なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

70 / 240
キス未満

 

 

/*/ 沈み口で、また雨 /*/

 

 

 フォーシーズン・クロス郡山の閉店アナウンスが流れ終わる頃、

 外は再び、細かい雨に包まれていた。

 

 屋上駐車場から落ちてくる排水が、駐車場の片隅で細い滝になっている。

 その落ち口――わずかに凹んだ一帯を、人は何となく避けて通る。

 

 沈み口。

 

 その名が、オカ研経由で高校生たちの間にも広まりつつあることを、

 この場所だけが、濡れたアスファルトの下で静かに知っていた。

 

 従業員口わきのひさしの下で、愛香はスマホを握りしめている。

 

「……遅い」

 

 時間は、すでに二十二時近く。

 バイトの初日は「閉店一時間前まで」のはずだったのに、

 惣一郎からの「今上がった」メッセージは、まだ来ない。

 

 代わりに、さっきから胸のあたりが、ずっとざわざわしている。

 

(呼んでる――)

 

 沈み口が。

 モールの地下、あの中陰の渦が。

 それと、もうひとつ。

 

(惣くんの、匂い)

 

 血で嗅ぐ匂い。

 骨の奥から発される、あの甘い熱。

 

 惣一郎の生命力は、普通の人より少しばかり強い。

 だからこそ、夜逃げした両親にも、

 児相にも、伊集院家にも、最後まで“拾われ続けた”。

 

 そして今は、自分の中にも、その熱が少しずつ蓄えられている。

 

 ――惣くんを守るために、惣くんを喰っている。

 

 矛盾したその事実が、雨の日には少しだけ重くなる。

 

 ピロン、と着信音。

 ようやくメッセージが入った。

 

《悪い、ちょっと片付け長引いた。

 今から従業員通路の方から出る》

 

「……ったくもう」

 

 口では文句を言いながら、ひさしから一歩、雨の中に踏み出す。

 その瞬間――足元の水たまりが、ぴくり、と震えた。

 

 駐車場の中央付近。

 低くなった一帯に、排水ポンプのはずの方向とは逆向きに、水が溜まっていく。

 

 ポンプは唸っているのに、水位が上がる。

 さらさら流れていくはずの水面が、どこか“吸い寄せられている”。

 

(……始まった)

 

 愛香は、息を詰めた。

 

 

/*/ 地下への誘い /*/

 

 

 その頃。

 バックヤードの片隅で、モップを立てかけていた惣一郎は、

 耳の奥がツーンとするような、妙な圧を感じていた。

 

「ん?」

 

 PAの電源は落ちている。閉店後のBGMもない。

 なのに、どこか“低い音”だけが鳴り続けている感覚。

 

 心音に似ている。

 遠くで鳴る、巨大な鼓動のような。

 

 廊下の非常灯が、ぱち、と一瞬だけ明滅した。

 

「うわ、ホラーゲーム始まった?」

 

 思わず口から出る。

 

 さっきまで一緒にいた先輩バイトたちは、すでに更衣室に向かっている。

 この廊下にいるのは、今は彼ひとりだ。

 

(……いやいや。

 初日からビビってどうする、俺)

 

 自分にツッコミを入れつつ、惣一郎は従業員通用口へ向けて歩き出した。

 が、途中で、不意に足が止まる。

 

 廊下の突き当たり。

 「B1・機械室」と書かれたドアのランプが、

 非常灯とは逆に、今、ぼんやりと点いた気がしたのだ。

 

「……んん?」

 

 さっき、設備の人と一緒に地下ピットまで行った時は、

 あのランプは完全に消えていたはずだ。

 

『この扉は、基本的に施錠。

 俺ら設備がいる時以外は、君たちバイトは近づかないようにね』

 

 そう、念を押されたばかりだ。

 

「気のせい……だよな?」

 

 そう言いながら、一歩近づいてみる。

 ランプは消えている。何もおかしくない。

 

 ほっとして踵を返そうとした瞬間――

 背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。

 

(呼んでる)

 

 そう思った。

 

 誰が、とは分からない。

 何が、でもいい。

 ただ、“下”から伸びてくる何かが、

 足首を、脳の奥を、やけにしつこく撫でてくる。

 

「……ちょっとだけ」

 

 止められるなら、誰かに止めてほしかった。

 けれど、この廊下には、自分しかいない。

 

 惣一郎は、ドアノブに手をかけた。

 

 カチャリ。

 鍵は、開いていた。

 

「うわ、ほんとにホラーゲームの導線なんだが」

 

 文句を言いながらも、扉を開けてしまうあたりが、

 伊東惣一郎という男の、一番面倒なところだ。

 

 湿った空気が、ふわりと流れ出てきた。

 

/*/ 駐車場での「落ち口」 /*/

 

 雨脚はたいして強くないのに、

 沈み口のあたりだけ、妙に水音が大きい。

 

 愛香は、ひさしを離れて駐車場の方へ歩き出した。

 

 アスファルトの上に広がる水たまりが、

 まるで呼吸する生き物のように、ふくれたり、しぼんだりしている。

 

「……いやな感じ」

 

 低いところに溜まった水は、

 本来なら排水溝へ向かって細い流れを作る。

 だが今は、その流れが途中で“逆流”していた。

 

 水の筋が、ゆっくりと、沈み口の中心に向かって這い寄っていく。

 まるで何本もの透明な触手が、そこへ集まっているみたいに。

 

 ぽちゃん、と水面がはねた。

 

 車なんて走っていないのに。

 誰も踏み入っていないのに。

 

 愛香の皮膚の下で、“なにか”が反応する。

 

(渦が、起きてる)

 

 沈み口モールの地下ピットで見たあの水面。

 稲の根と、鎮田と、そのもっと下。

 中陰の渦。

 

 それが今、上まで“響き”を届けている。

 

 ――惣くん、地下に降りてる。

 

 確信に近い感覚が、胸のあたりを締め付けた。

 

 愛香は、駐車場を横切って従業員通用口へと走り出す。

 雨粒が頬を叩くたび、体の奥でひげ根のような“何か”がうずく。

 

「勝手に、呼ばないでよ……」

 

 誰にともなく、そう呟いた。

 

 

/*/ 胎動する水面 /*/

 

 

 薄暗い階段を降りきると、そこはB1の機械室前廊下だった。

 昼間は人や音でごちゃごちゃしていたはずの空間が、

 今は、やけに広くて冷たい。

 

 非常灯の緑が、冷蔵庫みたいな色で光っている。

 

 惣一郎は、自分の足音がやたらと大きく響くのを気にしながら、

 地下ピットへ続く金属扉の前に立った。

 

 ドアの向こうから、水音がする。

 ちょろちょろというより、どぷ、どぷ、と濃い音だ。

 

「……設備の人、閉め忘れた?」

 

 ドアの隙間に指をかける。

 押した瞬間、手のひらにぬるりとした冷気がまとわりついた。

 

 扉が開く。

 

 そこは、昨日と同じ、いや、少しだけ様子の違う地下ピットだった。

 

 コンクリートの床が、足元近くまで水に浸かっている。

 排水ポンプの金属音が、かすかに聞こえるのに、

 水位は下がる気配がない。

 

「マジかよ……」

 

 水面には、何かが映っていた。

 

 最初は、天井の配管や、自分の顔。

 その次に――

 水田。

 沈み口の埋め立て前の、鎮田の窪地。

 そして、そのもっと前。

 

 惣一郎の目には、それが具体的に何かまでは分からない。

 けれど、“今ここにはないもの”が映っていることだけは、はっきりと分かった。

 

 ざわ……と、耳鳴りがする。

 

(やばいやばいやばい)

 

 脳のどこかが、警報を鳴らす。

 足を引き返さなきゃと頭では思うのに、

 体は一歩、また一歩と、水際へと近づいていく。

 

 足首に、ひやりとしたものが絡みついた。

 

「っ!?」

 

 見下ろすと、水面のすぐ上を、

 泥と稲の根の切れ端のようなものが、蛇のように這っていた。

 

 それが、アスファルトの上に伸びていた水の筋と同じ“流れ”だと気づいた瞬間――

 ぐい、と強い力が足を引いた。

 

「――――!」

 

 バランスを崩して、前のめりに倒れそうになる。

 視界いっぱいに広がる、水面。

 そこに映るのは、沈み口でも鎮田でもない。

 

 暗い洞窟。

 涸れた井戸。

 蠢く肉。

 

 見たこともないはずなのに、“懐かしさ”が喉を締めつけた。

 

「惣くん!」

 

 腕をつかまれる感覚が、一瞬遅れてやってきた。

 

 強い力で肩を引き寄せられ、そのまま後ろに倒れ込む。

 床に背中を打ちつける痛みと同時に、

 足首を締め付けていた冷たさが、別の方向へと引き剥がされていく。

 

 息を整えながら目を向けると、

 愛香が水際に片膝をつき、足首を掴まれたままの惣一郎を、自分の方へ引き寄せていた。

 

「惣……くんの、バカ……!」

 

 声は震えているのに、握力はやたらと強い。

 

「ちょ、愛香!? なんで――」

 

「迎えに来たの。……勝手に、地下なんか来ないで」

 

 怒っている。

 けれど、その怒りの奥にあるのは、明らかに別の感情だ。

 

 水面が、二人の姿を映す。

 そこに、別の“影”が重なる。

 

 涸れ井戸。

 断崖の洞窟。

 まれびとを迎える喜多島の夜。

 

 それは、愛香だけが知っている風景だ。

 だが今は、水面越しに、それが惣一郎の瞳にも薄く焼きついている。

 

(繋がってる――)

 

 沈み口の渦が、

 喜多島の胎蔵の残りかすを嗅ぎ取った。

 

 そして、その“媒介”としての惣一郎も。

 

 足首に絡みつく泥と根の束が、

 ゆっくり、しかし確実に、惣一郎を水の方へ引きずろうとする。

 

 愛香は、ぎゅっと彼の腕を抱き寄せた。

 

「惣くん、目ぇ閉じて」

 

「え?」

 

「いいから!」

 

 ほとんど叫ぶように言って、自分も目を閉じる。

 

 皮膚の下で、“それ”が動き始めた。

 アブホースの落し子としての肉が、

 沈み口の「向こう側」に向かって、触手を伸ばしていく感覚。

 

 血管が熱くなり、次の瞬間、氷のように冷える。

 足の裏から、ひげ根のような“影”がコンクリートに広がり、

 見えない床をがっちりと掴む。

 

 自分が、沈み口の“反対側”に根を張るようなイメージ。

 

(こっちは、こっちの“底”があるんだから)

 

 喜多島の涸れ井戸。

 アブホースの胎蔵。

 そこに繋がる血筋を、今だけ本気で引っ張り出す。

 

 水面の向こうの“渦”が、一瞬、戸惑ったように揺れた。

 

 同じ種類の匂い。

 同じ淀み。

 それでいて、“管理者”が違う。

 

「惣くん、こっちに、ちょうだい」

 

 囁いた声は、自分でも驚くほど甘かった。

 

「な、なにを……」

 

「全部じゃない。……少しでいいから」

 

 腕の中の惣一郎の体温が、じわじわと流れ込んでくる。

 今まで、ゆっくりと時間をかけて啜っていた“糧”を、

 今日は一気に、深くまで飲み込む。

 

 マジック・ポイントとか、POWとか。

 そういう数値にできないくらい、濃い“何か”。

 

 惣一郎の中から、それが愛香の中へと流れ込むたび、

 沈み口の渦が、少しだけ怯んだ。

 

 “こいつは、もうこっちのものだ”と宣言するみたいに。

 

 惣一郎の指先が、愛香の服をぎゅっと掴む。

 

「……なんか、やべぇ……」

 

 息が荒い。

 目を閉じているはずなのに、瞼の裏で星が瞬いている。

 

 高熱と、酔いと、酸欠が一緒になったような感覚。

 それでも、不思議と恐怖はなかった。

 

(あー……これ、多分、ろくでもないことに巻き込まれてるんだろうな……)

 

 そんな、いつもの自虐めいた認識と同時に――

 

(でも、手を離したくねぇな)

 

 腕の中の温もりだけが、やけに現実的だった。

 

「惣くん」

 

 耳元で、愛香の声が落ちる。

 

「もし、沈み口に持ってかれそうになったらさ。

 わたしも一緒に沈むから」

 

「や、いや、それは止めて」

 

「だから、沈むくらいなら、わたしが先に食べる。

 惣くんのこと、もっと繋いでおく」

 

「……日本語でおk」

 

「日本語で言ってるよ」

 

 くすっと笑う気配がして、

 その笑い声に、沈み口のざわめきが、ほんの少しだけ押し返されていく。

 

 

/*/ “契約”としてのキス未満 /*/

 

 

 どれくらい、そうしていただろう。

 

 やがて、足首を締め付けていた冷たさが、すっとほどけた。

 代わりに、靴下の中にじわりと広がるぬるい感触だけが残る。

 

 水面の映像が、ぱちぱちとノイズを走らせる。

 洞窟も、涸れ井戸も、田んぼも、沈み口も、全部いったん崩れて、

 ただのコンクリート天井だけが映る。

 

 胎動の音が、遠ざかる。

 それは完全に消えたわけではないが、

 今夜、“こっち側”に手を伸ばすのをやめた。

 

 愛香は、そっと目を開けた。

 

 腕の中には、額に汗を浮かべた惣一郎。

 距離は、息がかかるほど近い。

 けれど、あと一歩を踏み越えるには、まだ高校生でいたかった。

 

 代わりに、彼の額に自分の額をそっと当てる。

 

 それはキスではない。

 けれど、“契約”としては、十分すぎるほど深い接触だった。

 

「……これで、少しはマシ」

 

「なにが?」

 

「惣くんの“場所”。

 沈み口から、こっちに引き寄せておいた」

 

「こっちって?」

 

「わたしのとこ」

 

 さらりと言う。

 

「勝手に、共有設定しないでくれません?」

 

「クラウド共有じゃないから。ローカルだから」

 

「余計タチ悪いわ!」

 

 喉をからからにしながらツッコむと、

 愛香はほっとしたように笑った。

 

 

/*/ 地上の雨、ふたりの影 /*/

 

 

 地下ピットから地上へ戻る頃には、雨はほとんど上がっていた。

 駐車場の水たまりも、さっきよりだいぶ浅くなっている。

 

 ただ一か所。

 沈み口のへこみだけ、まだ小さな水面を残していた。

 

 そこには、ふたり分の影が映っている。

 

 ひとつは、背の高い少年。

 もうひとつは、その腕にしがみつくように並ぶ少女。

 

 影同士が、ほんの少し、輪郭を重ねた。

 

「……なあ、愛香」

 

「なに?」

 

「さっきのってさ。

 やっぱ、お前の“アレ”なんだよな」

 

「アレって?」

 

「その、えっと。

 なんかこう、ヌメッとした、クトゥルフ的なアレ」

 

「ニュアンス雑すぎない?」

 

 言葉に詰まる惣一郎を横目で見ながら、

 愛香は少しだけ真面目な顔に戻る。

 

「……そのうち、ちゃんと話すよ。

 喜多島のこととか、わたしのこととか。

 

 でも今は、とりあえず」

 

 彼の腕に、ぎゅっと力を込める。

 

「惣くんが“沈み口の夜勤枠”にチェック入れたりしたら、

 その瞬間ぶっ飛ばすから」

 

「こっわ! でも、ありがとう?」

 

「うん。

 だから、ちゃんと生きてて。

 わたしが守れる範囲にいて」

 

「……しゃーねーな」

 

 惣一郎は、わざとらしく肩をすくめた。

 

「じゃ、その範囲、広めに見積もっといてくれよ。

 オカルト的に面白そうなとこ、だいたい全部入るから」

 

「それが一番の問題なんだよね」

 

 そんな会話をしながら、ふたりは四十九囲区の夜道へ歩き出す。

 

 背後で、沈み口の小さな水たまりが、

 ひとつ、ふたつ、静かに波紋を広げた。

 

 中陰の渦は、今夜の“胎動”で、ひとつ学んだ。

 

 ――この街には、

 すでに別の淀みが根を張っていること。

 

 ――その淀みが、ひとりの少年を

 自分よりも深く、強く、

 「繋ぎ止め」ようとしていること。

 

 それは、渦にとっても、なかなかに魅力的な味だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。