも薄く焼きついている。
(繋がってる――)
沈み口の渦が、
喜多島の胎蔵の残りかすを嗅ぎ取った。
そして、その“媒介”としての惣一郎も。
足首に絡みつく泥と根の束が、
ゆっくり、しかし確実に、惣一郎を水の方へ引きずろうとする。
愛香は、ぎゅっと彼の腕を抱き寄せた。
「惣くん、目ぇ閉じて」
「え?」
「いいから!」
ほとんど叫ぶように言って、自分も目を閉じる。
皮膚の下で、“それ”が動き始めた。
アブホースの落し子としての肉が、
沈み口の「向こう側」に向かって、触手を伸ばしていく感覚。
血管が熱くなり、次の瞬間、氷のように冷える。
足の裏から、ひげ根のような“影”がコンクリートに広がり、
見えない床をがっちりと掴む。
自分が、沈み口の“反対側”に根を張るようなイメージ。
(こっちは、こっちの“底”があるんだから)
喜多島の涸れ井戸。
アブホースの胎蔵。
そこに繋がる血筋を、今だけ本気で引っ張り出す。
水面の向こうの“渦”が、一瞬、戸惑ったように揺れた。
同じ種類の匂い。
同じ淀み。
それでいて、“管理者”が違う。
「惣くん、こっちに、ちょうだい」
囁いた声は、自分でも驚くほど甘かった。
「な、なにを……」
「全部じゃない。……少しでいいから」
腕の中の惣一郎の体温が、じわじわと流れ込んでくる。
今まで、ゆっくりと時間をかけて啜っていた“糧”を、
今日は一気に、深くまで飲み込む。
マジック・ポイントとか、POWとか。
そういう数値にできないくらい、濃い“何か”。
惣一郎の中から、それが愛香の中へと流れ込むたび、
沈み口の渦が、少しだけ怯んだ。
“こいつは、もうこっちのものだ”と宣言するみたいに。
惣一郎の指先が、愛香の服をぎゅっと掴む。
「……なんか、やべぇ……」
息が荒い。
目を閉じているはずなのに、瞼の裏で星が瞬いている。
高熱と、酔いと、酸欠が一緒になったような感覚。
それでも、不思議と恐怖はなかった。
(あー……これ、多分、ろくでもないことに巻き込まれてるんだろうな……)
そんな、いつもの自虐めいた認識と同時に――
(でも、手を離したくねぇな)
腕の中の温もりだけが、やけに現実的だった。
「惣くん」
耳元で、愛香の声が落ちる。
「もし、沈み口に持ってかれそうになったらさ。
わたしも一緒に沈むから」
「や、いや、それは止めて」
「だから、沈むくらいなら、わたしが先に食べる。
惣くんのこと、もっと繋いでおく」
「……日本語でおk」
「日本語で言ってるよ」
くすっと笑う気配がして、
その笑い声に、沈み口のざわめきが、ほんの少しだけ押し返されていく。
/*/ “契約”としてのキス未満 /*/
どれくらい、そうしていただろう。
やがて、足首を締め付けていた冷たさが、すっとほどけた。
代わりに、靴下の中にじわりと広がるぬるい感触だけが残る。
水面の映像が、ぱちぱちとノイズを走らせる。
洞窟も、涸れ井戸も、田んぼも、沈み口も、全部いったん崩れて、
ただのコンクリート天井だけが映る。
胎動の音が、遠ざかる。
それは完全に消えたわけではないが、
今夜、“こっち側”に手を伸ばすのをやめた。
愛香は、そっと目を開けた。
腕の中には、額に汗を浮かべた惣一郎。
距離は、息がかかるほど近い。
けれど、あと一歩を踏み越えるには、まだ高校生でいたかった。
代わりに、彼の額に自分の額をそっと当てる。
それはキスではない。
けれど、“契約”としては、十分すぎるほど深い接触だった。
「……これで、少しはマシ」
「なにが?」
「惣くんの“場所”。
沈み口から、こっちに引き寄せておいた」
「こっちって?」
「わたしのとこ」
さらりと言う。
「勝手に、共有設定しないでくれません?」
「クラウド共有じゃないから。ローカルだから」
「余計タチ悪いわ!」
喉をからからにしながらツッコむと、
愛香はほっとしたように笑った。
/*/ 地上の雨、ふたりの影 /*/
地下ピットから地上へ戻る頃には、雨はほとんど上がっていた。
駐車場の水たまりも、さっきよりだいぶ浅くなっている。
ただ一か所。
沈み口のへこみだけ、まだ小さな水面を残していた。
そこには、ふたり分の影が映っている。
ひとつは、背の高い少年。
もうひとつは、その腕にしがみつくように並ぶ少女。
影同士が、ほんの少し、輪郭を重ねた。
「……なあ、愛香」
「なに?」
「さっきのってさ。
やっぱ、お前の“アレ”なんだよな」
「アレって?」
「その、えっと。
なんかこう、ヌメッとした、クトゥルフ的なアレ」
「ニュアンス雑すぎない?」
言葉に詰まる惣一郎を横目で見ながら、
愛香は少しだけ真面目な顔に戻る。
「……そのうち、ちゃんと話すよ。
喜多島のこととか、わたしのこととか。
でも今は、とりあえず」
彼の腕に、ぎゅっと力を込める。
「惣くんが“沈み口の夜勤枠”にチェック入れたりしたら、
その瞬間ぶっ飛ばすから」
「こっわ! でも、ありがとう?」
「うん。
だから、ちゃんと生きてて。
わたしが守れる範囲にいて」
「……しゃーねーな」
惣一郎は、わざとらしく肩をすくめた。
「じゃ、その範囲、広めに見積もっといてくれよ。
オカルト的に面白そうなとこ、だいたい全部入るから」
「それが一番の問題なんだよね」
そんな会話をしながら、ふたりは四十九囲区の夜道へ歩き出す。
背後で、沈み口の小さな水たまりが、
ひとつ、ふたつ、静かに波紋を広げた。
中陰の渦は、今夜の“胎動”で、ひとつ学んだ。
――この街には、
すでに別の淀みが根を張っていること。
――その淀みが、ひとりの少年を
自分よりも深く、強く、
「繋ぎ止め」ようとしていること。
それは、渦にとっても、なかなかに魅力的な味だった。